結婚の意味

 妻の親の出身は山奥の村である。200人くらいの集落ではあるが苗字はおおよそ3種類しかない。一番多い苗字の人達で過半数を占めている。こうなると名前を呼ぶときに苗字(family name)は意味を成さない。下の名(given name)を使うのだが、小さい子などは知名度が低いから名前を聞いても何処の子か分かりにくい。こんなときに役立つのが屋号(家名)である。屋号は家を新築したときの家主の下の名である。親の家を相続したり建て直しをしても屋号は変わらない。だから、例えば山口宗右衛門さんが家を建てたらその家に住む人は全員「宗右衛門」という屋号になり、幾つもの代替わりを繰り返して数百年過ぎても「宗右衛門」の屋号は変わらずに引き継がれる。次男や三男は長男が顕在である限りは家を継げないので結婚すると家を出ることになる。山口二郎さんが結婚し 独立し 家を建てると、その家族の屋号は「二郎」である。なので屋号には一以外の数字が含まれる場合が多い。逆に数字が含まれない屋号は代々受け継がれてきた本家である可能性が高い。屋号を聞くだけで格式が判る。

 私は北海道の出身なので少々の田舎には驚かないが、この山村の田舎具合は別格だった。北海道には平野が多いので特別な事情がない限り山奥に大人数で住むことはない。この山村は海側から渓谷沿いの険しい道を登った後に広がる小さな扇状地(大きな川に複数の小さな川が合流する地点にできた平野)であり、周囲の町から隔絶されている。本家筋の家系は24代を超えており400年以上の歴史を持っていると考えられる。村には能が受け継がれており戦国時代に遠い文化圏から逃げ延びてきたのではないかと想像した。家々は崖崩れのリスクを負いながらも山のふもとに建てられており、限られた平野をできるだけ田にしようと考えていることが伺い知れた。

 大きな病院までは車でも1時間程掛かる山奥の土地なので、昔であれば病気になっても なかなか病院へは行けなかったであろう。ひとたび病気になれば命を失う可能性は高かっただろうし幼児の死亡率も高かったであろう。それは、家系図に子沢山であろう例えば七郎という名前があっても下に伸びる線は多くなく、若くして亡くなる事が度々起きていた証である。(余りにも親戚関係が複雑だったので誰と誰が何の親戚なのかを理解する為に、家系図を書きながら整理する必要があった)
 飢饉ともなれば家族全員が冬を越せるのかは怪しくなるだろう。人買い、赤子の口減らし、姥捨ての話は敢えて聞くことはしなかったが、何某かの悲しい事態は想像に難くない。おそらく頻繁に「死」と向き合っていたからであろうか「生きている事の喜び」を確認するかの様に何らかの祭りが毎月の様にある。毎月毎月稲が順調に育つことが「死」からの距離を保っていることを確認できる喜びなのである。秋の収穫を迎えることが「死」から遠退いた確証なのだから祭りの喜びは格別だったと思われる。本来、祭りとは過去の悲しさと今の現実を対比し、喜びを深く実感しつつ翌年に備える心の区切りを付ける儀式なのだと思う。

 できるだけ「生」を保つ為にはコミュニティーとの繋がりは欠かせない。最も小さなコミュニティーは屋号で表される家族(父,母,子,父方の爺婆)であり、その外側には母方の爺婆、父や母の兄弟姉妹、生きていれば父方の婆の兄弟姉妹と両親といったコミュニティーである。
 それ以外にも(かど)という数~十数軒の御近所を単位とした小さな町内会のようなコミュニティーもある。冠婚葬祭、用水路の整備といった一時的に人手が必要になる様な事態は門の人達で対応することになる。
 結婚とは家(屋号)、親戚、門、村のコミュニティーの一員になる事でもあり、また、結婚前に所属していたコミュニティーと結婚後のコミュニティーを橋渡しする意義もあり「生」を意識した運命共同体への参加と構築という意味があった。

 北海道では就職や大学へ進学する際に地域を離れる事が殆どなので上記のような重層的なコミュニティーは形成されない。私が実家へ帰省しても小中学校時代の同級生は地元に10%も居るかどうかという程度である。
 現代は昔に比べて「死」から遠ざかったし、助け合いのための重層的なコミュニティーの必要性は少なくなった(少なくなったとはいえ有効性の有無は別問題)。もはや結婚の意味は子育てと老後における共助の約束くらいしか残っていないのかもしれない。

 しかし、今一度コミュニティーを意識する事に意義があると思う。既に皆さんは幼/小/中/高/大/院という学校コミュニティーの何れかに参加した経験はあるだろうし、会社というコミュニティーに参加している人も多いだろう。
 現代は核家族どころか家族すら作らない独りぼっちが珍しくなくなっている時代である。仕事に関わるコミュニティーでは、しばしば仕事を離れた内容の、その人の周辺に形成されている知り合いコミュニティーに魅力を感じることがある。その知り合いコミュニティーに自分が参加できたときに新たな世界の広がりを感じたことはないだろうか?
 山奥の村に話は戻るが、私は他県ナンバーの車で乗り入れているので他所者が来たことは村内に直ぐに発覚し知れ渡る。車で村内を移動しながら時折車を降りて散策していると、地元の人から「何でこんな所に居るんだ?」と問われる。「xx(屋号)の者です」と言うと怪訝そうな表情は一瞬にして笑顔になり、頼まずとも色々なことを説明してくれ、村の一員になったことを実感できる。初めて会った人であってもコミュニティーメンバーであることを示すと一気に距離が縮まる。これは知り合いコミュニティーにおいても同じである。

 結婚は他のコミュニティーの関係性に比べ最も強く深い関係性である。結婚という関係性を築くと、結婚相手が持っていたコミュニティーとも自動的に接続することになる。結婚候補がどの様な個人的な知り合いコミュニティーを築けているのか?が人となりを表現しているわけであり、重視すべきである。強制的に参加させられるコミュニティーが減ってきた今、自らが参加、或いは構築するコミュニティーの質が人生の中での重要度が高くなる。世の中の繋がりがグローバルになりつつある今、「あなたは世の中にどの様な影響を提供できますか?」という問いに対する答えを用意するとき自分が持つコミュニティーが強力な助けとなりまた武器になる。

 結婚の意味に話を戻すと、結婚候補がどの様な知り合いコミュニティーを築いているのか?で結婚候補の人間性が明らかになってくる。そのコミュニティーに魅力を感じるのか?というよりも、その様なコミュニティーを築くことができる人の人間性と末永く付き合うことに魅力を感じられるのかが注目すべき点である。結婚の意味の一つには、自分とは異なる人間性を側に引き寄せ、その世界を経験できる楽しみを得ることが含まれていると考える。

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