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「いま・ここ」にしかない結婚式を映画的に考える。

 ジャン=リュック・ゴダールは「男と女と一台の車があれば映画ができる」と言っている。
 先日、友人の結婚式に参列した。式の中で一度、リムジンが姿を見せた。
 挙式後に教会から出てくるところを参列者がフラワーシャワーで迎え、新郎新婦と順番に写真を撮った後だった。リムジンに乗って、その場から新郎新婦が去った後に、参列者は披露宴への会場に案内された。
 映画っぽいな、と思った。

 結婚式に参加した僕の感想は、どこを切り取っても絵になる、だった。それは、ほとんど感動するレベルだった。
 日常に生活している中ではあり得ない枚数の写真を僕は一日で撮った。今から振り返れば、僕は一本の映画を内側から観客として眺めているような感覚だったのだと思う。
 実際、そこには男と女と一台の車があったし、新郎新婦の演出の一つとして最後には挙式や披露宴の映像がまとめられたエンドロールが流れた。
 新郎新婦が登場するシーンや、ご両親が涙ぐんでいる姿。それらがノリの良い音楽と共にテンポ良く映され、参列者の名前が下から上へと流れていく。ちょっと出来すぎなくらい良い映像だった。

 演出としてエンドロールが流れたから映画っぽいと言っているのかと言われると、そうかも知れない。
 というか、そう言われても仕方ない。
 けれど、もう少し僕がなぜ結婚式を映画っぽく感じたのか、を書かせていただきたい。

 僕が結婚式に対し「どこを切り取っても絵になる」と感じた理由は、最初から最後まで確かな意思によって芯が貫かれているから、というのが大きい。
 その意思が新郎新婦によるものか、ウエディングプランナーによるものか(あるいは、どちらもなのか)、僕には判断がつかないけれど、式のどこにもなんとなくで行なわれる部分はなかった。

 優れた映画は撮られた映像にはすべて意味があり、確かな意思によって貫かれている。
 と言うと、映画好きの人に怒られるのかも知れないけれど、映画でも漫画でも小説でも、なんとなくで作られたものより僕は一分の隙もない作品が好きだし、優れていると感じることが多い。
 そこには緩んだ空気はなく、常に妙な緊張感が漂っていて、良い作品にしようと言う情熱を感じる。
 もちろん、この緊張感があるから良い作品になる訳では決してないけど、少なくとも僕はこれを感じると応援したい気持ちになる。
 それが仮に失敗作だったとしても、次回作も見る(読む)ぜ! という気持ちになる。

 とはいえ、結婚式は失敗したから、もう一回と言えるイベントではない。この一回に全ベットせざる負えない、という状況も相まって僕が好む映画や漫画に感じる緊張感やこだわりを結婚式に感じたのかも知れない。
 なんてことを僕が書くと、当の友人は「そんな大きいイベントって思ってやってないって」と言われるのだと思う。
 そんな風に、どんな場でもフラットでいられる友人を僕は羨ましく感じる。
 僕は自分でも呆れるほど、落ち着きがなく場の雰囲気に飲まれやすい。友人とは正反対と言って良いかも知れない。

 さて、僕が参列している結婚式の裏でも他の結婚式は行われている。
 偶然なのだけれど、僕が結婚式に参列している同日、ほぼ同じ時間帯に、恋人も結婚式に参列していた。会場も近く僕がいた式場から電車で一本の場所だった。
 そのため後日、ご飯を一緒に食べた際、互いに結婚式の感想を言い合うのは、お互いに別々の映画(けれど、テーマは同じ)を見て、そのあらすじを説明し合うような奇妙さがあった。

 この時点で結論が一つでる。
 結婚式は映画ではない。当たり前だけれど。
 ヴァルター・ベンヤミンが映画においては複製から芸術作品が生まれる、という旨の発言をしている。映画は複製物、つまり「いま・ここ」にいなくとも受け取れる芸術だ。
 現代を生きる僕たちからすれば映画館に行けば同じ映画が日に何度も見れるのが当たり前だし、劇場公開が終わった後はサブスクに登録さえすれば、いつでもテレビやスマホで見れる。
 それに比べて結婚式はまさに「いま・ここ」に居なければ体験できないものだから、実は結婚式は映画っぽいと僕は書くべきではなく、「結婚式は舞台っぽい」と言うべきだったのかも知れない。

 ただ、それでも結婚式って映画っぽいんだよなぁと僕は思っている。その理由は2015年2月号のすばるに掲載された渡邉大輔の「イメージのヴァイタリズム――ポストメディウムの映画文化」という批評の中で、瀬田なつきの「5windows」という短編映画に触れた箇所があったからだった。

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 渡邉大輔は「5windows」という短編映画を「「シネマジャック&ベティ」というミニシアターのある横浜・黄金町にある川沿いの舗道と橋を主な舞台に、四人の若い男女がすれ違う一時を切りとった物語」だと説明している。
 その上で、「それぞれの人物の同一の時間を捉えたシークエンスごとに、四つの断片にわけられるように撮られている。初公開のさいは、それら四つの断片がまさに舞台となった黄金町の別々の場所で屋外上映され、観客は必然的に各断片を自由な順序で周遊して観ることができる」という上映方法によって、一つの「まとまりのある「作品」として設計されることを、あらかじめ構造として拒んでいる映画なのだ」とまとめる。

 つまり、「5windows」という短編映画は初公開の時は、四つのシークエンスを自由な順番で観て良いように設計されており、そのために一つの作品としてのまとまりを拒んでいる。
 これはベンヤミンの言う複製芸術としての映画を拒み、「いま・ここ」の重要性を恢復しようとする試みにも思える。

 同時に、「5windows」は「四人の若い男女がすれ違う一時を切りとった物語」であり、その一時を少々強引に僕の経験に引っぱってくるなら、僕が内側から見たような気持ちになった結婚式の裏では別の式があって、そこでも確かな物語はあった(と、恋人から話を聞くことで実感できた)。
5windows」みたいな形式の映画があるなら、「いま・ここ」の体験を映画的だと感じても良い気がする。

 ちなみに「5windows」はどのサブスクにも入っておらず、それどころかDVDの販売も見つからなかった。公式サイトはあって予告映像もある。けれど、本編はどこでも見れない。
 まさに「いま・ここ」を逃せば、全体像を掴めない体験のようで、ちょっと出来すぎな気もする。
5windows」から教訓めいたものを引き出すとしたら、結婚式に限らず、式とかイベントは一回性の体験だから行けるようなら行っておくべきなんだろうな、になる。

 なんてことを考えていた頃、弟から電話があった。「来年の五月に結婚式することになったから、兄ちゃんにも来て欲しいんだよね」とのことだった。
 新しい映画のチケットが届いたような気持ちになって、僕は「もちろん行くよ」と答えた。

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