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父との最初で最期の乾杯。


「父ちゃん、いままで本当にありがとう」

そう言えなかった。言いたかった。

命が尽きる瞬間が、すぐ目の前に差し迫ってるってことは理解してた”つもり”だった。

でも心のどこかで、まだまだ長生きしてくれるんじゃないか、意外としぶとく生きてくれるっしょ、なんて思ってた。

自分の親は不死身なんじゃないかと、とんでもない錯覚をしていたんだろう。

でも、”その日”は突然やってきた。

正直に言うと、父との思い出はあまりない。

会話も簡単なことだけで、深い話や父親っぽい話を聞いたこともない。

わたしが生まれた時から彼は”精神病患者”として生きていたせいもあるだろう。

でも、”言葉”が足りないぶん、”行動”や”表情”で愛情が滲み出てしまっている人だった。

余命が短いことを知って、仕事も放り出して、彼が旅立つまで残り1か月のところで帰省した。ここに、そんな父との最期のはなしを残そうと思います。


実家に帰ろう

父とは離れて暮らしていた。
わたしは新潟。実家は青森。

帰るには最速でも6時間はかかる。
遠いうえに、帰省代は往復すると約6万円。
ちょっといい温泉旅館に2、3回泊まれちゃう金額だ。

だから自然と帰る回数は減っていった。

余命が短いこと。
つきっきりでの介護に人手が必要なこと。
「もう長くはないんだから、なんとか帰ってきて面倒を見たほうがいいよ、後悔するよ」と母や姉に言われていたこと。

全部ぜんぶ分かってた。

でも仕事は辞められないし、どのくらいの期間になるのか不明瞭な中で、介護休暇をいただくっていうのも申し訳ない。
そんなふうに悩んでいた。

1年以上前から余命数か月宣告をされてきたけど、何度も宣言された余命を生き延びてきた。

いつ旅立ってしまってもおかしくない状況、が1年ほど続いていて、だから「まだ大丈夫だろう」と心のどこかで思っていた。


「今日はごはん全部食べたよ」

「今日はほとんど食べれたけど、すこしだけ残したよ」

「今日はもうご飯半分くらいしか食べられなくなったよ」

そうやって母からいつも父の食事量に関する報告LINEが届いた。

いま思えば、父の危機的状況をことあるごとに伝え、わたしに帰ってきて欲しかったんだろうなとおもう。

「最近は、やわらかいものしか食べられなくなったよ。調子がいい時は、『豚足が食べたい』っていうけど、いざ目の前に出してもほとんど食べれなくてね。」

父はどんどん食事が喉を通らないばかりか、口に入れることさえも拒むようになっていた。

そんなふうな状況になってやっと、父が本当に長くないことを理解した。

「よし、仕事やめることになってもいいから、帰ろう」

「たぶん今帰らないと一生後悔することになる」

そう思った。


その日のうちに上司に相談をして、介護休暇をいただき、次の日には実家に帰ることにしていた。


「おかえり」

わたしがおそるおそる部屋の入口に立って顔を見せると、「おう」と力ない声で、でも、嬉しそうに笑った。

「げんき?帰ってきたよ」そういうと、「おー、よく帰ってきたな、おかえり」と消え入りそうな声で父は言った。

父はおどろくほど痩せ細っていた。
もともと90kgほどあった人だから、それはもう別人のようだった。

実家に帰る前にも週に1度ほど、電話で連絡は取り合っていた。

何をしゃべるでもなく、「今日は寒いね」とか、「だんだんあったかくなってきたけど、そっちはどうよ?」とか、天気のはなしをよくした。

4月の春めいてきてポカポカする時期のこと。

わたしが一生懸命に質問をしたり、近況を話したりしているのに、父がぜんぜん反応してくれないときがあった。

わたしは、(テレビに集中してんのかよ~せっかく電話してるのに)なんてほんのちょっぴりイライラしていた。

「んじゃーもう切るね」

そう言って電話を切った直後、通知音がなった。
父とその場に一緒にいた母からのLINEだった。

「携帯電話すらも耳に当て続ける力がなくなってきたのよ」

…あ、そうか。
携帯を耳に当てる力がなくなってきたから、私の声が届いてなかったんだ。

そこまで父が弱りきっている事実と、想像力がないがゆえにイライラしてしまった自分に悲しくなった。

久々に帰省したわたしは、なにを話すでもなく父のベッドの隣においてあった椅子に腰掛けて、一緒にテレビを見た。

小さい頃は寝転がって、よく一緒にテレビを見ていた、気がする。

この日はまだ、まだまだ一緒にテレビを見れるだろうと思っていた。


父と過ごした最期の時間


父の介護を1か月ほどやらせてもらったわけだけど、生まれてから25年にしてはじめて父の背骨を見た。

子供のころはゴリラみたいに広くて肉厚な背中を、ゴシゴシとたわしでこすってあげていた。

このときは、母やいとこたちと複数人がかりでお風呂介助をしたけど、弱々しくてとてもじゃないけどゴシゴシなんかできなくて、せっけんで骨骨しい背中をさすることしかできなかった。

食事もほとんどできなかったけど、なぜか父はあんぱんと牛乳を要求した。

「あんぱんとか牛乳とか好きだったっけ?」

って聞いたら、

「うんー、なんでだべか食いてえなあ。」

って、それだけ。


あんぱんと牛乳と、父がむかしお風呂あがりによく飲んでた黒酢ドリンクを買いに行くこと。

これが帰省してからのわたしの日課になった。


忘れられない日


帰省してからの1か月の中で、絶対に忘れられない日がある。


それが、帰省してから3日後。
真っ赤な夕焼けが見える時間帯だった。

母が突然、「歩いてお寿司屋さんに行こう」と言い出した。

歩いて行ける距離にまわらないお寿司屋さんがある。

そこまで父の車イスを押して、父と母と3人で向かった。

そのときも、

「夕焼けがキレイだね」

「まだちょっと寒いね」

なんて天気の話をしながら。


のれんをくぐると、人懐っこい笑顔の奥さんと、ちょっと寡黙なかんじの板前さんがいた。

「いらっしゃい!」

そういって昔ながらの湯呑に、あったかいお茶を出してくれた。


「あ、とりあえず生をふたつください。」

わたしはそこでビールを頼んだ。

母もお酒なんてほとんど飲めないくせに、わたしと父と久々に食事できるのが嬉しかったのか、「わたしも飲んじゃおっかな。」なんてウキウキしていた。

父はもともと大酒飲みなんだけど、交通事故に遭って、精神を患ってからはお酒を飲んでいない。

当然この日も飲まなかった。というか、飲めなかったのか。

「お寿司はおまかせで、3人前おねがい。」

母は楽しそうに頼んだ。

先にお通し(フキとツナの煮物と、タコと菜花の酢味噌和え)と、グラスが氷のように冷たくなったビールがカウンターの上に置かれた。


「…じゃあ、乾杯。」

そう言って母とわたしは、父の前に置かれた湯呑と乾杯をした。

父はすこし重さのあるその湯呑をうまく持ち上げることすらできなくなっていたけど、それでも小さい声で「かんぱい。」と呟いてくれた。


実は、父と乾杯をしたのは、そのときが生まれて初めてだった。

胸が苦しくなった。

はじめてした乾杯が、もうほとんど食事が喉を通らない状態のときだったから。

胸が苦しくなった。

はじめて父と母をまわらないお寿司に連れていけたから。


そしてそれが、父との最初で最期の乾杯になった。


父には「今まで育ててくれて本当にありがとう」と言うつもりでいたのに。
旅立つまで1か月、毎日まいにちそばにいたはずなのに。言えなかった。馬鹿だ。

言おうとすると、こみあげてくるものがあって、どうしても喉でつっかえてしまっていた。

でも、言葉にしなくても、きっと父は分かっていたとは思う。

言葉より、行動や表情で愛情を示すひとだったから。


子供のときぶりに、父と同じ部屋で、隣にベッドを並べて眠ったから。

毎日あんぱんと牛乳と黒酢ドリンクを買いに走ったから。

一緒においしいお寿司と、あったかいお茶と、キンキンに冷えたビールで乾杯できたから。



ただ、もちろん言葉にして伝えたほうがストレートに伝わるとおもう。


大事な人とご飯を食べる。

大事な人とお酒を飲む。

これだけのことが、いかに幸せで、いかに尊い時間であるということを強く、つよく実感した。


わたしにとって最後の親孝行が、この日の”乾杯”になった。


わたしはこれからもこの日を絶対に忘れずに生きていく。

そしてわたしが空に旅立つ時は、また一緒に乾杯しようね。



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