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親の器、なんてものがあるなら

独り身のころ、やりたいことのために最初に犠牲にすべきは睡眠時間でした。働いて自由に使えるお金が増えた、一人暮らしで親の目も気にならない、体力なら有り余るほどある。なにが足りない?時間が足りない!

パリに暮らしはじめてからは、国籍性別関係なくただ人に出会えることが刺激的で、話すのが楽しくて、お酒もおいしくて(?)、夜な夜な遊び倒したあと、仮眠3〜4時間で仕事に行くなんてことも日常茶飯事でした。それこそ眠るのがもったいない、そんな毎日。

若かったからあんな無茶ができた、というのも年を重ねるたびに痛感しますが、それ以上に私の時間が私だけのものだった、というのが大きな理由。だって正直に言えば、私の睡眠時間は、言うほど削られていなかったのですから。

徹夜した翌日に仕事が入っていなければ、一日中眠ることもできました。待ち合わせの時間まで仮眠…のつもりが寝過ごして、友だちとの約束に遅れたこともありました。(なんて失礼なヤツ!)とにかく、睡眠は、隙間をみつけて補うか、眠れるときに貯めておく。24時間×365日のうち、いつ眠るかは私次第だったのです。

それは、夫と付き合っていたころも、結婚してからも、あまり変わりませんでした。お互いに"相手が不快になることはしない"という最低限のルールさえ守れば、会いたい人に会って、食べたいものを食べて、眠りたい時に眠る、自分のリズムは守られていました。

私の時間が私だけのものでなくなったのは、娘が生まれてからです。

「自分のための時間がない!自分だけの時間がない!」

娘が生まれてから、何度この言葉を呟いたでしょう。叫んだこともあったかも。

世に言う晩婚で高齢出産、自分のためだけに人生を謳歌してきた私にとって、誰かに行動を制限されることは、そう簡単に受け入れられるものではありませんでした。それが最愛の娘であっても、です。かわいくてひとときも離れたくないと思うと同時に、娘のリズムで暮らす窮屈さに窒息寸前。しかも、やっとのことで手に入れた唯一の自分時間=睡眠を邪魔される悔しさときたら、もう、泣けてくるほど。

「違うの、あなたのせいじゃない。私は、ただ…眠たいだけなの」

夜の終わりか朝の始まりかという時間帯、腕の中にいた小さな娘にポロッとでた本音。

そう、私は眠たかったのです。

思えば、娘に自分の時間を浸食されていると感じたあのときも、自分の自由を奪われていると感じたあのときも、私は睡眠不足だった。睡眠が足りていない状態で、心に余裕のない状態で、身体に疲れが溜まっている状態で、子どもを愛せるわけない!とりあえず、寝なきゃ!

思い立ったが吉日で、その日の朝、起きてきた夫に授乳以外のすべてを託し、私はとにかく寝ました。眠れるだけ寝ました。そして、私は生まれ変わりました。

「親としての器が小さいのは私のせいじゃなくて、睡眠不足のせいなのだ(バカボンのパパ風に)」

そう考えるようになってから、だいぶ楽になりました。娘が1歳になるころには、ひとり寝の習慣をつけ、続けて夜の授乳もやめたら、朝までぐっすり眠るようになりました。

娘が昼寝するときは一緒に昼寝する。週末は夫に遠慮なく朝寝坊する。今日のうちにすべき家事より睡眠を優先する。それだけのことを、しかもたまにするだけで、娘の無理難題なわがままも、不可解な行動や言動も、愛おしくて仕方がなくなりました。もちろん、簡単にいかない日もありますが、最低限の睡眠さえ確保できていれば、たいていのことは笑って受け入れられます。私の親としての器は、今や菩薩級の大きさなのです。

いい親になりたいなら、まず眠ること。
娘を心底愛したいのなら、よく眠ること。

親としての器の秘訣は睡眠にあり。眠るのも立派な子育て。そう信じて、私はまたベッドに潜り込むのです。

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