見出し画像

ポケモンGOを文学にする、たったひとつの冴えたやりかた。

 職場の後輩の女の子が、熱心なポケモンGOプレイヤーでした。
 日々の日常の大半をポケモンGOに費やしていて、100キロ離れた場所で捕まえたポケモンを交換に出すことでレアなアイテムが手に入るとかで、彼氏と和歌山まで行ったこともある、と楽しげに喋っていました。

 ポケモンGOは「位置情報を活用することにより、現実世界そのものを舞台として、ポケモンを捕まえたり、交換したり、バトルしたりするといった体験をすることのできるゲーム!」と公式サイトに掲載があります。

 ポケモンGOが配信された2016年頃、僕は販売の仕事をしていて、後輩の男の子が彼女とポケモンGOを始めて、夜の散歩をしていると聞いてから、なんとなくカップルとか友達とプレイするゲームなんだろうな、と言う印象を持っていました。
 実際、本家のポケットモンスターも発売される際は常に二つのバージョンを同時に販売し、片一方だけではコンプリート出来ないようになっています。

 なので、ポケモンGOも一人でプレイする、というよりは誰かと協力したり、交換したりしつつ遊ぶもので、一昨年くらいに始めた友達がいない僕はまったく起動しなくなったのが現状です。
 正確には、iosのアップデートをしていなくて、今は起動しようとしても出来ない、というのが正確なところです。

 何にしても、やっていないんです。
 ただ、興味は全然あって、ポケモンGOをテーマに据えた小説を書けないかな? とずっと考えているんです。
 きっかけは、エトガル・ケレットの「銀河の果ての落とし穴」に収録されている「フリザードン」という掌編を雑誌で掲載されている際に読んだことでした。

フリザードン」とは、ピトモンGOなるGPSゲームが大人気の近未来、ある戦場へ赴くことでレアのモンスターがゲットできる、という理由から若者が戦争に参加する、というもの。
 実際に世の中が、そういう方向へ進んで行くのか分かりませんが、国家の為と言う大きな目的ではなく、ゲームのレアなアイテムやモンスターという小さな目的の方が、若者が戦争へ行く理由になり得るのでは? という問いは、それなりのリアリティを担保しているように思います。

 ポケモンGOを扱っている他の作品として「文学ムック ことばと vol.1」に掲載された阿部和重の「Hunters And Collectors」があります。
 こちらは人里離れた家に女の子がポケモンGOをしに来たせいで犬が吠え続け、尋問しなければならない男を殺してしまった人殺しの話でした。

 阿部和重らしい張り詰めたシリアスな空気をポケモンGOという一見和やかなものを混在させつつ、コメディにはしない手腕は見事なバランスを持った作品でした。
 とはいえ、映像化したらコメディになっちゃうでしょうけど。

 そんな訳で、僕が見てきた小説の中でポケモンGOという要素は常にネガティブな印象を与えます。
 ポケモンGOをポジティブに扱う作品は書けないものか、と思っていたのですが、考えてみるとポケモンGOって良いよね、と書いてしまうと商品(ゲーム)の宣伝作品として消費されてしまうんですよね。

 ポケモンGOの企業宣伝みたいな作品を書いても仕方がないので、もっと別な方法を考える必要があるんだなぁと思います。
 そんな訳で、ポケモンGOという括りではなく、GPSを使った位置情報ゲームを使った小説、物語って書けないかな? と言う方向に考えは進んで行きました。

 そんな時にポケモンGO大好きな職場の後輩が、ポケモンGOのデータは財産だと言う話をしていました。
「海外でしか出現しないポケモンもいて、そのポケモンをフレンドから交換してもらった時に『家宝』ってニックネームにしました。もう、このデータは財産です」

 へぇ。
 財産って面白いなぁ。
 相続財産って言うのもあるから、もしポケモンGOが二十年くらい続いた場合、私のポケモンGOのデータは息子(娘)の誰々に相続させる、なんて遺言が書かれる日が来るかも知れません。

 ちなみに、ポケモンGOって終わるの? と後輩に尋ねてみたこともあります。
「終わらないと思いますよ。本家には絶対に追い付かないようになっていますから、ポケモンっていうコンテンツが続く限りはポケモンGOも続くんじゃないですか」

 ほほぉ。
 ポケモンが発売されたのが、1996年2月で今年で25周年だった訳で、それくらい続くとすれば、まじで相続財産の中にポケモンGOのデータって含まれる未来は全然ありそうじゃありませんか。

 更に調べてみると、現在ポケモンの種類は全部で898とのこと。ポケモンGOは地域で捕まえられるポケモンが違っていたり、イベントによってでしか手に入らないポケモンもいるので、プレイを長く続け、更に色んな地域に行ってポケモンGOを開いている人のデータは時間経過と共に貴重になっていきます。
 実際、ネットで調べるととんでもない値段で、ポケモンGOのデータが販売されていたりもします。

 ポケモンGOというか、位置情報ゲームのデータには価値がある。もしくは、価値を見出すことができるなと思うんです。
 例えば、最近僕が気になっている写真家の大山顕が「新写真論」という本の中で、「GPS地上絵」なるものを紹介していた。
 説明は以下のようなものになる。

 これ(GPS地上絵)はGPS受信機を持って街を歩き、その軌道で絵を描くというものだ。事前に地図上で設計したルートを現地で慎重にたどっていると、奇妙な感覚にとらわれる。まるでナブスター(GPSの衛星)に操られているように感じるのだ。

 また、別の動画の中で大山顕はGPSロガーを十年間とって、グーグルにアップしている、という話をしていました。
 GPSロガーとは、言葉通りですが「GPSから得た位置情報(ポイント)をロガーに記録させ」るものらしいです。

 大山顕はそのようにログをとって、それを見返すことで過去を思い出すんだそうです。そして、対談相手(東浩紀)に「娘に自分のログをプレゼントとしたら、どうか」と提案までしていました。
「自分の父親がどこに行っていたかって知りたくないですか?」

 知りたいと思うかどうかは疑問が残るのですが、ポケモンGOのデータを例えば、相続することができた場合、相続相手が世界のどこへ行っていたのか、というのを確認することができます。
 というのも、ポケモンGOにはジム・ポケストップなるものがあって、これをまわすことでアイテムが手に入り、更にデータ記録されることになります。

 その為、他人のポケモンGOデータを相続した後、その人が訪れたジム・ポケストップ(ポイント)を、自分の足で巡る旅なんかができたりします。
 この設定が小説などの物語として描けるかは分かりませんが、あと十年くらい経てば実際に他人のポケモンGO(もしくは、位置情報アプリ)にログインして、その人の軌道を巡る人は出て来てもおかしくないのかな? と考えられるところまで来たようです。

 最後に、一つ触れておきたい対談があります。
ソードアート・オンライン」や「アクセル・ワールド」の著者であるライトノベル作家の川原礫とNianticの米国本社の副社長である川島優志の対談です。一部がネットに掲載されていて、その中でゲームに対する面白い話をしていました。

 ゲームとかエンタメって、「これを真面目にやってください」と強制する取り組みではありません。みな「面白いからやっている」のですが、結果として、結びついていたものを見つけたり、世界の中での居場所を見つけていたりするのです。正面から取り組むと解決できないものを、別の形で実現させてくれる力を持っています。
「これで社会に役立つ何かを」というのではなく、開かれた取り組みであることが、いろんなアプローチを生むのではないか、という気がします。それが、「エンタメによる社会問題の解決」につながっていかないか、と思うのです。

 こちらはNianticの米国本社の副社長である川島優志の発言でした。
正面から取り組むと解決できないものを、別の形で実現させてくれる力」がゲームやエンタメにはあって、そういう理念が少なからず具現化したアプリがポケモンGO(位置情報ゲーム)であるとするなら、そこにどのような物語性を見出すことができるのか、は小説(あるいは文学)の仕事と言えるのではないか、と書いて今回のエッセイを終わりたいと思います。

サポートいただけたら、夢かな?と思うくらい嬉しいです。