歌レク ~認知症を罹患した両親からのギフト~

 天職とは天から授かった職業、またはその人の天性に最も合った職業のこと。稼ぎが少なくても天職と呼んで構わないのなら、これからお伝えする仕事は私の天職だと思う。

1.天職は歌レクレーション
 私の天職は高齢者向けの歌レクレーション(以下、歌レク)を主催することだ。定期的に介護保険サービス施設(通称、デイサービス)と長期滞在型の高齢者施設へ伺い、みんなで歌をうたうレクレーションの進行役と伴奏役を務めている。1セッション50分。歌のジャンルは民謡、童謡、唱歌、演歌、歌謡曲、外国の歌など様々で、リクエストがあれば、ほぼ何でもお応えする。

 ボランティア時代を含めると今年2022年10月で11年目に入った。コロナ禍以前は年間200回近いご依頼をいただいていた。ここ2年で激減したが、今年からゆっくりと復活してきている。

 歌レクだけでは食べていけないのが現状だ。だから私は個人事業主として他の事業にも取り組んでいる。しかしどうやら私には商売のセンスがない。一応、最終学歴は大学院。サイエンスを専攻していたので数字が特に苦手というわけではないが、経営とか収益といったお金がらみのことになると「んー分らん」と考えることをあきらめてしまう。リッチ、スマート、ハイキャリアといったイメージから滅法離れている存在だ。

 こんな感じの私だが、誰にも文句を言われることなく歌レクを継続できている。理由は単純。企画から演奏まで全ての作業を私一人で行っているからだ。チームプレーより個人プレーの方が得意という自分の特性をそのまま生かせる仕事はありがたい。また、声と歌心と鍵盤楽器があればどこでも開催できる点も気に入っている。ふらっと旅をすることが好きな私は、依頼があれば遠方でも歌レクを開催する。報酬より交通費の方が高くつくが、旅行がてら歌レクができてラッキー!と満足してしまう。そう、この事業では費用対効果の『効果』の部分に『楽しい!感謝感激!』を適当に数値化して入れ込んでいるのだ。

 ある日、長くお付き合いいただいている関係者から「まさに天職ですね」と言われた。「天職?」その時は、それが何を意味するのかよく分らなかったのだが、これまでの経緯を丁寧に振り返ってみると、確かに歌レクは私の天職なのだと思う。


2.「歌いたい」は「生きたい」~声を批判された幼少期~
 「歌は好きなんだけど、歌うのが下手だから。」、「息子にね、お母さんの声よくないって言われたの。」、「歳とともに声が出なくなってきてねぇ。」さまざまな理由で歌を歌わない利用者さまがいらっしゃる。とはいえ、毎回歌レクに参加してくださるので歌が好きなのだろうなぁと思いながら静かに見守っていると、すぼんでいた口が星の瞬きのように動きはじめ、淡雪のように消えそうな声が聞こえてくる。
「あっ、○○さんのお声だ!」
私がこの仕事で喜びを感じる瞬間だ。
 
 実は私も歌いたいけど歌えない人だった。幼少期、身近な人に自分の歌声を否定され続けたことが原因だ。自分の歌声に自信がある人は、兎角、声の良し悪しについて言及したがる傾向がある。私が歌うと「なんで鼻に掛けて歌うのかなぁ?」「発声がなってない。」と批判してきた。幼い子どもは自己防衛の方法を知らない。クリティカルな思考も難しい。だから私は批判の言葉を跳ね返せずに聞き入れてしまっていた。声という非常にプライベートなものを何度も否定してくる理不尽極まりない言動は、喉に出刃包丁をつきつけられているのと同じぐらい恐ろしいものだった。幼いころから音楽が好きで、天真爛漫に歌を楽しんでいた私の気持ちは徐々に萎んでいき、終いには自分の本当の声がどこにあるのかわからなくなった。私はその苦しみを誰にも言えず、いつしか声を探す孤独の旅に出ていた。

 ラッキーとしかいいようがないのだが、この苦しみは苦しみで終わらなかった。月日とともに路上演奏するエネルギーへと昇華し、路上で出会う人々との不思議な交流を通して、私は再び歌う喜びを手にすることができた。

 声に良し悪しや正解不正解はない。良し悪しを決めつけているのは人間の愚かさだ。声という天からの贈り物を愛でることなく、批判に走るのはおこがましい。人が「歌いたい」と思う心には、大なり小なり「生きたい」という根源的な願いがある。テクニックの有無は横に置いておいて、まずはお互いの「歌いたい気持ち」を尊重し合うことが大事だ。私は声を否定された経験があるからか、何らかの理由で歌いたいのに歌えない人たちの苦しみや悲しみにスッと寄り添える。歌レクという「場」が、利用者さまにとって安心して歌うことができる安全地帯になれるよう心配りしている。


3.尊い存在
「歌レクは音楽療法なのですか?」と訊ねられることがある。そもそも音楽療法について門外漢の私は、自分がやっていることが音楽療法に関係しているのかどうか判断できない。お伝えできることは、歌レクは音楽の治療効果を利用したり期待したりしていないこと。お互いの声を大切に、「今、一緒に歌う」活動だということ。

 とはいえ付随的な朗報をいただくことは多い。例えば、利用者様の表情が豊かになった、発話が減ってきていたが話すようになった、認知症の進みが遅くなった等々。勿論これは嬉しいことだ。これまで延べ4万人以上の人々と歌ってきた中で、さまざまなエピソードがあるので少し紹介させていただきたい。

~Aさんと「異国の丘」~
 Aさんは大柄で、強面。あまり自分からお話をしない方だったが、ある日のこと、珍しくAさんの方から私へ声をかけてきた。
「あのさ、異国の丘を歌いたい。」
「・・・?」
私はその歌を知らなかったので、そのことを正直に伝えた。
「今すぐに伴奏できなくて本当にごめんなさい。必ず準備してきますので、次回一緒に歌ってくださいますか。」
「あぁ。 異国の丘・・・・」
その日のセッション終了後、私はすぐにPCで「異国の丘」を検索した。ウィキペディアによれば、作詞は増田幸治、作曲は吉田正。戦後、シベリアに抑留されていた兵士の間で歌われた望郷の歌だということがわかった。昭和23年8月8日、NHKラジオの素人のど自慢で、シベリア復員兵だった方がよみ人しらず「俘虜の歌える」と題して歌ったのを機に社会認知が広まったらしい。

 歌レクで戦争にまつわる歌を歌うときには気をつけなければならない。受け止め方が人それぞれだからだ。例えば急に感情が高まり血圧が不安定になる等のリスクがある。早速、施設の担当者の方へメールし、Aさんから「異国の丘」のリクエストがあったこと、その歌は戦争にまつわる歌なのだが合唱してもよいかを相談した。「もし何かあればスタッフが対応しますので、ぜひ準備をお願いします。」との心強いお言葉とともに許可がおりた。私はYouTubeで「異国の丘」を聞きながら、Aさんと歌える日を待ち遠しく感じていた。同時に、自分が経験していない戦争についての歌をご一緒するのだから謙虚に学ばせていただく姿勢を崩さずに、と言い聞かせた。

 「異国の丘」を歌う日が来た。私は施設に入るといつもどおり「こんにちは」と挨拶し、一礼した。皆さまのお顔を拝見したところ20数名ほどいらっしゃる。Aさんはいつも通り無口で目を合わせてくれない。リクエストしたことを覚えているか確認するため、私はAさんのお席へ歩み寄った。
「この間は異国の丘について教えてくださりありがとうございました。準備してきたので、今日一緒に歌ってください。お願いします。」
「あぁ。」
1週間前の会話を覚えているようだった。

 私は皆様に向かって、これから『異国の丘』を合唱すること、Aさんからのリクエストであること、私は戦争を経験していないので謙虚な気持ちでご一緒したい旨をお伝えした。すると「ああ、異国の丘ねぇ。覚えてる、覚えてる。懐かしいねぇ。」との声が上がった。優しいお声に私はホッとして、ゆっくりと鼻から息を吸い込んだ。初めてご一緒する歌のときは何が起こるか全く予測が立たないため不安と緊張を感じるもので、どうしても呼吸が浅くなってしまう。

「♪今日も暮れゆく 異国の丘に 友よ 辛かろう 切なかろう 我慢だ 待ってろ~♪」
1番が終わるあたりで、私はAさんがうつむいていることに気づいた。大きくて分厚い肩をヒクヒクふるわせていたかと思うと、人目も憚らず声を出して泣き始めた。それに気づいて貰い泣きする方もでてきた。私も泣き出しそうになったが進行役として泣いてはならぬと踏ん張り、何とか最後まで歌い切った。Aさんは曲の最後まで泣き止むことはなかった。

 しばらくしてAさんは床をみながら「辛かった。友達の○○のこと思い出した。」と呟いた。

 Aさんには、この歌を歌いたい理由があったのだろう。ご友人へのお弔いだったのだろうか、思い出した友達とはどんな人だったのだろうか。戦争を経験していない私が興味本位で質問することは無礼にあたるような気がしてならず、一旦思考を止め、感謝の気持ちだけをAさんに伝えた。
「Aさん、今日は異国の丘を一緒に歌えて光栄でした。また歌いたくなったら声かけてくださいね。いつでもOKなので。」
私は左手の親指と人差し指で輪っかを作り、OKポーズと取ってみせた。
「あぁ。」
いつものAさんに戻っていた。

 「異国の丘」は、想像を絶する苦境にいた日本人が「生きよう」と叫んだ魂の歌であると同時に、一瞬一瞬、お互いの命をつなぐために歌い合った究極の「友情の歌」だと思う。戦後70年以上たった今でも戦争中の苦しみや悲しみが人の心の深部をさまよっていることがわかり、戦争の争の爪痕の深さに衝撃を受けた。Aさんを通して感じたこの気持ちは、本や映画をとおして感じるものとはひと味違うものだった。「どんなに困難でも私たちは戦争を繰り返してはならない。」その場にいた全員がそう思っていたのではないかと思う。

 それ以来、Aさんは私の歌レクに毎回参加してくださるようになった。会話する機会も少し増え、ときには笑顔を拝見することもできた。実はAさんは演歌にも詳しく、好きな演歌を私に教えてくれたりもした。歌レクを終えて私が退室するとき、いつも大きな肉厚の手を上げてバイバイと手を振ってくれる。目は合わせてくれない。でもAさんのバイバイから「また来いよ」という声なきメッセージが聞こえてくるようで嬉しかった。

 その施設は数年前、突然閉鎖となった。Aさんとお会いできなくなって久しいが、私は「異国の丘」を歌う度にAさんのお声と涙を思い出す。「異国の丘を歌いたい」というお気持ちを真っ直ぐに伝えてくださったAさんは、尊い存在として私の胸に焼き付いている。

~Mさんと「川の流れのように」~
 私がはじめてMさんとお会いしたとき、Mさんは筋肉の病が進行中とのことで特殊な椅子の上で生活されていた。大きなヨダレかけが必要な様態で、介護職員の方を呼ぶ声もか細かった。

 ある日の歌レク終盤、いつものように「皆さま、リクエストはございますか。」と訊ねた。するとMさんの片腕がゆっくりあがり声が聞こえた。てっきり私は、Mさんが介護職員の方を呼んでいるのかと思った。
「いや違う、私を見ている!」
Mさんの目の形状はとろんとした垂れ目だが、目玉の奥底から強い意志のビームが私へ向かって飛んできていた。直ぐさまMさんの椅子へ歩み寄りメッセージを聞き取ろうとした。しかし難しい。近くにいた介護職員さまも手伝ってくださり、やっと分った。『川の流れのように』を歌いたいとリクエストしてくださっていたのだ。Mさんからの初リクエストだった。私は嬉しくて飛び上がりそうだった。

 「リクエストありがとうございます。今から歌いましょう。よしっ、歌いましょう!」
急遽プログラムを変更し、皆で「川の流れのように」を合唱した。Mさんは声こそ出していなかったが、目のビームは穏やかになり、ゆったりと歌を楽しんでいるご様子だった。私はMさんと「川の流れのように」を歌えている今がひどく特別なことに感じられ、急に感極まって声がつまってしまった。Mさんは動かない。でもMさんがそばで見守ってくださっているように感じてならなかった。

 セッション終了後、施設の社長から
「Mさんが手を上げたからビックリしましたよ。もう腕は上がらないと思っていたので。」
「えっ、そうなんですか。」
「お母様も歌が大好きで、親子で歌好きなんですよ。直ぐにリクエストに応えてくださったのでありがたかったです。明日また体調がどうなるかわからないので。」

 Mさんの『川の流れのように』を歌いたいというお気持ちには、持病に抗い腕を持ち上げるだけのエネルギーが帯びていたことを知り鳥肌がたった。と同時に、私はそれに相応しいだけの対応ができていたか振り返ると全く心許なく、猛省してしまった。あの日の「川の流れのように」とMさんのオーラを忘れることはないだろう。 

 それから3年ほど経ったある朝、私は個人的な興味で「英文学教授が教えたがる名作の英語」(著者:阿部公彦、出版社:文藝春秋)を読んでいた。73頁に書かれてある詩に心奪われ、二度三度黙読しているとニョロっと蛇が石垣から顔をだすようにMさんのことが意識にのぼってきた。
「耳に聞こえる音楽も美しいが、耳に聞こえない音楽は
より美しい だから甘美な笛よ 奏でよ
肉体の耳にではなく もっと慕わしいもの
魂へと 音のない調べを」
これは、ロマン派詩人であるジョン・キーツの詩『ギリシャ壺に寄せるオード』の一部だ。
「あの時のMさんだ、私の魂へ響く歌を届けてくれたのは。」
刻々と筋肉が動かなくなっていたMさんは、歌レクで一度も物理的に歌わなかった。しかし、あの日は確かに「川の流れのように」を歌っていたのだ。耳で聞くことのできない音なき歌声は、ジョン・キーツが謳ったようにより美しく、そして尊い。Mさんの存在とあの場で感極まった自分を思い出し目を閉じた。静かに本も閉じた。

 このような経験をする度に「歌いたい」という気持ちは「生きたい」という気持ちの表れだとわかる。その一生懸命に生きている相手は尊い存在だと感じられる。尊い存在と合唱できることが私の生きる力になる。介護職員の皆様から信頼されることも嬉しい。私は歌レクを主催している身でありながら、実は皆様が私の人生を主催してくださっているのではないかとすら感じて、毎回感謝しかない心境に帰着する。

4.人生最高のギフト
 私の両親は二人とも、私が30代前半のときに認知症に罹患した。特に父は重度だった。同じ屋根の下で暮らしていたわけではないのだが、帰省の度に介護が待っているのは想像以上にキツかった。『たまの休暇に帰省=気楽なバケーション』だった時代は完全に終わった。

 介護経験のある方なら容易に想像できると思うが、毎日の洗濯物や掃除の頻度が増えることはもちろん、突拍子もないことが次から次へと生じる。特に私が困ったのは父からの電話だった。平日の勤務時間中に突然電話がかかってくる。緊急事態の可能性もあるので出ると「看取ってほしい。帰ってきてほしい。」、「盗聴されているような気がする。助けて欲しい。」と懇願してくる。その声は、私の心の中にあった苛立ち、怒り、悲しみ、罪悪感といった負の感情を爆発させたものだった。集中しなければこなせない業務が手につかなくなり、自分を責めてしまうこともあった。
「この生活いつまで続くの?私の30代どうなっちゃうの?もし40代もずっとこの状態が続いたらどうなる?」
私は将来のことを思うと絶望感にさいなまれ、両親に対して憎しみの感情すら生まれてきた。そんな私の胸の内を見透かしていたかのように、あるとき急に母が台所で怒りだした。頭に血が上っているようすがありありとわかるほど顔が紅葉していた。
「どうせ死ねって思っているんでしょ、どうせっ!」
私は、思考停止状態となった。光の届かない深海へ自分の身体がゆっくり沈んでいくような振り払えない恐怖を全身で感じ、否定も肯定もできず立ちすくんでいた。

 今思えば、両親も相当生きづらさを感じていたのだと思う。それをなんとかしたかったのだろうか。ある日、父は大きな声で歌いはじめた。
「♪どぉ~し~て~ こんなに~ いじ~め~る~の~♪」
誰の歌?私には皆目検討がつかなかった。その後も、父は事あるごとに「♪どぉ~し~て~ こんなに~ いじ~め~る~の~♪」と歌う。私は「それはこっちの台詞だよ」と思いながら、ちょっとふざけた声をだして同じフレーズを歌い返した。すると居間に笑いの風がふわりと吹き、空気が変わった。
「ねえ、それ誰の歌なの?」
「ん?ぴんからトリオ。」
「誰それ?」
「ぴんからトリオ・・・」
「・・・・」

 インターネットで「ぴんからトリオ」を検索したところ、父が歌っていたフレーズは1972年5月10日にリリースされたぴんからトリオの「女のみち」(作詞 宮史郎、作曲 並木ひろし)という演歌の2番の歌詞であることがわかった。と同時にハッとした。父は歌謡曲を使って自分の気持ちをストレートに表現する方法をあみだしたのだ。誰を責めるでもなく、自分の気持ちにピッタリくる歌のワンフレーズを大声で歌い、相手に届け、その解釈は相手に任せる。面白い!父の編み出したユーモアたっぷりの表現方法に私は「ブラボー!」と叫びたいほど感激し、今まで知らなかった父の一面に驚いた。よく高齢者が子どもに返るというが、父の場合はより自由で創造性豊かになった側面があったと思う。

 それからというもの、私は両親と少しでも笑い合える時間を過ごしたいと願い、帰省期間中は積極的に二人を誘ってピアノの部屋へ行き、大きな声を出して合唱していた。趣味のレベルでピアノを弾く私は、両親が口ずさむ歌をYouTubeで確認しては簡単なピアノ伴奏をアレンジして演奏した。すると両親は思いのほか喜び、伴奏に合わせて歌ってくれた。私たち三人は一緒に歌っている間、今までより自由で解放された個人となり、平和で楽しい時を過ごすことができた。ふとした折に「歌はいいねぇ」と私が言うと、父はニヤッと笑って「ちょっと工夫でこのうまさ!」と神田川俊郎氏の決まり文句を返してきた。本当にその通りだと思った。

 両親との対話をとおして、私の歌謡曲のレパートリーは日に日に増えた。教えていただいた歌謡曲をピアノで演奏してみることが楽しくなり、昭和の歌謡曲がピアノの音と共にどんどん身体に沁みこんでくるのがわかった。これは、両親からいただいた人生最高のギフトだ。この時、このギフトをもって歌レクを10年以上開催することになろうとは思ってもみなかった。

5.ボランティア活動開始 ~どうにもとまらない~
 ある秋晴れの日のこと。拙宅から徒歩5分ほどの場所にある長期滞在型介護施設前を通りがかったときに『レクレーション・ボランティア募集』の字が目に飛び込んできた。
「あっこれ、私へのメッセージ!」
直感だった。私はすぐにその施設へ電話し、歌のレクを担当したい旨を伝えた。数時間後に施設へ伺うことになり、担当職員の方とお話しすると即時採用となった。

 その翌週から私は『歌レクのボランティアさん』として毎月1~2回、週末に施設へ伺いはじめた。施設側からのお願いは一つだけ。「ご入居者さまをおじいさん、おばあさんとは呼ばず、○○様とお名前で呼んでください。」あとは自由。誰にも何も指図されずに、私はのびのび活動を展開できた。皆様とお話しながら、そして教えていただきながら歌の会を作っていくことは非常に面白く、私は歌レクのめり込んでいった。両親と歌った経験が120%役立っていることも嬉しかった。そう、私は両親に相当鍛えられてきたのだ。だから高齢者施設で生じるちょっとやそっとのことでは驚かず、どっしり構えてレクを進行することができた。私の音楽レクは思いのほか好評で、毎回、関係者の皆さまから感謝の言葉をいただき、信頼が構築されていることを肌で感じはじめた。

 その施設で歌いはじめてから半年ほどたった頃、歌レクの活動場所を増やしたいと思い始めた。そこで担当の職員さんへ相談してみると、ご親切に近隣の施設をご紹介くださった。私は嬉しくて、すぐさまその施設を訪問し、歌レクについて紹介されていただいた。(今思えば、全く以て失礼な飛び込み営業だった。)ラッキーにも担当の職員さまが高齢者向けのレクレーションに精通した方で、私の活動を理解くださり、すんなりトライアルを実施する運びとなった。

 トライアル当日、初めてご一緒したとは思えないほど歌レクレーションは盛り上がり、会場は30人ほどの参加者の皆様の笑顔であふれた。職員の方は「ご入居者様が楽しんでいらしたのがよく分りました。ぜひ継続したいので月一でお願いしたいと思います。これは心ばかりですがお足代です。」と封筒を差し出された。私は一瞬言葉を失った。「足代?なにそれ?」歌って謝礼金を頂けるなど一ミリも考えていなかったのだ。「あの、この活動は私個人の勝手気ままなボランティアという位置づけなので、謝礼金等はいただいていないのです。」と事務職員の方へ伝えると、全てのボランティアさんに足代をお渡ししている由を説明され、封筒を受け取るようお願いされた。自分にとって未知なる領域に入るときに沸き起こってくる緊張と高揚を感じながら、私は深々と頭を下げて封筒を受け取った。帰宅するや否や拙宅のちいさな神棚へお供えしてお祈りしたことを鮮明に覚えている。実際、封筒には足代以上の謝礼金が入っていた。自分が全く予期せぬところからお金が湧いてでてくる『日本昔ばなし』のようだと思った。
 
 その後も無理のないペースで人から人へと紹介があり、歌レクボランティアは波に乗ることができた。活動開始から1年経つと、私は『毎週末、どこかでだれかと一緒に歌を歌っているボランティアさん』になっていた。その頃には緊張せずに足代を受け取れるメンタルもできあがっていた。
 
6.事業化へと導いてくれた朋
 親友Nさんが拙宅に遊びにきてくれていた日のこと。私は歌レクボランティアが意外にも上手くいっていることを伝えた。Nさんは私にはないチャンネルをたくさんもっており、ことある毎にアドバイスや提案をくれる無二の朋だ。
「ちゃんと料金を設定した方がいいと思う。」
これがNさんからのアドバイスだった。

 正直、戸惑った。自分はミュージシャンと呼べる代物でもなければ、介護現場で活躍する音楽療法士でもない。ただの『誰かと一緒に歌いたいから歌っている人』だ。そして営利の「え」の字も感じさせない雰囲気を身にまとっていたと思う。
「お金を支払ってでも演奏して欲しいって思っている人達がいるってことだよね。相手は、料金を提示してもらった方が頼みやすいってこともあると思うよ。」
「なるほど!」
Nさんと対話しているうちに私の心が1ミリ、また1ミリと動きはじめた。

 翌朝目覚めると、気づかぬうちに花の蕾みが開いているように、私はサービス料金を設定する決心がついていた。金額を記載したリーフレットを作成し、それをもって各施設へ説明に歩いた。板についていないことをするとき緊張するものだが、ご多分に漏れず私は緊張しており、今となっては何を言ったかさっぱり覚えていない。やはりお金の話は苦手なのだ。下手な説明にもかわらず、全ての施設様からご理解とご快諾をいただくことができた。Nさんからのアドバイスは正鵠を得ていたことが分かり、感謝の念がこみ上げてきた。

 それから1年も経たないうちに口コミだけで年間200回前後の依頼が入るようになり、私は自然な流れの中で個人事業主となった。Nさんのアドバイス通り、料金を設定することで依頼しやすくなる側面があること、そしてお金を出してでも歌レクを望んでいる人々がいる実態について身を以て学習した。因みに私はデジタルの波に乗れておらず、宣伝活動は一切していない。古風で不器用。それが自分の天性。天性を生かしてこその天職だと思い、ここだけは今も変えていない。

7.取り組んできてよかったと感じるとき
 歌レクという小さな天職を授かり、取り組んできてよかったと感じるときがある。一緒に歌っている相手は尊い存在であると気づくときだ。

 当然のことながら歌レクの参加者お一人お一人は、年齢、経歴、経験、性格、嗜好において異なる。面白いことに、合唱している時そういった相違がパッと消えて一体感を得ることがある。例えば『高校三年生』を合唱している時そう感じられることが多い。『高校三年生』は、1963年にリリースされた舟木一夫のヒット曲。(作詞:丘灯至夫、作曲:遠藤実)歌レクでは卒業シーズンの2月~3月にプログラムに組み入れることが多い。ご利用者様が好まれる一曲だ。この歌の最後「♪ぼくら 道はそれぞれ分かれても 越えて歌おう この歌を♪」というフレーズに入ると参加者から静かな情熱と興奮が伝わってきて、私も感極まってしまう。ご参加者の皆様それぞれが歩まれてきた道のりは千差万別だ。しかし、そういった違いを越えてこの場所で巡り会い、歌詞にあるとおり「この歌」を合唱している。その奇跡に感激する。一緒に歌ってくれる相手はいかに尊く、かけがえのない存在であるかに気づき、自然と感謝の念も沸き起こってくる。

 相手のことを尊い存在だと感じることができると、自ずと自分も平穏な状態になる。自分のことすら分らないことだらけなのに、他者のことをどう理解すればいいのかと途方にくれることもあるが、守られた空間の中で歌をご一緒する、ただそれだけで他者の尊さに気づけることがあるのだ。理由はわからないのだが。

8.小さな天職から平和について考えてみたり
 冒頭にお伝えしたとおり、私はチームプレーより個人プレーの方が得意という特性がある。こんな私だが、歌レクをはじめてから他者を理解する力がゆっくりついてきているように感じられる。他者理解が促されると不思議と心が穏やかになってくる。平和ってこんな感じなのだろうと思う。

 残念ながら私たち人間は、いつの時代も世界のどこかで戦争を繰り広げている。他者を理解することが果てしなく難儀であることを物語っている。だから平和は日常ではなく、一人一人の日々の心がけを土台に作り上げ、微妙なバランスを維持してはじめて成立する特別な状態なのだと私は思う。介護生活も然りで、戦争のような状態になりうる。だからこそ歌レクを通して世代を超えた他者理解を促し、小さくも平和な空間をつくる一助になりたい。

9.おわりに
 振り返ると、私は幼少期に自分の声を批判されたことがきっかけで声と歌について考えはじめ、30代前半では認知症の両親とどう生きるか模索していた中で歌う醍醐味に触れることができた。これらの経験は全て歌レクに生かされているため、今となっては歌レクを主催する素養を身につけるための修行だったと思えてならない。

 一時は両親へ憎しみの感情を抱いた私だが、一緒に歌う中で二人へ蕩蕩と感謝の念を伝えられるようになっていった。
「ここまで育ててくださってありがとうございます。感謝しています。これからは、いただいた命を生かして社会でお役に立てるようお仕事に励みます。」
恥ずかしさや照れを微塵も感じず、私は両親へ心の中心から何度でもそう伝えられた。私からのメッセージに母は、年老いても大きなままの瞳を潤ませ「子育ては当たり前のことなのよ。親なんだから。」と声を震わせた。父は困惑したような、照れたような表情をして目を合わせてくれなかった。かける言葉を探していたのかもしれない。でも私の言葉をしっかり受け止めてくれたことは伝わってきた。「間に合ってよかった」と思う。私たち三人に平和な日常があったことを奇跡に思う。

 それほど遠くない未来に私も社会の中で高齢者と呼ばれるようになる。病を患い床に伏すかもしれない。その時、近くで寄り添ってくれる人々の尊さに気づけるようになりたい。声が出なくなったら音なき歌をうたえるようになりたい。働けない身となったときには誰かの天職に支えられ、同時に静かに応援できる存在になりたい。ちょうど今、私が歌レクで出会うかけがえのない人々に支えられているように。

 そのときが来るまで、歌心と遊び心を携えて歌レクを行じていくことを誓う。

  佐藤花米 (Hanamai Sato)

#天職だと感じた瞬間


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