「人類総正直時代に突入」する中で無意味な嘘をついていく。
皆さま嘘ってつきますか?
僕は意味のない嘘はついていきたい人間です。
昔あるレテロゲームバーなる場所で、人狼大会が企画されて、よく行っていたので誘われたことがあります。
そこで、僕はビールを片手に「僕は今まで嘘をついたことがありません。その証拠に僕はビールを飲んだことがないんです」と訳の分からないことを言っていました。
で、「これがビールって言う飲み物なんですね。いただきます」と飲んだんですが、誰も笑ってくれませんでした。
僕がビールを飲んでいたのを、人狼に参加する常連客はアホほど見ていたので、そりゃあ笑いもしませんよね。
そして、人狼ゲームでは一番最初に殺されました。ひどい。
と言う訳で、僕は意味のない嘘をつくタイプの人間なんです。意味のない嘘をつき始めた理由は、これまた村上春樹で、何かのエッセイで春樹自身が意味のない嘘をつくのが好きだと言っているんですよね。
実際、小説の「ダンス・ダンス・ダンス」の「僕」は冗談という形で、意味のない嘘をつくシーンが幾つか確認できます。
例えば、以下の箇所です。
「何か御用でございますでしょうか?」彼女は電話を終えると僕に向かって丁寧に尋ねた。
僕は咳払いした。「実は昨日の夜、この近所のスイミング・スクールで女の子がふたり鮫に食べられて死んだっていう話を聞いたんだけれど、本当でしょうか?」と僕はなるべく真剣な顔をして口からでまかせを言った。
なにそれ? ってなるんですが、この嘘を後に「彼女」に「仕事中は変なことしないでってこの前言ったでしょう」と問い詰められると、「悪かった」と謝ってから「何でもいいから君と話したかったんだ。君の声を聞きたかった。つまらない冗談だったかもしれない。でも冗談の内容が問題じゃない」と言い訳するんですよね。
この「冗談の内容が問題じゃない」って言うのは大事なんじゃないかな? と最近は思うんですよ。
だって、ツイッターで「スイミング・スクールで女の子がふたり鮫に食べられて死んだっていう話を聞いた」とか呟いたら、マジレスする人がリアルにいそうじゃないですか?
いや、流石にいないって思いたいですけど。
スイミング・スクールで亡くなった子供を持つ親の気持ちを考えてください、みたいな感じで。
人間は何に対しても不快感を示すことができるんですよね。そして、「不快です!」というカードは先に出した人間が優勢になる構図があって、これは一種のディベートに勝つ方法なんですけど、今回は割愛します。
何にしても、今のツイッター界、もしくはSNS界では自分が不快になるものをわざわざ探している人たちが一定数いるんですよね。
この構造については内田樹の「下流志向 学ばない子どもたち働かない若者たち」にて「不快という貨幣」という言葉で表現しています。
つまり、不快であるという表明は貨幣(ある種の価値)になるんです。
では、なぜ不快は貨幣たり得るのか?
内田樹はそれについて以下のように書きます。
狩猟者の父親が獣の肉を持ち帰ったように、農耕民の父親が殻物や野菜を持ち帰ったように、現代のサラリーマンの父親はあからさまな不機嫌を持ち帰ることで、彼が家族を養うために不当に過酷な労働に従事していることを誇示しているのです。
というわけですから、残る家族もこれに倣うことになります。妻たち子どもたちも、それぞれの仕方で家庭を支えているという自負は持っているのですが、それを示す術がありません。したがって、父に負けずに不機嫌になることでその努力をアピールするしかない。
ちなみに、内田樹の「下流志向 学ばない子どもたち働かない若者たち」は2004年の本なんですが、今読んでも全然古びた印象はありません。
さて、家族が「最小限の共同体」とはよく言われる表現ですが、この共同体を広げて社会に参加し、社会を支えているという自負を持っている人ほど、「不快という貨幣」を使って不機嫌になったことを示しているように見えます。
大人ってそう簡単に自身の感情(愉快、不快を含めて)を見せる存在でしたっけ?
そんなことを考えてしまう為に、僕は今のツイッター界、もしくはSNS界が好きではないなと思う次第です。
なんてことを書くこと自体が不快を示す一つの行為にもなっているのは分かっているんですけれども。
さて、意味のない嘘の話です。
ツイッターでは「ダンス・ダンス・ダンス」の「僕」が気軽に冗談を言えるような土壌はないように思えます。
村上春樹は以前、SNSを見ない理由を「大体において文章があまり上等じゃないですよね。」と答えていました。
村上春樹らしい回答で僕は好きですが、ツイッター界は少々炎上しました。擁護した人も当然いましたけど。
嘘をつく為には、それが嘘だと分かる、教養とか余裕が必要なのではないか? と最近は考えたりします。
そんな時期に金原ひとみの「デクリネゾン」を読み返していて、以下のような部分にぶつかりました。
引用させてください。
「いつかバレる可能性があるなら、嘘はつくだけマイナスだからね」
「蒼葉は、世の中が意外に寛容であることに気づいてない。人はむしろ嘘を求めてるし、嘘のない世界に疲れ切ってる。じゃなかったらフィクションなんてとっくに廃れてるよ」
確かに、僕は「嘘のない世界に疲れ切ってる」からこそ、フィクションを読み続けている。そんな気がします。
と同時に思うのは、今お笑いブームが来ているのも、この辺に理由がある気もしています。
少し前にM-1がありましたけど、その時に会う人会う人がM-1の話をするんですよね。みんなホント見てますよね。
多様性の世界はどうした? ってレベルです。
で、その週の『ナインティナインのオールナイトニッポン』でNON STYLEの石田明がゲストに来て、M-1の解説をしていたんです。
その放送の最後の方でリスナーから「石田教授(と番組内で呼ばれていた)が考える漫才の定義ってなんですか?」という質問が届いたんです。
石田の答えは「漫才は一個、お客さんに嘘を飲んでもらっているところから始まっている。ネタ合わせをしてきているってことを一回忘れて貰って、今始まったよっていうスタートになっている。だから、ここから(漫才が始まってから)は嘘をなるべく減らすっていう作業の方がウケる」でした。
これは一つの真理だな、と思うんです。
つまり、コントでも漫才でも、それは嘘なんですよね。
僕たちはそれが嘘だって分かった上で見て、笑っているんだとすれば、確かに僕たちの世界では嘘は「意外に寛容」なんだな、と思います。ある特定の条件下で言えば。
嘘をつくってこと自体がある種の特権的なものになりつつあるのが、現代だと言うこともできそうですが、それを金原ひとみの「デクリネゾン」では的確に指摘している部分もあるので、最後に引用して終わりたいと思います。
今って誰しもが割と嘘をつかなくなってるじゃない? 若者なんか特に顕著だよね。インターネットの普及に伴って嘘がバレるリスクが高まったために人類総正直時代に突入した今だからこそ、このドストエフスキーとか蒼葉の元クラスメイトの話はすごく素敵に感じられるわけだよ」
最後の「ドストエフスキーとか蒼葉の元クラスメイトの話」は本編の文脈なのですが、そこを引用していないと、ちょっと変なぶつ切り感があるので、引用いたしました。
結論ですが、「インターネットの普及に伴って嘘がバレるリスクが高まったために」現在の日本なのか、世界なのかは「人類総正直時代に突入し」嘘はお笑い芸人などの特権的なものに変わりつつあります。
そんな世界の中で如何に意味のない嘘をついていくか、というのは一つ大きな命題なのではないか?と書いて今回のエッセイを終わらせていただきたいと思います。
サポートいただけたら、夢かな?と思うくらい嬉しいです。