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『文字渦』 個人の妄想の限界を見る

『文字渦』円城塔著,新潮社,2021年発行

 結論から言うと、私とはあんまり相性のよくない本だった。読む前はかなり期待していたので、読後はとてもがっかりしたのを覚えている。
 著者の円城さんは、実は言葉というものをさほど大事に思ってない……フェティッシュな欲望に近いものはあっても、リスペクトがないんじゃないだろうか、と、読んでいてずっと感じていた。

 全編、漢字を自由自在に使って遊んでいるような物語で、そこには独特の軽みがあり、たぶん漢字や言語というものの伝統の重みに耐えかねているような人には、その軽やかさがすごく心地よいのだろうと想像する。
 文字がそれ自身昆虫のように動き始め踊り出す「闘字」とか、インベーダーゲームを漢字で表現した「天書」とか、紫上のために純粋な嘆きをこめて源氏物語を筆写し続ける人工知能「梅枝」とか、綺羅星のごとく輝くアイデアがキラキラした物語群だ。

 だがこの物語の中の言葉たちには、ライトファンタジー的な魔法力はあるのだけれど、現実の言葉にあるものが感じられない。
 なので、作中の境部さんに思い入れたっぷりに「かつて、言葉は生きていたと思わないかい?」と問われても、私の答えは、「え……この作品のどこに、生きている言葉が……?」となってしまう。

★★★

 私がそう感じてしまったのは、文字渦を読むずっと昔に、言語学者K.デイヴィッド・ハリソンが書いた『亡びゆく言語を話す最後の人々』を読んでいたからだと思う。

 言語というものに、何故力があるのか。それは、人間が長い歴史の中で積み重ねてきた営為が凝縮されたもの――叡知を、その中に詰め込んでいるからだ。

 たとえばこの本では、「エスキモーが雪を表す豊富な語彙を持つ」という事例が、かつて揶揄されそんなものは存在しないと主張されてきたことを延べ、その否定派の主張が、異言語を現代欧米文化の世界観で解釈しようとすることで生まれた誤りであると反論する。

 北極圏の一部の言語における雪/氷/風/気候に関する単語の数は驚くほど豊かで広範囲にわたり、そして複雑である。さらに言えば、クローン雪造語者は木を見て森を見ていない。言葉が知恵をどのように取りこむかという重要な部分に気づいていないのだ。こうした言語は雪や氷のような自然現象を示す言葉の数ばかりにとどまらず、言葉が効率的に情報をひとまとめにする、その複雑な方法をも示しているのである。

 ユピク族はきわめて有意義な環境情報をパッケージとして収集し伝えることができる……(中略)そこで用いられる氷や気候についての個々の用語に関連した文化的「パッケージ」全体なのだ。

『亡びゆく言語を話す最後の人々』第三章「言葉の力」

 言語が失われる時、その中にしか保存されていない叡知が失われてしまう。だからこそ、どんなマイナーな言語であっても、失われることがないように人類全体で努力していかなくてはならない……。
 ハリソンを始めとするたくさんの言語学者の途方もない熱意と努力と、にも関わらず今現在も言語が少しずつ失われていってしまっている喪失感、自分と同じ言葉を誰も話してくれない孤独にいる少数民族、だが単一化に抗いグローバリゼーションすらも武器にして、必死に言語、すなわち彼ら自身のいのちを守ろうとする人々の挑戦。

 そういった、現実の「言語」というものにこめられた重みとエネルギーの前では、オタクっぽいファンタジックな「神秘的な魔法」がどうにもお遊びっぽく見えてしまう。
 何と言うか、栄養豊かで美味しく食べられる稀少な食材を玩具として弄んでいる光景を目の当たりにした時の、あの不快感がうっすらとただようのである。

『文字渦』の中の言葉たちの神秘性やエネルギーは、やっぱり個人的な妄想の域を出ていなくて、それは円城塔さんの問題ではなく、長い年月をかけて積み重ねられてきた文化的パッケージ全体と比較するには、どんなに才能があっても個人では分が悪い、という厳然とした事実からくるのだろう。

★★★

 言語を扱った小説、としては、正直あまり実りを感じなかった『文字渦』だが、私はこれを、最初の短編「文字渦」の登場人物・嬴の長い旅路の物語として読んでいた。

 短編「文字渦」は、嬴が永遠に滅びない自らの像を作らせようとして、陶工の俑から「存在しないものは滅びない」という答えを得る物語なのだが、私はもしかしたら、嬴は「滅びない」ことが本当の目的ではなくて、「本当の自己」を見ようとしたのが目的ではなかったかと思うのだ。
 嬴は、絶えず揺らぎ続ける自己認識の中で、俑ほどの真実を見抜く人物の目を通してなら、揺らがない自己の本質を見出してもらえると期待していたのではあるまいか。
 だが俑の出した答えは、「あなたには本質など存在しない」という残酷なものであり、それを受け入れるしかなかった嬴は、自己を求めて彷徨い続けたのだろう。
 様々な時間空間を飛び交いながら、嬴は無限に増殖する光るテキストになったり、人工知能が筆記する物語の文字になったり、ルビに紛れて対「真実」レジスタント活動をする南朝の指導者になったりしながら、最後に嬴という文字のつくりを成す「女」文字にたどりつき、

わたしはつぎこそは、じぶんのことばにそだとうとおもう。

『文字渦』「かな」

 すなわち自己を作り出す出発点に立つ。
 ……われながら、あまりにも感傷的で陳腐な流れなのだけど、どうにもそう読めてしまって困った。
 もちろんそれを、皇帝という家父長制男性優位主義の根源だった存在が、女になることでようやく真実の自己を取り戻すというジェンダー論や多様性の観点から解釈してもいいのだけれど、何しろそういった深刻かつ本気で考えないと歯が立たない問題と絡めるには、作品全部がキワモノ的な意味で遊び過ぎていて、真剣にとりあげる気になれない。

 ただ、そう読むことで、嬴がようやく本当に生きたと思い、死ぬことができるというほのかな幸福感とともに、本を閉じることができたので、ほとんど自己防衛のために、この解釈をここに書いておくことにしよう。

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