死を感じながら生きる
先日、大学の講義で安楽死を選択した方の映像を見た。
日本では安楽死は認められておらず、その方はスイスの方まで姉妹の方と行き、今後病気が治ることがない確認ともう為すべき治療がないこと、この先意識がなくなり本人にとって苦しみになることを確認したのちに、安楽死という選択をとった。
その映像の中で強く頭の中に響いている言葉がある
「死はいつ訪れても今じゃないと思う」
若いうちに死が訪れても、年をとって死が訪れても、病気になって死が訪れても 亡くなるのは今じゃないと思ってしまうのだ。
僕も同感だ。
死というのは誰にでも訪れるものだろう。
宗教によっては、精神世界があったり、輪廻転成があったり、「死」という概念はないのかもしれないが、今ある体と僕という魂が突然停止してしまうのは個人的には確実なように思える。(この先それがどこに行こうとも)
今回安楽死を選択した人の映像では、安楽死を決断した後多少の時間があり、その方の姉妹とお話しをしていた。
そこでは、今までの感謝や振り返り、そしてお別れの言葉などを口にしていた。
この表現が正しいのかは定かではないし、不適切なのかもしれないが、 死の前にお別れをした時、その時「死」は訪れるのではないかと思った。
つまり、死を選択しお別れを言うということは、死のタイミングを今にすることではないか。上記でも述べた通り死は確かにどのタイミングでもないかもしれないが、当人とその周りの方がお別れを言った時、死のタイミングが今になるのだ。
もちろんこれは自殺を助長することでもないし、私自身が安楽死に賛成というわけではない。
その時にそう感じたことだ。
映像を見ている時も、このnoteを書いている時も、この表現が正しいのかどうかを自問自答している。
それはこの日本にはびこる、「死」ということについて話すことや考えることのタブー感も関係しているのではないだろうか。
僕自身なぜか、死ぬというのは頭の中で認識はしているものの、本当に自分は死ぬのかと疑問に持つことが多い。いや、僕は死ぬと思っていないのかもしれない。多くの人が、実は死ぬことをどこかで受け入れていないのではないだろうか。
だからこそ僕自身もそうなのだが、考えず、話さない。なんとなく怖いのだ。
人がどこかに行き、もう出会えないという事実と、人が亡くなって、もう出会えない事実は、似ているようで似ていない。後者の方が重みを感じる。これも死について考えないという重さが影響しているだろう。
世の中には死に関する本は多く出版され、死があるからこそ生があるという考えだったり、「死」が怖いのではなくそれに伴う喪失が怖いのであって、死は相対的に怖いと言えるという考えがあったり、いろんな考察がある。
もちろんそれを読みながら理解を深めるのも大切なことだと思うのだが、今一度、自分だけでもいいし、友達とでもいいし、家族とでもいいし、死について考え話す機会を作り上げることが必要に思える。
死とは何か、死とは本当に悲しいものなのか、死ぬことで何が起きるのか、私たちはどこに行くのか。
なんとなくはびこるタブーを打ち消し、死を感じながら生きること
これは何も悲しいことではないと思うのだ。
それを考えないほうが考えることよりも僕は怖い。
皆さんはどう思うだろうか。
読んでくださってありがとうございます。いろんな本とか、音楽とか、経験とか今までずっと考えていてことを、外に向けて発信しようと思い日々noteしています。何か読んでくださった方に少しでも変化が起きたのならそれほど嬉しいことはありません。