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【小説】西日の中でワルツを踊れ22 僕はずっと僕でいられるわけじゃないから。

前回

 川田元幸くんの家のリフォームをしている間、彼と話をした覚えはなかった。
 ただ、熱心に僕たちの仕事を見ていることには気が付いていた。その視線はちょっと他では感じないような必死さがあった。
 どうして、彼はこれほどリフォーム作業を熱心に眺めているのだろう。
 それが最初の疑問だった。

 川田くんの家の仕事が終わって、一週間が経たない頃に彼は事務所に現れて「雇ってください」と言ってきた。
 理由は変わりたい、変わる為のきっかけが欲しい、というものだった。
 青くさくて良いじゃないか、と社員の一人が言った。
 僕もそう思ってね、アルバイトとして雇うことにしたんだ。仕事ぶりは素人も良いところだったけど、しっかりと人の話を聞くし、人の指示には素直に従う。
 真っ直ぐで、とても良い子だと現場でも密かな人気が川田くんにはあったよ。

 そんな川田くんと出会う少し前かな、僕は一つの問題を抱えていたんだ。
 一言でまとめれば女性関係だった。名前を藤田京子と言って、僕よりも一回り年上の女性だった。
 藤田京子には恋人ではないけれど、想う人がいた。
 僕はそれを理解した上で彼女との関係を持っていた。
 実際、僕も藤田京子とは別に好きだと思う同級生の女の子がいてね。付き合っている訳じゃないけど、年に何度かは会ってお酒を飲むような関係だった。

 僕は好きでもない女性と寝る趣味はなかった。
 そういう関係を持つにしても、一晩だけでお互いすっきり別れるのが常だった。でも、藤田京子だけは違った。
 彼女と他の女性の違いは痣だった。
 藤田京子の体には至るところに痣があり、初めてベッドを共にした時、彼女は僕にその痣の一つ一つを指で辿らせた。

「昔の男が煙草の火を押し付けてつけたの」
 と彼女は言った。
 残酷なことをする男が世の中にはいるものだ、と最初は思っただけだった。
 二回目に誘われた時、僕は断るつもりでいた。
 藤田京子はその空気を感じてか「貴方が見つけられていない痣が、まだあるのよ」と言った。

 言われるがままに見せられた痣は確かに、言われなければ分からないような箇所にあった。
 そうした流れで僕は彼女と二回目の関係を持った。
 僕はその時点で彼女のテリトリーに足を取られていたのだと思う。
 三回、四回と数を重ねていく度に、僕はとても悪いものに絡め取られていると自覚していた。
 理性でも、藤田京子と会うなと警報を鳴らしていた。

 警報も最初は驚きと新鮮さがあるものの、それが積み重なると自然と気にならなくなってしまう。
 決定的だったのは藤田京子の一つの提案だった。
「貴方もあたしの体に痣をつけてみる?」

 例えば、この世界にもう一人西野ナツキがいて、そこで藤田京子と関係を持ったのだとしたら、その僕はこの提案を断っていた。
 煙草の火を女性の体に押し付ける趣味は僕にはない。
 でも、僕はずっと僕でいられるわけじゃなかった。

 藤田京子に僕の手で痣をつけることは決定的だった。
 僕は藤田京子が望む西野ナツキとして振る舞うようになった。
 強要された訳でも、願ったわけでもない。あくまで自然と、足を一本一本もぎ取られた虫のように身動きが取れなくなっていった。
 僕の前には二つの選択肢があった。
 自然に身を任せて息絶えるか、自然に逆らって生きるか。
 その問いが僕の中に深く鎮座していた。
 自然に逆らわなければならない、と頭では分かっていながら、それを選べず、ただ静かに首が絞まっていくのを感じていた。

 今から当時の生活を振り返れば僕は自分を演じようと必死だった。
 何も新しいものを生み出せず、以前の自分がそうするだろう行動をなぞるだけの生活。
 そんな日々の中で藤田京子が旅行へ行こうと提案した。
 遠くへ行けば気分転換になるよ、と藤田京子は本当に僕を心配するように言った。
 隣に彼女がいるだけで、どこへ行っても僕は僕で居られない。

 藤田京子自身、それに気付いているのか判断がつかない誘いだった。
 けれど、静かに息絶えるのを待つ僕にとって、彼女の誘いを断ることは出来なかった。
 旅行先は新幹線と電車を乗り継いで三時間弱の、ちょっとした温泉街だった。
 彼女が予約してくれた旅館に昼の十二時くらいに到着して、部屋に荷物を置いて二人で昼食を取る為に近くの露店へと足を向けた。
 藤田京子は普段よりもはしゃいでいるのが、何となくわかった。
 僕も彼女にならって笑った。世界中どこへ行っても隣に彼女がいる限り、変わりようのない笑みだった。

 夕方近くになって、そろそろ旅館へ戻ろうという頃合いに彼女が姿を消した。
 電話しても繋がらず、僕は共に歩いた露店を巡ったが、彼女を見つけることはできなかった。
 旅館へ戻ってみても、荷物があるだけで彼女の姿はなかった。
 一人残された僕は日の暮れかけた海岸にぽつんと残されたような気がした。
 海水が引いた浜辺に晒された、醜いゴミの山。そういうものが藤田京子の消失によって、僕の中で晒されていた。

 そして、海水と共に引いていった中には僕の一部もあって、それはもう二度と僕の手元に戻ることはない。
 僕はそれでも藤田京子を探した。
 彼女に会いさえすれば、僕が失った一部は戻ってくると自分に言い聞かせた。
 温泉街を走りながら、僕はもう藤田京子によって晒された醜さが何か分からなくなっていた。
 日が沈み、一人旅館の一室で夜を過ごした後、僕は朝一番に彼女の荷物を持ってチェックアウトした。
 真っ直ぐ駅へ行き、まだ殆ど人のいない電車に乗った。

 自分の部屋に戻った時、僕はどの道を通って帰ってきたのかも思い出せなかった。
 ベッドに倒れ込むと、僕はそのまま泥に潜るようにして眠った。
 目が覚めると、体が石のように重く感じられた。
 のそのそと立ち上がって冷蔵庫に入った冷え過ぎたミネラルウォーターを飲み、鞄と一緒に放り出した携帯を拾った。

 画面には藤田京子からの着信があった。
 更に、留守電も入っていて、そこには謝罪の言葉と、家に来て、という内容が吹き込まれていた。
 その時の僕が何を考えていたのか分からない。
 呼吸をしていたはずだし、靴を履き地面を歩いたはずだった。しかし、僕はその全てを覚えていない。

 気づけば、藤田京子の部屋のチャイムを鳴らしていた。
 彼女の部屋に響き渡るチャイムの間の抜けた音だけは、何故か今も鮮明に思い出せる。
 顔を合わせた彼女は泣きながら僕に抱きついてきた。何か黒い塊を抱えたような感覚しかなかった。
 けれど、それは間違いなく藤田京子だった。

 彼女の説明は以下のようなことだった。
 数日前から、藤田京子が想っている男が彼女にストーカーまがいなことをするようになった。
 気味悪く思った藤田京子は僕に旅行を提案し、男と距離を取ろうと思った。しかし、男は旅行先にまで姿を見せた。
 藤田京子は男に文句を言おうと近づくと、そのまま車に乗せられ携帯を奪われて、旅館へ戻ることは叶わなかった。

「でも、何もされていないし、あたしはもう貴方という好きな人がいる、と彼には伝えたわ。あたしは貴方を裏切らない。あたしの全てを貴方に捧げるわ。約束する、絶対に貴方を裏切らない」
 彼女は口もとだけで笑った。
 ような気がした。

 多分最初は拳だった。

 その後のことは覚えていない。ただ悲鳴はなかった。そして、目の裏に焼き付いたのは、彼女の体にある痣だった。
 綺麗だな、と思ったよ。
 グシャ、という手の感触があった。
 なんだろう。分からない。
 僕はただ彼女に馬乗りになって、鮮やかな痣に目を奪われ続けていた。

 気づけば彼女の胸の上下運動は停止していた。路上で死に絶えた猫のようだった。僕の手には旅行鞄の底に入れていたサバイバルナイフがあった。
 清潔なタオルで手についた赤黒い液体を拭い、服を着替えた。
 息をついた時、喉の奥のつかえが取れたような気がした。
 今なら彼女の好みじゃない笑みを浮かべることができるかも知れない。 
 そう思って、笑ってみた。口の端から漏れる息は途中から泣き声に変わった。

 どうして僕は泣いているんだろう?
 分からなかった。
 ただ、泣き止むまで長い時間を必要とした。

 帰り際、キッチンの換気扇の下に煙草とライターが置かれていることに気づいた。
 煙草とライターをポケットにいれて、僕が触った場所を掃除して、クーラーを冷房にし部屋を可能な限り冷やした状態で彼女の部屋を後にした。

つづく


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