見出し画像

仮想敵を克服し青年漫画的になった「文学」。

 11月の文学フリマ東京に参加される方がSFアンソロジーを作るための作品募集をされていた。お題と字数は決まっていて、参加応募締切は7月末だった。
 短編を色々書きたいと考えていた僕は、物は試しだと思い応募してみた。翌日に「お願いします」と言う旨の返信をいただいた。
 初アンソロジー参加と文学フリマに初めて関わるんだ、という妙な感動があった。

 文学フリマと言えば評論家の大塚英志で、彼の書いたエッセイ『不良債権としての「文学」』が公式サイトに掲載されている。
 参加される方の何人が大塚英志のエッセイを読んでいるのかは分からないけれど、今の文壇(なるもの)の流れを追っている人間からすると、このエッセイが笙野頼子の発言に対する反論として始まっているのが興味深い。

 現在、文壇(なるもの)は笙野頼子から端を発した問題が主にツイッター上で議論が発生している(していた?)。
 僕はツイッターを基本見ないことにしているのだけれど、この問題については何人かのツイートが通知で届くようにして追っている(この時点で、僕のツイッターを見ない宣言は無と帰してるんだけれども)。

 そんな今の文壇(なるもの)は置いておいて、大塚英志の『不良債権としての「文学」』は結構面白いエッセイになっている。

実はその「仮想敵」の向こうにあるものと「文学」が向かい合うことを回避しているように思えます。それは笙野さんだけの問題ではなく、彼女の創り出す「仮想敵」が文芸誌の中で語られ続けることで「文学」はその向こう側にあるものと対峙することを順延し続けることさえ可能になっている印象です。

 ここで語られる「仮想敵」は、
(1)素人が文学にあらゆる意味で口を出すな。
(2)文学の基準として「売り上げ」を持ち出すな。
 の二つに集約されると大塚英志は書いている。
 ちなみに、このエッセイは2002年6月号の「群像」に掲載されたもので、もう二十年も前の内容となっている。

 個人的に、どんなに「文学」が「その向こう側にあるもの」と対峙することをを回避していたとしても、二十年という月日では向き合わざるおえなかったんだろう、と思う。
 そして、個人的にこの二つは流石に乗り越えた印象だった。

(1)の素人が~に関しては、現在の「一億総発信時代」だし、みんな好き放題に「文学」について語っている。文学ユーチューバ―も出てきていて、「視聴者を増やす為にはサムネの写真がどれだけ盛れるかが重要なんです」的なことを雑誌(流石に文芸誌じゃなかったけど)で語っていたのを読んだと記憶している。
 サムネイルの写真が盛れていることと文学はまじで関係ないんだから、「文学」を大切にする人は怒らなきゃいけないのでは!?となる。

(2)の文学の基準として「売り上げ」を~はもう完全に無理があって、宇佐見りんとか最近売れている作家の帯には「○○万部突破!」とかガンガン載っているし、宇佐見りんが芥川賞候補作の「あくてえ(山下紘加)」の帯を書いてたりするのは、完全に「売り上げ」のためだろう。
 文学も売るんだ、という意識はある時期から明確に芽生えたように思うし、そのメインストリームを歩くスターとして宇佐見りんはいる(と勝手に僕は思っている)。

 なんて言う感じで、今の文学は素人も好きに語れて売り上げも気にする環境へとシフトしていった。
 その結果、評論家のさやわかが言うところの「漫画で言う青年誌系に載っているような作品が今の文学」になった印象が僕にはある。

青年誌どころか、文芸誌のすばるの表紙が少年ジャンプで連載している「呪術廻戦」だったこともある(正確にはアニメ「呪術廻戦」の監督を呼んでの対談が目玉企画だった)。
 青年誌系だったり、たまに少年漫画誌にも目配せをしながら、「文学」は生き残りをかけて試行錯誤を繰り返していて、僕は今の文学のあり方が好きだ(文学に現在、なんの問題もないとは一切言わないけれど)。
 文学という文化が生き残ることを僕は心から望んでいる。

さて、その文学という文化で見た時に文学フリマがどれほどの割合を占めているのかは分からないけれど、文学好きとしては見逃せないイベントであることは間違いない。
 そんなイベントの一端にアンソロジーで参加できる、というのは個人的に心から嬉しいことだった。

アンソロジーのお題は決まっていて、『五年後に小学六年生になるキミにおくる物語』というものだった。
 ジャンルはSFで、ただしS(少し)F(不思議)だと言う話だった。ちなみに、この話を恋人にしたところ辻村深月の「凍りのくじら」を引き合いに出しつつ、藤子・F・不二雄のヤツだよね! という話をしてくれた。
 なるほど、と思って調べると「ありふれた日常の中に混在する非日常な世界をテーマに扱うエンターテインメント作品のジャンルを指す」という定義が出てきた。

 ガチなSF作品ではない、ということね。
 ちなみに、ガチなSF作品を書くとなった場合、僕の指南本は「現代思想 2019年5月臨時増刊号 総特集 現代思想43のキーワード 」で樋口恭介の「ディストピア/ポストアポカリプス」という短い論考を書いていて、これしかなかった。
 その中で、「ディストピアは社会の過剰を語り、ポストアポカリプスは社会の不足を語る傾向にある」とあって、この定義は明快だと思う。

 社会の過剰を語るか不足を語るかは置いておいて、どちらかに振った作品を書いてみたい。
 しかし、今回求められているのはS(少し)F(不思議)な『五年後に小学六年生になるキミにおくる物語』だ。

 その定義で浮かぶのはドラえもんだった。
 僕は今回のアンソロジーを書く間の8月中に2013年から2022年まで上映されたドラえもん映画9本を一気に見た。
 それが参考になったかと言うと首を傾げるしかないけれど、ドラえもん映画は非常に面白かった。

 同時に執筆時に頭の片隅にあったのは、「漫画で言う青年誌系に載っているような作品」だった。とはいえ、実際に青年誌系の漫画を読んだりした訳ではなく、青年誌系に載っているような小説とは何だろう? という視点で小説を読み漁った。

 その結果、書いた作品がどんな風に読まれるのか、はもう僕の手を離れたことなので、どうすることも出来ない。ただ、今回アンソロジーを参加したことで、明確に自分の小説を書く意味や内容を一つ深いところに持っていけた気がする。
 この先、自分が何を書けるのかが楽しみになった。


この記事が参加している募集

文学フリマ

サポートいただけたら、夢かな?と思うくらい嬉しいです。