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日記 2021年9月 「まぶたを閉じたときに広がる世界を知ら」ないで生きる「番犬」。

 9月某日

 朝、起きたらファーストピアス(スタンドというらしい)が外れていた。そういえば、最近少し面倒くさくて絆創膏をつけて眠っていなかった。
 鏡で耳たぶを確認してみると、ピアスの穴というよりは赤い点みたいな部分があるだけだった。触ってみても、穴があるって感じはなかった。
 針と留め具はベッドにあったので、消毒してから刺し直した。その際、少し痛みがあった。

 9月某日

 新型コロナウイルス感染症対策分科会の尾身茂会長がインスタを開設した、というニュースを見かけた。

 理由は「コロナ対策は「科学だけでは決められないこと」がたくさんあります。例えばコロナとの戦いが長期戦になる中で、「どんな社会で生きていきたいか?」ということなどです。これは皆さんと話し合って決めることだと思っています。」としている。
 そんな「話し合」いをインスタでしなければいけない理由ってなんだろう?

 ちなみにnoteに「コロナ専門家有志の会 | COVID-PAGE」なるアカウントがあり、そこでも尾身茂によるインスタの宣伝と共に呼びかけが行なわれている。

 個人的な感想になるがインスタを「尾身茂」でやる意味が分からない。noteのように「コロナ専門家有志の会」ではいけなかったのだろうか。

 9月某日

 浅井ラボの3月のツイートだけれど、発掘して興味深かったので引用。

 宮口幸治著「ケーキの切れない非行少年たち」を読む。
児童精神科医による実体験。非行少年のかなりの部分が、知的障害や発達障害などで見る力、聞く力、想像力が弱い。漢字は読めないし、計算もできないし、これをしたらどうなるかを想像できない、ので反省以前であるという指摘が重い。
 山本譲司氏の「獄窓期」「累犯障害者」は成人刑務所の四割から五割は各種障害が支援されなかった人々だと指摘していたが、問題はもう生誕時に始まり、小学校で撓められて中学校で発覚していく。

 中略

 医療少年院だと95%が性犯罪。児童猥褻が多い。子供の発達段階で九歳の壁というものがあって、九歳を超えると想像力が発達して口達者になる。児童猥褻の非行少年は、性欲というより、八歳以下の女の子なら自分も話せる、自分を分かってくれると恋心を抱いて近づいていくらしい。

 引用文を読んで思うのは、性欲って恋心とか、承認欲求とも結びついている点は厄介さを増す一因になっているな、という点。
 少し話はズレるけれど、

 の記事の中で、「「同意性交」発言の本質はうら若き少女の肉体を堪能したいという肉慾ではなく、一般的に釣り合いがとれていないとみなされるような、現実味のないスリリングな「恋愛」に身を焦がしたいという憧憬」だとしている。

同意性交」発言とは、「2021年4月から、立憲民主党政務調査会に設定された「性犯罪刑法改正に関するワーキングチーム」(以下、WT)においては、性交同意年齢(刑法177条)を現在の13歳から16歳に引き上げる案の検討が行われ」た際に「本多議員はWTの場で、ゲストとして招聘した島岡まな大阪大学教授(専門は刑法学)に対して、「50代の私と14歳の子とが恋愛したうえでの同意があった場合に罰せられるのはおかしい」、「成人と中学生との恋愛がありうる」などと何度も発言した」というもの。

 その発言の本質は「うら若き少女の肉体を堪能したいという肉慾ではなく」て、「現実味のないスリリングな「恋愛」に身を焦がしたい」という欲望だと記事には書かれている。

 人間の欲望の奥深さ、というか底のなさみたいなものを感じつつ、ふと思うのは浅井ラボの「八歳以下の女の子なら自分も話せる、自分を分かってくれると恋心を抱いて近づ」くって話は「成人と中学生との恋愛がありうる」とちょっと重なる部分があって、成人(50代でも何でも良いけど)した自分の持つ少年的な幼稚な部分を中学生の女の子なら、分かってくれるってことなのだろうか?

 男性の大人になりきれない幼稚さみたいなものを自分の中で処理するのではなく、他人(中学生の女の子)を使って処理ないし、欲望を満たそうとしているってことなら、鳥肌が立つほど引く。

 9月某日

 岩井俊二の「番犬は庭を守る」を読む。
 まじで最高だった。

 岩井俊二と言えば、映画監督であり代表作としては『Love Letter』『リリイ・シュシュのすべて』『花とアリス』などが挙げられるだろう。
 最近の『ラストレター』では作中の小説を岩井俊二自身で書き下ろした、というエピソードもある。
 実際、本屋へ行くと岩井俊二が著作の『リリイ・シュシュのすべて』や『リップヴァンウィンクルの花嫁』といった映画になった作品が並んでいる。
花とアリス殺人事件』に関しては乙一が著者となっていた。岩井俊二と乙一の作る世界観はちょっと似ているので、相性良さそうだ。

 何にしても、岩井俊二が小説を書いているのは知っていたし、書評で彼の小説がべた褒めだったのも読んだことがあった(何のタイトルだったか覚えていないけれど)。
 期待し過ぎは禁物だな、と思いつつ「番犬は庭を守る」を手にとった。解説が金原瑞人で、それも気になった一因だった。
 金原瑞人と言えば翻訳家で、一時期のライトノベルに耽溺していた人間は知らない人がいない「イリヤの空、UFOの夏」の作者、秋山瑞人の師匠にあたる人物でもある(正確には、金原瑞人の小説創作ゼミの生徒が秋山瑞人だった)。

 そんな金原瑞人の解説の冒頭は以下のように始まる。

 困った。
 いままでに何度も文庫の解説を書いてきたけれど、この本は難しい。難しい上に、もどかしい。

 すっごく分かる!
 あらすじを説明するにしても設定が厄介で、それを説明するだけで、「なんか小難しいっすね、じゃあいいっす」って言われかねない。
 まじで、設定とかどうでも良い最高の面白さなんだよ!

 なんと言うか、岩井俊二はどこまで登場人物をイジメて、不幸にすれば気が済むんだ!?ってくらい、とんでもないアレな展開がガンガン進行していって、途中からもう絶対不幸になることが分かっているけど、ページをめくらずにいられない、みたいな小説なんです!

 何を言っているか分からない? そーだよね!
 本屋で「番犬は庭を守る」を見つけたら、第一章だけ読んでください! 第一章の「鯨捕り」は十三ページなので、立ち読みで行ける分量なんです! その癖、この時点で二人の人物の人生を殆ど語り終えてもいるんです!

 阿部和重の「シンセミア」の冒頭「田宮家の歴史」を読んだ時レベルのわくわく感がそこにはあるんです。
 そして、なんと言っても、「番犬は庭を守る」はラストの一文!
 すべて読み終えて、今読み返しても震える。
 たった十五文字の一文の為に、この物語はあったと言っても過言ではないかも知れない。

 僕は元々岩井俊二の映画は好きだったのだけれど、去年公開した『ラストレター』を見た時、ちょっと文系少年の夢を詰め込んだ感があって、面白いのだけれど、最高!とは言えずにいた。
 けれど、それは岩井俊二の一面であり、乙一で言う白乙一、黒乙一に倣えば、『ラストレター』は白岩井俊二だった。
 僕はどちらかと言えば『スワロウテイル』や『リリイ・シュシュのすべて』と言った黒岩井俊二の方が好きだったんだな、と「番犬は庭を守る」を読んで思った。

 何にしても今後は岩井俊二の小説にも注目していきたい。

 9月某日

 最近、気づいたこと。
 島本理生の「2020年の恋人たち」を寝る前に少しずつ読んでいる。その中で、

 アマゾンミュージックで流行った曲をランダムで再生した。今年の新入社員の一人に、今ってどんな音楽が流行っているの、と訊いたら、最近は動画ばかりでそもそも音楽が流行っていないですよ、と言われた。それなら彼らはまぶたを閉じたときに広がる世界を知らずに、目を開け続けているのだろうか。

 という一文があった。
 これって、もう「流行っている」という言葉、そのものが通用しなくなっている、という話なのではないだろうか。
 あるいは流行っている、という言葉そのものが、若者にとって意味が変わって来ているか。
 一つの実感として、「流行っている」という言葉そのものが古い感じはある。

 最近、気づいたこと。
 更新を楽しみにしているよるさん(夜に更新する方なので)のブログの中で、息子のワクチン接種をどうすか、と悩んでいる、という内容を読んだ。

 最近、僕の周りでも一回目の接種を終えた人がちらほら出てきている。僕の住んでいる市でも「11月末までの希望者への接種完了を目指し」とホームページなどに記載している。
 ワクチンの副反応が不安だという友人も何人かいる。
 何が正解か分からないけれど、コロナに罹る方がしんどいだろうと思って、ワクチンを打つつもりでいる。

 けれど、それは僕自身の話で、これが自分の子供や家族と言う話になると、少し分からなくなる。
 人によって正解は様々だし、慎重になり過ぎるくらいが丁度良いのかも知れない。
 そんな中で、絶対に正しいことがあるとすれば、思い悩んだその時間は正しいんだろうな、と思う。

 最近、気づいたこと。
 東浩紀がツイッターで「今回のコロナ禍でわかったのは、日本はとにかく「お願い」とコネの社会だということです。法は口実としてしか存在していない。」と書いていた。
 日本の人情もの映画の最後の切り札って「お願い」コネな印象がある。
 うちの父親が酔っ払うと「一千万とか突然、入ってきても一瞬で使える」とよく言っていて、お金が一瞬で使える俺すごい、みたいな感覚があるっぽくて、その内訳を聞くと「どこそこの誰々の車のローンを払ってやって~」とか言う。
 え、なんで、金が入ったからって他人の車のローンとか払うって言う話になるの? って思うけど、つまり、それってコネを作るってことなんだろう。
 そうすることで、自分の「お願い」を聞いてもらいやすくする、って話だとすると、ちょっと納得する。

 9月某日

朝日新聞「文芸時評」の記述めぐり議論 桜庭一樹さん、鴻巣友季子さん」がアップされた。

議論」の元々は、鴻巣友季子が朝日新聞「文芸時評」にて桜庭一樹の「少女を埋める」(文学界9月号)を取りあげた際、あらすじの中で「(母は父を)虐待した。弱弱介護の密室での出来事だ」と書き、桜庭一樹が「そのようなシーンは、小説のどこにも、一つもありません」と抗議した、という形だった。

 桜庭一樹の抗議はツイッターでおこなわれ、それを僕はリアルタイムで追っていた。当初、桜庭一樹は朝日新聞「文芸時評」の内容が修正されないのなら、今自分がしている仕事は全て下りると、宣言していた(今確認すると、その部分は消されているようだった)。

 あらすじも評論の一部という感覚が僕にはある。また、文学界9月号を購入していたので、「少女を埋める」を確認すると「創作」となっていた。
 URLを貼った「朝日新聞「文芸時評」の記述めぐり議論 桜庭一樹さん、鴻巣友季子さん」の中で、桜庭一樹は「私の自伝的な小説『少女を埋める』に」と書いている。実際、内容を読むと桜庭一樹だろうと分かる書き方はされている。

 けれど、文學界の目次は「創作 桜庭一樹 少女を埋める 180枚」だ。創作、つまり小説(フィクション)である以上、「少女を埋める」が自伝的かどうかは、判断がつかない。
 これが「エッセイ」あるいは「ノンフィクション」だったなら、あらすじは書かれているものから摘出して書くべきだろう。
 しかし、それは小説なのだ。読んだ読者の解釈が加わっても良いのではないだろうか。

 という部分に関して、桜庭一樹は「小説の読み方は、もちろん読者の自由です。時には実際の描写にはない余白のストーリーを想像(二次創作)することもあり、それも読書という創造的行為の一つだと私は考えます。しかしその想像は評者の主観的解釈として掲載すべきであり、実際に小説にそう書かれていたかのようにあらすじとして書いては、いけない。それは、これから小説を読む方の多様な読みを阻害することにも繋(つな)がります。」と書いている。

余白のストーリーを想像(二次創作)する」って、二次創作なのか。

 何にしても、それはその通りなのだろう。
 僕は未熟な読者であり、誤読して書いたあらすじが「主観的解釈として」ではなく、「実際に小説にそう書かれていたかのようにあらすじとして書いて」いる可能性はゼロじゃないな、と思ったので、しばらくnoteでエッセイを更新するのをやめようと決めた次第です。

 ということで、最近は小説を連載しています。

 しばらくの間、連載するので読んでいただけたら幸いです。

サポートいただけたら、夢かな?と思うくらい嬉しいです。