見出し画像

たとえ会えなくてもずっと愛しているからね

夢に亡くなった前夫が出てきた。

最近、彼と働いていた頃の回想録を書いているから、潜在意識が刺激されたのかもしれない。

前夫が亡くなって11年。彼のことは毎日少なくとも一回は思い出していると言って過言ではないのだが、夢で会えることはあまりないので、出てくると記録したくなってこうしてキーボードを叩いている。


夢の設定は、彼がもう亡くなりそうで、私がお別れを言いに病院に行く、というところから始まった。

実際には彼の最後は自宅で看取ったのだが、夢ではどうやら我々はお互いのことを思って別れることを選択しており、私は彼の看病はもちろんお見舞いにも行っていなかったが、いよいよ最後の時だという連絡が彼のお父さんから入って彼に会いにいった、ということになっていた。

病院に着いて病室を覗くと、前夫は友人に囲まれて楽しそうに談笑しており、その顔色や肉付きは最後を迎える人とは思えないくらい元気そうだった。

気心知れた男同士の楽しそうな会話に、もう別れていて妻でも恋人でもない私が割り込むのはちょっとな、と躊躇しているとちょうどお義父さん(お義父さんとは今も仲良し)が通りがかったので、二人で病院内の喫茶店でお茶をした。

お義父さんは、「ああ見えても、彼は本当に最後なんだ」と私に言った。

「僕は、時々、悔やむんですよ。彼が最初に病院に行く時、ちょっとタイミングをずらすことができたら、主治医が変わって、病気の治療の内容も変わって、結果も変わったんじゃないかって…」

そんなことはきっとない。

と言おうと思ったけれど言葉には出せずそのシーンは終わった。


再び病室を覗くと、前夫は相変わらず友達に囲まれて楽しそうにしていたので、私は帰ることにした。

顔を合わせたら泣いちゃいそうな気もしたし、せっかく楽しそうにしているところ、泣いてさよならを言うのははばかられた。

最後に元気な姿を見られたからそれでいいや、と思った。


病院を出たところで、病院のスタッフに呼び止められた。

「これ、◯◯(夫の名)からの預かりものです」

それは白い封筒で、開けると、中にはいくばくかのお札と、紙が入っていた。

紙は生成色の和紙で、広げると彼の手書きの毛筆の一文があった。


「たとえ会えなくなってもずっと愛しているからね」



ヘタウマな、アートのような、私の大好きだった彼の手書き文字。

それを見て、やっぱりちゃんとお別れを言おうと私は思い直した。

「さよなら」と泣くのはなく、「ではね!」と笑ってお別れしよう、と。

ところが、病院に戻ったはずの私は、なぜか雑踏の中にいて、もう彼の姿を探し出すことはできなかった。



私は、ここ最近、毎日に小さな冒険を心がけるようになったのだが、実を言うとそれをやるようになって、前夫のことを再び身近に感じるようになっている。

↑にも書いたように、彼はとてもアドベンチャラスな人で、私はそんな彼に振り回されつつも、彼のおかげで普通とはちょっと違ういろんな体験ができたし、そんなアドベンチャーを楽しんでいた。

ありし日の彼がしていたような冒険には及ばないにしても、自分なりの小さな冒険を日常に取り入れ始めたら、私が大好きだった彼の一部が、自分の中の一部と同化したような、彼が自分の人生に戻ってきたような気がしているのだ。


そして、このタイミングで、「ずっと呼ばれているんだけど、重い腰が上がらないのよね」と言っていたシャスタへの誘いが舞い込んだ。

↑にも書いたけれど、この夏は自分の人生の大きな転換期であることをひしひしと感じていて、シャスタに行くことで一つのサイクルの完了を宣言することになるという気がしてならない。

彼を亡くしてからずっと探していたものをようやく見つけた、そんな気分。

自分の内側に起こったこの変容をいつか言語化できたらいいなと思う一方で、もうなんでもかんでも言語化しなくていいよ、とも思うようになった。

ただ、生きよう。

生きている限り、生きよう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?