トランスジェンダー(ヴァージニア・プリンス型)の定義とアンブレラタームの弊害

最終更新2024/07/08 04:00
旧題、『性同一性障害とトランスジェンダー』を読んで

「従来のジェンダー規範に当てはまらないジェンダー表現を有する人」を指す良い言葉って何かという問いは、確かに難しい問題なんですよね。お互いの言葉の意味の部分で少しずつずれている事があったり、時代によって意味が変化してたりしますからね。

ヴァージニア・プリンスのトランスジェンダー論(トランスジェンダリズム)について調べていて下記の記事に出会いました。

性同一性障害とトランスジェンダー|佳子という名で18で (note.com) https://note.com/yoshiko3/n/n1f639aa503c6 』を読んだけれど、たったの5年前の記事(もっとになるか、私がフェミニズムから離れてから9年後の記事、そして記事が書かれてから私と出会うまでの5年)だけれども、時代というか時間の差を感じました。体系的な考察をしようとしているところがおもしろい記事だと思ったので今の私なりの体系を書き残しておこうと思います。

参考文献としてはこちらも
トランスジェンダー*:用語の修辞的風景|佳子という名で18で (note.com) https://note.com/yoshiko3/n/n06ea3b8c56f6 』

はじめに、私自身も気づいていない偏見や誤解があるだろう事、および理解できていない部分や時間的制約(言語が変化していく環境)の下に、一個人としての見解として話をしている事を確認しておきます。

さて、私はトランスセクシャルとトランスジェンダーとノンバイナリー、ジェンダーノンコンフォーミングとクロスドレッサー、オートガイネフィリアとトランスヴェスタイトに対して、私はそれぞれ異なる社会参加の仕方をしている人々という理解の仕方をしています。

第1に、どの部分でtrans(越境)あるいはnon-confirming(従っていない)なのか、および何にbind(束縛)あるいはconstraint(制約)されているのかrestraint(拘束)されているのかというのが私の理解の仕方の中心です。

フェミニズムが「女性への偏見や差別」および「従来の性規範」に束縛されることに対して疑問を投げかけ「女性の可能性の解放」(法律などを含む社会的制約や拘束の緩和や変更)を目指すものであるというのであれば、その点では(本人が属していると自覚しているジェンダーとは別の次元で)期待されているジェンダー(現在の性規範あるいはregulationあるいはconventions)にnon-confirmingであると言えるでしょう。また、男性中心だった労働環境に女性が参加していくという場面では、ある意味ではtrans(越境)的とも言えるでしょう。

第2は、方向性と環境および能動的(治療の結果)か受動的(症状)かです。
トランスセクシャルの方々はジェンダーをトランスしないで身体の方をトランスしているわけで、厳密に言えばトランスジェンダーとは真逆の存在の様にも私には感じられます。また(身体の方をトランスすることは現代医学ではまだ生物学的には完了できていませんが)ジェンダーアイデンティティと身体の不一致が解消されれば、表現的には「既GID」とでも申しましょうか、「GID」の段階は過ぎ越してしまっているのではないかと私には感じられるのです(もちろん「既GID」の人が直面する社会的課題というか問題はあるのでしょうが)。またトランスジェンダーはジェンダーがトランス(受動的に)しちゃっているわけで、能動的にジェンダーをトランスしているわけではないという点です。

上ではGIDとか既GID(「性同一性障害(Gender Identity Disorder DSM-4およびICD-10)」)と表現しているけれども、その方が伝わりやすいと思ったからです。診断基準は改訂され現在は「性別違和(gender dysphoria DSM-5)」や「性別不合(Gender Incongruence ICD-11)」と呼ばれています。

DSM-5とは、『精神障害の診断と統計マニュアル 第5版』(2012年12月1日に、アメリカ精神医学会(APA)の理事委員会にて承認され、2013年5月18日に公開)のこと。
ICD-11とは、『国際疾病分類の第11回改訂版』(2019年5月に世界保健総会で採択され、2022年1月に発効)のこと。

ノンバイナリーも社会環境の分野では性規範などに対して「従っていない(能動的)」(ジェンダーバイアスフリー傾向)なのか、あるいは「束縛されていない(受動的)」(ジェンダーレス傾向)なのかで分けることが可能なのかもしれない。

補足として、ジェンダーノンコンフォーミングとノンバイナリーのことは性別違和が有るか無いかの違いだけで、社会環境の分野で「性別二元制に従っていないのか、あるいは従えていないのか、あるいは束縛されていないのか」くらいに包括的な言葉と思っています。

まとめ
性別違和なのか、社会環境なのか、嗜好なのか、指向なのかに分けて捉えようとしている自覚があります。
これを言っちゃうと反論があるかもしれませんが、重なる部分があるにせよ主に属する分野として私はトランスセクシャルとトランスジェンダーとノンバイナリーは性別違和の分野で、ジェンダーノンコンフォーミング(この分野ではトランスセクシャルとトランスジェンダーとノンバイナリーも期待されていた性規範に従えていなかったという点でジェンダーノンコンフォーミングの一部分、あるいは越境してしまった者あるいは越境しつつある者という別カテゴリーになるかもしれないが、という捉え方が出来るかもしれないと思っています)とクロスドレッサー(クロスドレッサーもジェンダーノンコンフォーミングの一表現型と捉える方法もあるかもしれない)は性別二元制の社会環境の分野で、オートガイネフィリアとトランスヴェスタイトは性的嗜好の分野で、レズビアンとゲイとバイセクシャルは性的指向および置かれた社会環境で捉えようとしている自覚が今はありますね。

trans(越境)に関しては、性別違和、社会的表現、社会環境、性規範、性的指向、性的嗜好などのどの分野で逸脱あるいは束縛や制約および越境が起きているのかという考え方というか視点で見ています。廃刀令によって帯刀が逸脱と見なされるようになることからも能動的か受動的かも重要なポイントではあります。

あと私がトランスセクシャルとトランスジェンダーとノンバイナリーを性別違和の分野で理解しようとしているのは、自閉症がスペクトラムなものとして理解されるようになってきているのと同様に、スペクトラムなものとして捉えようとしているからです。

なので私はLGBTのTをtrans(越境)と解釈している事が多いですね。

なので海外(翻訳)文献に当たるときには気を付けないといけないと、今読んでいる本に対しても思い知らされました(特例法の件もあってか比較的に日本語で書かれた本はトランスセクシャルとトランスジェンダーを分けて話してくれていることが多いと痛感させられました。あと日本語文献では「性別適合手術」=「Gender-affirming surgery (GAS)」または「Sex Reassignment Surgery (SRS) 」と理解していい場合が多いのですが、海外文献だと他の手術(胸や顔)なども大枠の「性別適合手術」の一部として統計していたり話していたりすることがあるんですよね。「ノンバイナリーの胸の手術」を「トランスジェンダーの性別適合手術」みたいな書き方をされていて本の内容を誤読しかけたり、統計方法の異なる統計結果を比較していたりする本があって内容を理解するのに苦労しています)。

「従来のジェンダー規範に当てはまらないジェンダー表現を有する人」を指す良い言葉としては他にgender-variant(偏差あるいは統計的な分散の状態という捉え方)、gender-nonconforming(他の人々と同じように行動したり考えたりしない状態という捉え方)、gender-diverse(多様な状態という捉え方)、あるいはgenderqueer(性別二元論に当てはまらないという捉え方、ただgenderqueerはジェンダーアイデンティティに言及する使い方がなされる事が多い)などが挙げられますが、どれが良いとも言い切れないでいます。


補足として
私にはジェンダーアイデンティティ(Gender Identity)を性自認と和訳する事に違和感があります。性別違和は思い込みの問題ではなく、感覚と自覚の問題であると私は思っています。そして現代の性別違和への医学的アプローチは根治療法ではなく対処療法であると捉えています。

「人殺しをしたくない」というアイデンティティは「感覚」と「自覚」および「自覚的行動」に支えられ、同時に誤ってあるいは必要に迫られて「人殺しをしてしまう可能性」がある事を「自覚」するとともに「他者への共感」と「自覚的行動」によってその可能性を避けられるよう求めたり求められたりします。

またその行為に「快感」を覚えるか「依存」しているのか「束縛」されているのか「拘束」されているのかは、また別の次元の問題として存在している様に感じています。
例えば自動車を運転する事が「快感」なのか、1時間歩いて出勤するのではなく自動車で通勤することに「依存」しているのか、自動車を運転しなければ通勤できない(タクシーやバスじゃダメなの?という)環境に「束縛」されているのか、社用車を運転する必要性に「拘束」されているのかでは、それぞれ置かれた環境が異なりますが自動車を運転する限り事故を起こす可能性に「束縛」されることになります。

熱が39度以上ある場合は職場や就学先へ連絡し医師の診察および診断を受けるよう求められることが多いでしょう。それは医師に風邪なのかインフルエンザなのか、あるいは別の何かなのかの診断をしてもらい適切な治療および処置を受けて職場などに復帰あるいは回復して頂く為および蔓延をさけて頂く為に求められるのです。

食物アレルギーがあるからその食材を控えることや痛みがあるから鎮痛剤を使うなどは原因を取り除く根治療法ではないですが重要な行為です。これらは認知行動療法によって支えられることもあるし、作業療法あるいはガイドライン等によって支えられることもあると私は理解しています。

私は視力が低下しているので眼鏡を掛けています。コンタクトレンズという選択肢やレーシック手術という選択肢もあるのでしょうが私は選択していません。また私は白内障などの外科的医療にかかる必要が今のところないので受けていません。

病気や怪我で医者にかからなければならない時がありますが、歯痛ならば産婦人科ではなく歯科(歯科、歯科口腔外科、口腔内科)へ、そして虫歯や歯肉炎の治療をし、抜歯が必要な場合は入れ歯やインプラントといった失った機能の回復の検討が必要となってくるでしょう。
足を痛めた時には回復はもとより失った機能を補うために松葉杖や車椅子や義足といったものを合わせて検討する場合があるでしょう。

根治療法も大切ですが対処療法も大切だと私は理解しているつもりです。そして対処療法には選択肢があることも理解しているつもりです。

以上の事から、トランスセクシャルとトランスジェンダーとノンバイナリーは性別違和のスペクトラムな症状あるいは症状を軽減するための対処療法の結果あるいは性別違和の強弱による差異を原因とした相異ではなく各個人が置かれた環境で性別違和に対応するためにそれぞれの環境に適応しようとしている結果であろうと私は現在のところ判断しています。付記するとするならば、性別違和に対する根治療法が「可能なのかどうか」と、それは「適切に行えるのかどうか」です。上記の様に認知行動療法などによって症状の軽減は出来ると思いますが、少なくとも当事者が自らの症状について理解したからといって、対処療法を受けるきっかけにはなっても、症状が無くなる(完治できる)ようなものではないと今のところ私は感じています。そして思い込みの問題は真っ先に除外診断されるべきものだろうとも考えています。そして思い込みは思い込みで認知行動療法などによって軽減あるいは対応していく必要が有るように感じています。


補足の補足として、(引用開始)『アメリカのヴァージニア・プリンスというトランスジェンダーの活動家が、一九七〇年代にトランスジェンダリズムを主張しました。身体を改変して、「ちゃんと普通の男・女に見える」ようにするのが私たちの生き方なんだっていうトランスセクシュアルの人に対して、「いや、別に男なのか女なのかわからないとか言われてもいいです。これが私」っていう主張がトランスジェンダリズム。トランスジェンダーという言葉には、実はこの発想も流れ込んでいる。だから、トランスジェンダーという単語って、ちゃんと自分の望む男や女に見えなきゃっていう抑圧みたいなものを解除するための言葉でもあった。』(ここまで引用 『慣れろ、おちょくれ、踏み外せ 性と身体をめぐるクィアな対話』 ISBN978—4-255-01348-0 朝日出版社 2023年7月初版 56ページより)、というのが私の理解(捉え方)のベースに近いものの一つです。

私としては「トランスジェンダリズム=性別(Sex)および社会的性別(Social Gender)および法律上の性別(Legal Gender)の意義を認めつつも、お互いに性別(Sex)および社会的性別(Social Gender)および性役割(Gender Role)および性規範(Gender Norms)を押し付けないようにしようね」という理解(解釈)ですね。

それから、自他が求める「男や女に見えなきゃっていう(内と外からの)圧力みたいなもの」(「性別違和によるもの」(内)と「シスジェンダー(Sex)としての性役割(Gender Role)および性規範(Gender Norms)とトランスセクシャル(Social Gender)としての性役割(Gender Role)および性規範(Gender Norms)とが表裏一体となっている性別(Sex)および社会的性別(Social Gender)および性役割(Gender Role)および性規範(Gender Norms)」(外))から私は解放されきってはいないですけれどね(出来てたらノンバイナリー及びトランスジェンダーというかたちでの越境はしてきてなかったっての)。

ヴァージニア・プリンスは外からの圧力に対してトランスジェンダリズム(Transgenderism)を主張していますが、内からの圧力(性別違和によるもの)に対してはトランスジェンダー(トランスジェンダリスト( Transgenderist ))という回答(譲歩)をしている様に私には感じられるのです。

厳密にはヴァージニア・プリンスに性別違和の感覚及び知覚があったのかどうか私にはまだわかりませんが。というのも認識というのは、自身の感覚に知覚的違和感を覚える事(直感)や自身の感覚に知覚的違和感を覚えない事(錯覚)や自身の感覚的違和感を知覚する事(違和感)や自身の感覚的違和感に対して知覚的違和感を覚える事(不審)や自身の感覚的違和感に対して知覚的違和感を覚えないこと事(嫌悪)は感覚と知覚の間の問題なので可能なのですが、例えば男性が男性であることを自認している時だとか女性が女性であることを自認している時のように自身の感覚と知覚が合一してしまっている場合(単に感覚を知覚している場合と正常バイアス等のフィルターに掛けられる事で抽出条件に従って一部の感覚および感覚的違和感が知覚していない事にされている場合)には感覚と知覚によって違和感を覚えることは出来ず知識や経験に頼った主観的な解釈や理解としての認識によってしか違和を感じることが理論上できない(例えば性的指向による差異は、個別のものとしてこれは友情であるとか異性愛であるとか同性愛であるとかの解釈や理解を経た認識が改めて基準として個々に対応する形で用いられていると考え得る)と考えられるからです。

このあたりの構造が性別違和の説明が感覚として処理できない、分かったと言いにくい、理解されにくい要因なのだと感じています。

感覚と知覚が合一してしまっている場合については痛みについて考えてみると分かりやすいかもしれない。
鎮痛剤(NSAIDs)の作用機序似(アラキドン酸カスケードのシクロオキシゲナーゼ(COX)を阻害することで、特にプロスタグランジンE2の合成を抑制し鎮痛・解熱・抗炎症作用を発揮する)と少し似ているかもしれない。
(参考文献 日本ペインクリニック学会 (jspc.gr.jp) https://jspc.gr.jp/igakusei/igakusei_keynsaids.html )

ヴァージニア・プリンスについては、性別適合手術によって(自認する性別に身体のほうを適合させることによって)性同一性障害の人々が性別違和の感覚とGender Identityの感覚のあいだでの差異を知覚するのを抑制されることによって治療効果が実感されるのと同様の効果といえる、TransgenderismによってTransgenderistとして生きることは性別違和の感覚とGender Identityの感覚のあいだでの差異を知覚するのを抑制される効果があったと考え得るのか。あるいは、そもそも自身の感覚的違和感を知覚する事(違和感)無く女性のジェンダーをフルタイムで生きるクロスドレッサーというGender Identity(これは客観的に見ると性別違和ですよね)を直感と錯覚によって支えていたと捉えるべきなのか。

これらの事柄をさらに複雑に考えさせるのはジェンダーを反対の性にトランスする事までは実現出来なくても性別適合手術だけは受けておきたい(反対の性で生きられなくても自認する性別に身体のほうを適合する事はしておきたい)という考え方(トランスセクシャルとノンバイナリーのそれぞれの要素の部分を併せ持った考え方)です。

いずれにせよ、客観的な事はヴァージニア・プリンスという生き方をした人が居たという、その社会的承認の内容が肯定的な社会的承認であれ否定的な社会承認であれ、社会的承認ががあるということです。


と、まぁ、体系化への挑戦と近況報告でした。

ああ、最後に、最近「トランスジェンダーはトランスセクシャルと違い医療を必要としていない人々」という表現をしている人々や記事に出会う事が増えているので、私の医療モデルおよび社会モデルとしての見解とは違うんだけれどもこういう意見が主流になってしまいまたトランスジェンダーの診察はお断りな状況に戻ってしまうのかなぁと危惧しているわけです。

私自身10年程前(DSM-5が出て少し経った頃)に、ジェンダークリニックに受診に行ったことがありますが、医者から「今は手術を受ける為に診断を必要としている患者で溢れかえっている、特例法を目指していないのであれば今は受診を控えてほしい」と面と向かって言われた経験があります。
それで、受診を控えて問題がなかったのかと言えばそんな事はないのです。

ここで言っている特例法とは『性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律』(性同一性障害者のうち特定の要件を満たす者につき、家庭裁判所の審判により、法令上の性別の取扱いと、戸籍上の性別記載を変更できる。2004年7月施行)のこと。

DSM-5で診断基準が改訂されるまでヴァージニア・プリンス型のトランスジェンダーは除外診断によってGID=性同一性障害(トランスセクシャル)と診断されないため、特例法制定当時から性別違和の当事者間でも診断基準に沿うよう過剰に性役割(Gender Role)および性規範(Gender Norms)が内在化された自分史を構築させられているのではないかという批判的考察がなされていました。

現在、アメリカで肯定療法の見直しが起きているのも「医療側からの押し付けや過剰医療」に対する反省からきているものですよね?
一方で、「医療側からの押し付けや過剰医療」に対する反省によって起きたDSM-5の診断基準改定が、肯定療法に対する見直しよってヴァージニア・プリンス型のトランスジェンダーやノンバイナリーの医療へのアクセスが再び閉ざされてしまうのは本末転倒だと感じています。

アンブレラタームで言うところの広義のトランスジェンダーという用語法ばかりが強調されてきたことによって(特に最近の日本およびこれまでのアメリカなどでその傾向があるように感じられるのですが、気のせいでしょうか?)、これまでトランスジェンダー(ヴァージニア・プリンス型)の人々を指す名称がダブル・ミーニングされてきたという問題があると私は捉えています。

アンブレラタームについては参考文献としては以下もありました。
(参考文献 「性同一性障害特例法」改正を控えて ―透明化される生物学・構築された性と観念的な身体の問題|シバエリ (note.com) https://note.com/yoshiko3/n/n06ea3b8c56f6 )
(参考文献 性同一性障害ってなに?|性同一性障害特例法を守る会 (note.com) https://note.com/gid_tokurei/n/n7a8ea318922e )

ダブル・ミーニングされてきたという事が、トランスジェンダー(ヴァージニア・プリンス型)の人々の存在を希薄化し不明瞭なもの(名前を失った者)としてきたり、ノンバイナリーの一部としてトランスジェンダー(ヴァージニア・プリンス型)の人々を区分しようとする解釈に後押しをしてきたのではないかと思います。そうしたノンバイナリーの一部として区分しようとする行為は誤認あるいは誤解であり問題であると私は捉えています。

この問題を考える参考文献としては以下もありました。
(参考文献 国連のトランスジェンダーの定義が変わっている件:性別不合・身体違和も無し、アンブレラタームの地位はクィアへ - 事実を整える (jijitsu.net) https://www.jijitsu.net/entry/UN-transgender-qeer-definition )


誤解の無いように再確認しておくことですが、社会環境の分野の事柄(トイレや風呂やスポーツや更衣室の問題など)については女性学(ジェンダー学やジェンダー学の一分野であるクイア理論またはクイア・スタディーズやフェミニズム理論などを含む)や社会学や環境学や経済学や法学や政治の分野で、あるいは障害を社会的障壁や環境の問題という視点から再考する社会モデルの分野で話し合われるべき事柄だと私は認識しています。

transgenderの人々が抱えさせられている問題をfeminismの扱う問題から排除する行為に抵抗する為にTrans-Exclusionary Radical Feminist(TERF)と呼ばれる事が必要ならば私はそうするべきだろう。
アンブレラタームのトランスジェンダー、トランスジェンダリズム(性自認至上主義)、犯罪目的で女装したシスヘテロ男性の性自認や心の性、トランス排除的ラディカルフェミニスト(TERF)、これらの言葉が共通して果たしてきた役割は「無区別による区別(「~では無いからという包摂」)」により問題を社会の外側に置き私たちは関係ないと放置する社会的承認です。いい加減、社会環境の分野の事柄は、社会環境の分野の事柄として話し合わせてください。

それからこの手の話をするたびに私は「犯罪者と見分けがつかないから犯罪者として扱わせてもらうね、これは差別じゃないからね」って言われている気分になります。というか気分の問題なのか? 実際そのように言われていないのか? 女性を女性として扱う事が失礼な場合と、女性を女性として扱わない事が失礼な場合とがあるように思えます。そして往々にしてそういう時に女性を話題に挙げない為の都合のいい道具として男性が使われているように感じられます。これも一種の「男性は女性ではないから犯罪者と見分けがつかない」という「無区別による区別(「~では無いからという包摂」)」だと感じられます。そして同時に「被害者であるはずの女性に当てはまらない人は女性ではない」という「無区別による区別(「~では無いからという包摂」)」だと感じられます。そしてその包摂の中に都合が良いから次から次へと放り込まれる。いつまで「加害者=男性、被害者=女性、その他=被害者ではなく加害者」っていう毒を迫し付けられるんだろう。あるいはそれと同時並行でフェミニズムの中に取り入れさえすればそれらの人々の問題が解決すると思い続けるんだろう。それって、女性についても男性についても定義しないでいられるっていう楽をしているんですよねって思います。

そして私としては社会的性別(Social Gender)および法律上の性別(Legal Gender)については最低限として特例法に準じるとした上で、社会環境の分野の事柄については社会環境の分野で、その上でさらにtransgenderの人々の社会的性別(Social Gender)および性役割(Gender Role)および性規範(Gender Norms)については考えられる必要があると感じています。つまり単にfeminismに回収したからといってそれで問題解決ではないですよねって確認です。ミスジェンダリングしてそれで問題が解決(無かったことに)ではないですからね。たぶん何段階かの工程が必要になるんだと思う。

絵を描いてたりCAD使ってたりする人には伝わりやすい表現なんじゃないかと思うんだけれど、レイヤーが違うというか。
例えばの話だけれども、性別適合手術を受けろよって迫ってこられるというのをまとめて一つのレイヤーで処理するのであれば、そこに男も女もGIDも関係なく「おせっかい」だったり「迷惑」だったりするんですよ。またレイヤーを分けてあげることでそれぞれの立場や共通項が鮮明になってきたりもする。今のところ私が特例法に向かって動いていないというのも何層ものレイヤーに分かれた問題があるからなんですよ。
例えば、現代の性別適合手術って私が求めているもの必要なものとは違うぞっていうのと、特例法が適用されて埋没して生きていけたら誰にとっての問題が解決だって事に出来るのかっていうのと、私が何者であるかっていう前に私は私なんだぞっていうのと、埋没して生きていくというのは私の場合の私にとっては自分の人生の一部を切り離す自傷行為あるいは自殺行為あるいは殺人行為に感じられるぞっていうのと、他にも言葉になりきれていないものがある気がするけれど、生きにくくて行き着いている結果が今のところtransgenderってだけなんだぞと、一度レイヤーに分けて考えてみようとする事で性別違和だから生きにくいという要因と薬も毒としては飲みたくないという要因と私がtransgenderとしても生きにくい要因とは表裏一体となった根っこは同じな問題としてある上で私はtransgenderだということなんだぞという事が逆に鮮明になってきたりする気がする。
だからレイヤーで分けて考えることを即差別だとか、転向療法だとか、ミスジェンダリングだとかいう事にするのも話が進まない要因になるんじゃないかとも感じている。レイヤーは考察段階でレイヤー分けして用いられた上で、使用段階においては重ねられて用いられるのが本来のレイヤーとしての果たす役割だと思う。それはシスジェンダーに対して「男性のようである、だが女だ」や「女性のようである、だが男だ」というように使われる場合と違いはあるでしょうか。同じことを性別違和の人にやったらハラスメントだと思いますが、性別違和の人に裏返して使うのはそれでもハラスメントになるんだろうか。SexおよびSocial GenderおよびLegal Genderのいずれが優先されるのかというのはレイヤーに依るのではないかと今の私は捉えています。
そして3DのCADを使って空間的に把握しないと理解できない物がある事や、人の心は3次元でも表現しきれないものなのかもしれないという事や、バタフライエフェクトの様に一つの事柄が及ぼす影響が複雑である事を加味していかなければ予測も把握も的を外しかねないことだろう。

また、医学モデルにおける性別適合手術のQOLへの影響は、社会モデルによる障害理解を抜きにして評価されるべきではないと認識しています。


あとがき(ながらく本文に含めるか迷ったけれど入れておく事にしました)
本記事に次の記事の『関係と感情のカクテル』を含めて・・・、ようやく、やっと、私は1990年に刊行されたジュディス・バトラーの『ジェンダー・トラブル』の入り口くらいまでは追いつけたでしょうか?

私が「トランスセクシャルとして生きるか、シスジェンダーとして生きるか、父親に殺されるのかを選べ」と父親から迫られたのは1998年の事だったと思います。
此処まで到達するのに本当に長かった、21世紀まで生きて色々知ることが出来て本当に良かったと思っています。

今では、あの時の父の言葉は当時の父にとっての最大限の愛情であり、生きろっていう願いであり、責任の取り方だったのではないかと私は再再解釈しています。父にとっては迷惑かもしれませんが、それでも、それしかかもしれないけれど、生きてます。

私がフェミニズム(女性学)と出会う切っ掛けを作ってくださった全ての方々および私と関係のあった全ての方々に感謝申し上げます。

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