感受性

 気付く力と言うべきなのか? 敏感な人、気付いたけど対応に困って何もしない人、鈍感な振りをしてやり過ごす人、本当に何も感じていない鈍感な人、実に様々。
 「気付いてくれない!」と不満を言われる人も居れば、相手の素振りや何気ない言動だけでも相手の心持ちが解ってしまい、それだけで萎縮してしまう人も居る。
 対人折衝には勿論、何気ない会話のときにも感受性は大事なんだけど、本当に鈍感な人に感受性を持ってもらうことが一番難しい。少しでも気付くことができているなら、それを伸ばすのはテクニックの領域であり、やりようはあるのだが、芽が無いと伸ばすことはできないのである。
 逆に敏感すぎて困る人は、心理学的な「人間の行動の意味」を理解し、相手の心持ちの理解の更に奥底を探り、価値観の理解にまで到達すれば怖がる必要がない事に気付くのではないだろうか?「やりようはある!」とエールを送りたい。

 Zoomなどの遠隔会議で もどかしさを感じるのは、相手の表情の変化が捉え難くなり、感受性を強制的に落とされた状態で会話を続けなければならないから ではなかろうか? 日本ではサングラスをしている人に怪しさを感じ、欧米では日頃からマスクをする日本人に異常さを感じていた。これは「眼(+その周辺)でニュアンスを伝える日本人と、口元でニュアンスを伝える欧米人の違いという説があり 妙に納得している。マスクをする事が世界的に日常になるであろう今後、欧米人のニュアンスの伝え方はどう変わるのであろう。身振り手振りが更に大きくなるのか?眼元だけでもニュアンスを感じられるように感受性が高まるのであろうか?

  遠隔会議での孤独感を和らげる可能性について以下のブログで気付きがあった。こんな風に関係者の動向が見える化されると一体感というかコミュニティーに参加している感覚が得られるのだろう。感受性に対する刺激方法という視点で見ると面白い。
「仮想オフィスを導入してみたら意外とよかった話。」
https://agileware.jp/blog/2020_0415/
 「Webカメラにエフェクトを掛ける強い必要性」については全く気付かなかった。カメラで写される画像の真実性はどんどん失われていくが、加工され続けた画像の中に最後まで残る意義は何になるのか? 結局、カメラって何の為にあるの?という本質的な問に対する答えが出てくるかもしれない。

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