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なしとげられる《かもしれなかった》記憶の蓄積。

 実写版の「惡の華」を見ました。
 原作が好きで、二十代前半くらいに友人から借りて読んでいました。今回の実写映画を見ると、当時抱えていた行き場のない思いとか、悩み。どうしようもない憂鬱とか、誰とも繋がれないんだなぁと言う絶望的な気持ちとかが、ぐわぁっと襲ってきてもだえ苦しみながら、映画を観終りました。

 オードリーの若林正恭がよく二十代を振り返って、「一日も戻りたい日がない」と言っていましたが、本当にそうだなと思います。
 三十歳になって数ヶ月しか経っていない僕ですが、二十代の自分を振り返って「あの当時の僕」が何かを一つでも上手くできたとは思えない、というのが今の僕の感じるところです。

「未熟」が服を着て歩いていただけだな、と思いますし、今も僕は「未熟」です。この「未熟」を「成熟」にして行くのが三十代の仕事なんだなぁと思っている今日この頃です。

 さて、今回のエッセイは今より「未熟」だった二十八歳の頃のものです。よろしければ、一読いただければ幸いです。

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 昔から図書館って空間が好きでした。
 静かで、けど、人がいて、本がいっぱいある。本は値段にかかわらず、借りて家に持って帰ることもできる。借りた本は普段買う本と違い、透明なテープでコーティングされていて、手触りは滑らか。
 図書館の本を手にする時、なんだか特別なものに触れているような気分に僕はなってきました。

 そんな僕ですが、引っ越しをして一年が過ぎても近所の図書館のカードを作らずにいました。理由は単純で、他に読む本が溜まっていたことと、仕事とお酒で忙しかったからでした。
 現在は無職の為、そろそろ図書館で本を借りても良い頃だろう、と最近、貸し出しカードを作りました。
 小さな図書館で、一階が児童書や紙芝居などが並んでいる子供用のスペース。二階が一般書籍が並んでいるスペースとなっていました。
 ちなみに、階段を上がる壁には掲示板があり、近所の中学生のオススメ本などが紹介されてもいました。一般書籍の特集コーナーにはYA小説と題した本棚もあり、利用者の中に学生が多いことが伺えます。

 中学生くらいの女の子とすれ違い、奥へと進み、一つの本棚で佐々木敦の「小説家の饒舌 12のトーク・セッション」を見つけました。読みたいと思いながら、本屋なんかでは一度も見かけたことのない本でした。
 図書館の美徳の一つに、時間が経って本屋に並んでいない本があることだと思っています。
小説家の饒舌 12のトーク・セッション」は12人の小説家に評論家の佐々木敦が話を聞く、というものでした。出版されたのは2011年7月24日。
 内容は、2009年の1月から2010年5月まで、ジュンク堂書店新宿店で新刊を出した小説家を迎えてのトーク・セッションの書籍化と、あとがきにはありました。

 その小説家の中には東浩紀の名前がありました。
 僕は先日、彼の「クォンタム・ファミリーズ」を読んだばかりでした。そして、「小説家の饒舌」の中で語られるのも「クォンタム・ファミリーズ(『QF』って略されるのを、ここで知りました)」についてでした。
クォンタム・ファミリーズ」を説明するのは少々難しいので、文庫版の後ろのあらすじに頼ります。

 人生の折り返し、三五歳を迎えたぼくに、いるはずのない未来の娘からメールが届いた。ぼくは娘に導かれ、新しい家族が持つ新しい人生に足を踏み入れるのだが……核家族を作れない「量子家族」が複数の世界を旅する奇妙な物語。ぼくたちはどこへ行き、どこへ帰ろうとしているのか。三島由紀夫賞受賞作。

 あらすじの中に「複数の世界」とあるように、並行世界ものです。
シュタインズ・ゲート」「僕だけがいない街」、それこそ「うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー」なんかが好きな人にはたまらない作品となっていました。

 その作中で重要視されるのが、「三十五歳問題」というものです。これは主人公が残した村上春樹論の一つなのですが、少々こちらも引用させていただきたと思います。

「――ひとの人生は、過去になしとげたこと、現在なしとげていること、未来でなしとげるかもしれないことだけではなく、過去には決してなしとげたことがなかったが、しかしなとしげられる《かもしれなかった》ことにも支えられている。そして生きるとは、なしとげるかもしれないことのごく一部だけを現実になしとげたことに変え、残りのすべてを、つぎからつぎへと容赦なく、仮定法過去のなしとげられる《かもしれなかった》ことのなかに押し込めていく作業だ。そして、三十五歳を過ぎると、そのなしとげられる《かもしれなかった》ことの貯蔵庫は、じつに大きく重くなってしまう。つまり、過去よりも仮定法過去のほうが、存在した過去よりも存在しなかった過去のほうが大きく重くなってしまう。だからひとは憂鬱になる。そして、その憂鬱からは、わたしたちがひとつの人生のなかでどれだけ成功し、どれだけ幸せを掴んだとしても決して逃れることができない……」

 僕は今二十八歳です。
 七年後に僕は、この「三十五歳問題」にぶつかります。
 確かに僕は僕の中で「なしとげられる《かもしれなかった》」ものについて考えることがありますし、支えられているという自覚もあります。

 そして、それは時々小説のモチーフとなって、文章という形で浮き上がってきます。それは、どこか「なしとげられる《かもしれなかった》」ものに対しての償いに近い感情なのかも知れません。
 その感情や感覚が「三十五歳」を境目に、より重く僕を憂鬱にするのだとします。僕はその訪れる憂鬱をどのように受け止めるよう準備すべきなんだろう?
 あと、七年。
 今から少しずつ考えていきたいと思います。

サポートいただけたら、夢かな?と思うくらい嬉しいです。