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『華氏451度』 本より先に失われたもの

華氏451度」は名作の誉れ高過ぎて、またあまりに啓蒙主義っぽそうな匂いがしていて、何より読後感が落ち込むことになりそうで……ずっと読まずに来たのだが。
 ずいぶん前のことだが、NHK Eテレの「100分de名著」で取り上げられたのをうっかり観て、急に興味が湧いて読んだのである。

 特に気になったのは、番組では「唐突に現れるこのオチ!」みたいな感じで紹介されていた結末で、ある種のアンバランスさを感じて俄然惹きつけられてしまったのだ。私はどうも、バランスの悪い物語に惹かれる傾向がある。
 実際に読んでみたら、番組で紹介されていたほど唐突ではなくて(笑)キッチリまめまめしく伏線が張ってあり、そういう意味ではむしろ整った物語だったのだが。

 それはそれとして、この本を読んでいて、番組の紹介内容や、番組視聴時に抱いたものとは、かなり違う作品像が脳裏に描かれたので、書いておく次第。


「華氏451度」は、本が失われ本が敵視され本が焼かれるディストピア世界の物語で、最後にその世界自身が核の炎に包まれて焼き滅ぼされ、残された本の記憶を携えた数少ない人間が新しい世界を作っていこうと歩き出す話……ということになっている。
 それでいて、本質的には書籍至上主義でもなくて、大切なのは本がもともと宿していた機能、すなわち過去の記憶を蓄えること、それを振り返ること、未来によりよいものを作って遺していくことである、と繰り返し述べている。

 本が社会から排除された理由は、「一九八四年」式の権力の専横というよりも、民衆が思考の重荷に耐えかねて自らそれを手放したという風に説明されている。
 といっても体制側の作中人物がそう語るだけなので、実際にはやはり権力機構による支配の結果と考える読者・批評者は多いようだ。

 作中のガジェットが、スマホやAirPodsのような今のネットガジェットにあまりにも近似しているので、そこに予言や慧眼を感じてキャッキャウフフと騒ぐことも可能なのだけど、そこについては私は興味がない。ある種の収斂進化みたいなものというか、一定以上に優れた未来思考が大体似てくる現象に過ぎないと思う。「ドラえもんはSiriを予言していた!」と言うのがギャグでしかないのと同じで。

★★★

 ただ、私は読んでいて、この世界に欠落している別のものが、本の存在よりも強く意識されて仕方なかった。

 この物語には、心の交流がない。

 主人公のガイ・モンターグは、誰とも対等のコミュニケーションを持たない。たぶん一番それに近似した関係性を持ったのは冒頭でのクラリスとの会話で、17歳の少女としか対等に話せないというところが何とも色々な欠落を感じさせてしまうのだが、そのクラリスとの会話にしても、どこか妖精にもてあそばれている雰囲気がある。
 上司のベイティーは、職場での上下関係を歪曲した、悪魔的誘惑者としてモンターグを征服にかかる。一方で、モンターグの味方となるフェイバーもまた「守護天使」のような形で彼に助言しようとするが、あくまで「わしは女王蜂、君は働き蜂」という上からスタンスを崩さない。

 最後に彼がめぐりあうブック・ピープルの人々は、彼を仲間として歓迎してくれるのだが、それはコミュニケーションという観点からは非常にあっさりと成されてしまう。グレンジャーは「顔つきを見ただけで、じゅうぶんなのさ」と、神様のようなお見通し力で承認してくれる。モンターグは何もコミュニケーションする必要がない。
「業績」を見せれば自動的に仲間入りできる、ホモソーシャル仕事社会のようなコミュニティだ。

 妻のミルドレッドに至っては、もはやアプリオリにコミュニケーション不可能な存在として描かれてしまっている。

 主人公が他者と苦労してコミュニケーションして自己変容していくのではなく、現れた課題をクリアしたら勝手にフラグが立って周りがお膳立てしてくれてシナリオが進んでいくゲームみたいに話が広がっていく。会話をしているようで会話がない。あるのは演説、引用、謎かけ、啓示、独り言。全ての登場人物が、無垢で無知な存在の成長物語という枠の中で、役割をあてはめられた存在だ。
 この作品はSF物語であるより先に寓話であるので、仕方のない構造ではあるのだけれど、それ以外の世界のディテールが妙に細部まで鮮やかに描かれる分、このコミュニケーション不在・お約束処理進行が浮き上がって来てしまう。

 思うに、この世界に本当に必要だったのは、本や記憶や内省とかいうレベルのものではなくて、「今目の前の現在の生身の人間」と向きあうという面倒さではなかったのだろうか。

★★★

 モンターグの視点で描写されるこの物語において、ミルドレッドは、夫よりもバーチャル家族ドラマとそれを放送するテレビを重視する、破綻した夫婦生活のアイコンのようになっている。普通に読めば「こんな妻ではモンターグが孤独にあえぐのも無理はない」と思ってしまうような存在だ。
 だが、実はこの描写こそがモンターグの「信頼できない語り手」部分である。ミルドレッドがこんな状態になっている原因は、モンターグ自身の振る舞いにあるのではないかと考えざるを得ないのだ。

 モンターグが老女を焼いてしまったショックのまま帰宅した日、何かを感じたとおぼしき描写とともに、ミルドレッドは「部屋のはしとはしとに据えてあって、冬の海の孤島のように孤独」な離れた彼のベッドに、わざわざやってきて頬に手を当ててくれる。
 この物語で、人が他の人に優しく触れる描写はほとんどない。その数少ない描写のひとつが、このミルドレッドの行為なのだ。そして、モンターグの方は……物語の最初から最後まで……ミルドレッドを思いやって優しく触れる瞬間がない!
(唯一、一緒に読書してくれと言う時に彼はミルドレッドを抱きしめるのだが、その直前に彼女を平手打ちしているし、思いやりや愛情というよりも懇願という文脈のコンタクトである)

 実のところ、ミルドレッドの方はモンターグをよく見つめているし、その様子を敏感に察しているくだりがしばしば出てくる。前述した100分de名著では「珍しくミルドレッドが話しかけてきて」と解説しているが、これはモンターグの語りに惑わされた解釈だ。
 しかも彼女は、モンターグの懇願につきあって、やったこともない価値も認めていない「読書」にチャレンジしてくれる。(読書経験のない人間が解説もなしに「ガリヴァー旅行記」や「ボズウェル伝」を読むとか、凄まじい苦行でしかあるまい)
 つまり、コミュニケーション拒否をしているようにモンターグが認識しているミルドレッドは実際には、すでに関係が破綻している現在でさえ頑張ってモンターグと触れ合おうとしていることがうかがえる。
 それなのに、モンターグはミルドレットの苦悩を配慮することがない。読んだ本の中にクラリスのことが書いてある!とか、俺はミルドレットを愛してない、とか言って自分の考えに右往左往するばかりなのである。

 モンターグはミルドレッドとの関係が破綻している理由を「おれとミルドレッドのあいだにバーチャル家族がはさまって壁を作っているからだ」と自分に説明しているが、それが欺瞞なのは明らかだ。
 理由は、モンターグの方がミルドレッドを「人間」として大切に扱おうとしない、彼女そのものに触れて寄り添い共感しようと思いもせず、彼女を外から勝手に分析して自己の思考の道具としてしか扱っていない――端的に言えば、彼がミルドレッドとの間に壁を作り、彼女の心を壊しているということだ。そして、彼はそれを自覚すらせず、ミルドレッドが自己防衛のために張り巡らさざるをえなかったバーチャル家族に責任転嫁しているのだ。

 ミルドレッドの視点から考えた時、モンターグとの生活は冷え冷えとした地獄である。
 夫は自分のことを愛しておらず、話をまともに聴かない。モンターグはミルドレッドの話すことを「二歳の幼児が放つ大人の口まね」と表現している!
 触れてくれることすらない――セックスという意味ではなく、もっと根源的な人間同士のぬくもりを分け合うという意味での触れ合いがない。
 物語でミルドレッドが求めるものは、モンターグの信頼できない語りの視点から見てすらかなりわかりやすく表出されている。それは「人間同士の触れ合い」であり、「まっすぐ自分を見て話をしてくれる人間が欲しい」ということだ。彼女が本を拒絶する理由はまさにそこにある。

「人間と違うのでさびしいわ。誰も出てきてくれるわけじゃなし」

『華氏451度』

 そしてモンターグがそれを満たす……いや、それ以前に彼女の求めを認識することすら、決してない。彼は自分の苦悩で頭がいっぱいで、自分の都合、自分の悩みをミルドレッドに押し付けるだけだ。
 ミルドレッドが睡眠薬を過剰摂取し、バーチャル家族に逃避し、整形や節食(恐らく拒食症なのだろう)を繰り返し、制限速度オーバーのドライブで思考を止めようとする心境は、痛いほどよくわかる。
 100分de名著の番組内では、ミルドレッドを思考停止社会の申し子のように解釈しているが、これほどまでにボロボロに傷ついている彼女に「思考せよ」「内省せよ」と言うのは、重病重傷者を「自分の免疫だけで治せ」と放置するに等しい所業ではなかろうか。
 彼女に必要なのは、考えることよりも内省よりも先に、まず愛情、尊重されているという実感であろう。

★★★

 この物語は、黙示録的な戦争によって「街」が滅び、そこにモンターグたちブック・ピープルが戻って新たな社会を作ろうとしていることを匂わせて終わる。これを「終末論的リセット」と100分de名著に登場した戸田山和久氏は批判しており、その批判にはうなずけるものがある。

 だが結局のところ、これから先に暗示されているブック・ピープルの試みは、恐らく失敗するだろう。
 ブック・ピープルの人々は、「世間の連中が内省するようになれば、われわれブック・ピープル(が保持してきた本という概念)を必要とするようになって、向こうから求めてくるだろう」と考えているようなのだが、自分たちが排除された理由についてかなりとんちんかんな思い違いをしているのではなかろうか。

 彼らは内省、自己理解、記録と記憶こそが人間を愚かさから引き上げると考えている。だが彼らは、そもそも人間というものを、理性と思考の器として考えていて、輪郭と感情と心のある存在として尊重していない。自己に向きあうよりもまず先に、他者からの思いやりと尊重がなければ人間が成り立たないことを理解していない。
 仮に街にわずかでも人間が残っていたとしても、自分たちを「人間扱い」せず、触れ合おうとしないブック・ピープルの啓蒙を受け入れるとは到底思えない。「あなたの話を聴こう」とはせず、「必要なら私のありがたい話を教えてあげますけど?」と遠巻きに見ている人間を、あなたは信用するだろうか。
(グレンジャーが「わしたちに向かって尋ねるだろう、その時こうこたえよう」と宣言し、モンターグが「なにをいえるだろうか?」と考えるのは強烈だ。どうやら彼らは、爆撃を体験し生き延びた人々の声を「聴く」気はないらしい)

 この世界に遺された「善き人々」には、人間を人間たらしめる心の土台が失われている。土台のないところに、崇高な理性の神殿を建てようとしても無理な相談だ。人間がお互いを尊重する心が失われているので、自己を見つめ直す鏡を作ろうが、過去を内省する本を印刷しようが、助け合うことができず滅びていくのだろう。
 最後のひとりとなった孤独なブック・ピープルのモンターグが、黙示録を暗誦しながら死んでゆき、その遺骸をたき火の炎が燃やしていく風景が、私の中での真のエンディングシーンである。

 そして、描写を丹念に読むとそういう結論にならざるを得ない形でこの物語を書いているブラッドベリも、もしかしたらこの「真のエンディング」を共有しているのではあるまいか?と、妄想たくましく思ってしまうと、ぞっとする。
 逆に、ブラッドベリがこの可能性を全く考えていなかったとしたら、物悲しいというか、選民主義と表裏一体のミソジニーや差別主義を自覚できなかったことが彼の限界だったのだろうかと思わずにはいられない。

 本を焼く者は人間をも焼くのだが、かといって本を大切にする者が人間を大切にしているとは、限らない。
 鏡に写した自分の顔よりも先に、隣の人の顔を見るべきである。

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