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「愛の証明」の前に、開運の証明というか、Wi-Fiの証明を。

 愛じたいは、わたしたちの存在を超えて、最初から最後まできっとどこかにあるもので、愛っていうのはきっと、わたしたち個人のものなんかじゃなくて、どこかにあるものなのよ。どこかにあるそれに、わたしたちはときどき触ったり触らなかったりしているだけなのよ。たぶん。

 川上未映子「マリーの愛の証明」より。

 この台詞の後に「マリーの愛の証明は、ありふれた理想にすぎなかった」と愛の証明はあっさりと否定されてしまう。
 じゃあ、愛は「どこかにあるもの」ではなくて、誰かの手に確かにあるものって言うことで良いのだろうか?
 それもなんだか、しっくりこない。
 
 ただ、確かなことは小説って必ずしも正しいことを書かなくても良いし、答えなんて出さなくても良いってことは、間違いないような気がする。
マリーの愛の証明」を読んで僕のように、では結局、愛はどこにあるのか? と考え始めれば、小説としては一つ仕事を果しているようなところがある。

 東浩紀の「ゲンロン戦記」という「三国志のように面白い(と帯に書いてある)」新書があって、ツイッターの感想で「東さんの文章が俺に染み込んでくるんだけど、なんというか、、、じゃあどうすればええんやって気持ちはずっと抜けないまま」と呟いている人がいた。
 それに対し、東浩紀が

 それは自分で考えるのです。
 そういうふうに促すのがぼくの仕事。。

 と返していた。
 確かに、その通りで本を読むだけじゃダメで、その本について考える時間って言うのが、実は一番大事だったりするんだよなぁと思う。

 そして、僕は最近、いろいろなことに対して考え込んでいて、それこそ「じゃあどうすればええんや」という気持ちを僕は引きずっている。

 なんとなく、自分は正しい道を歩いているし、今の時間も遠い未来から振り返れば意味があったと言えるようなものになる気がする。
 けれど、じゃあ今なにをすればいいのか、は分からない。

 そういう気持ちである為に、日記も書けないし、小説やエッセイも書けない状況に僕はいる。

 できることなら、糸電話の先に繋がっている人に山いっぱいの泣き言だったり、弱音だったりを吐き出したい気持ちなんだけど、それはそれで受け取った人が困るよな、と我慢。
 代わりに、今度夜の森にいるくまさんに聞いてもらおう。

 いやでも、一つだけ。
 先日テレワークがあった。自宅に職場のパソコンを持ち帰って、ネットに繋ごうとしたら、繋がらない。
 有線LANが悪いのかな? と変えても、未接続。
 Wi-Fiは? とスマホのWi-Fiをオンにしたら、ネットのページは繋がらない。

 まじでか?
 となって、深夜右往左往して、テレワークの当日の朝には繋がる状態になったが、ネットは常に不安定。
 時々、ルーターの電源を切る必要さえある。
 その度に、上司に説明する申し訳なさ。

 え、なんなの? と思って、休憩時間にポストを開けると、「下流階で電波不良が起こっている為お客様宅TV端子交換工事(無料)が必要になります」とご連絡票が入っていて、電波不良? TV端子? え? テレワーク当日に? タイミング良すぎない?

 僕、三日くらい前に運が悪すぎるなと思って、市役所に行くついでに近くの開運って書かれてた神社に行ってお参りしてきたばっかりだったんですけど!?

 更に運が悪くなっとるやんか!

 ネットのカスタマーセンターへ電話したら、工事に窺えるのは再来週です、と言われて、結果テレワーク中は会社のパソコン以外のネット関係は全てオフにして、変な緊張感の中でずっと仕事をしていました。
 普通に出勤した方が良かったよ! これなら!

 というような状況でございまして、そらぁ「じゃあどうすればええんや」って気持ちになるじゃん(ちょっと違う)。

 考える期間が終わって、僕はこうすれば良いんだってひらめいた瞬間、今までの不運が幸運にオセロみたいにひっくり返るのを今か今かと待っている、そんな日々でございます。
 多分、僕はこうすれば良いんだ、を閃いても常に、本当に? と疑い続けるんだろうけれども。難儀な性格だなぁ。


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