「自己紹介」 昔からこれが苦手である。 好きなものを言えばいいのか 趣味を言えばいいのか 出身地を言えばいいのか いまだによくわかっていない。 そんな自己紹介はつまんないよ! もっと個性を出そう!って言われるかもしれないから 僕の人生は一言で言うなら波乱万丈であったとかでも最初につけてみようか 海外に留学をしていたとか 英語が好きだとか そもそも相手は聞きたがっているのだろうか と言うより、自己紹介というのは その時にどんなことを話していたかというよ
なにもかもを0にしたいと突然思うようになる ラインの友達もメールも、悩みも生活も それは自己を終わりにするということではなく いま関わるものを無くす感覚というか 部屋の整理をしていたら急になにもかもがめんどくさくなって、プリントも本もぐちゃぐちゃにしたくなるような そんな感じ なにか辛いとか悲しいとか そういうんじゃないんだけど 化学の実験のように これ0にしたらどうなんだろうっていう好奇心 最悪かな 最悪だろ SNSだって、ブロック一つでもう終わり 関係性な
バスに乗っていて本を読んでいたときに、学生4人ほどの話し声が聞こえてきた。 話の内容は就活の面接のことだろう。そこでどんなことを話したかについてのことであった。 「私はいろんな人に〇〇と言われていて…そこから私は〇〇だと感じ、〇〇な人間だと気付きましたって言ったのね。 私そんなんじゃないのに」 周りの人も同調するかのように笑い、お互いがそんな風に頑張っているよねと励ましあっていた。 僕は違和感を感じた。 たしかに面接でいったことは事実であるかもしれないし、その本人の
今日の午前、上野の東京都美術館で行われているクリムト展を見に行った。 まえまえから見たいとは思っていたのだが、なぜか踏ん切りがつかなかったのだが、6月1日(土)~6月14日(金)の期間中、大学生・専門学校生・高校生以下無料という優しい配慮に乗させていただくことにした。 今回一番見たいと思った絵は、「女の三世代」という絵である。 どんな絵なのかと表現しようとしたのだが、拙い語彙力では非常に難しい。 絵の中央部には、赤ちゃんとそれを抱きかかえる母、老いた女性が右から順に描
旅をしようと思ったわたしがちょっぴり恥ずかしさを覚えるのは、旅先で出会ったものに心が感化されるのではないかという期待と、ひょっとしたら目を奪われるものに出会えるといった所望が受動的な行為であることに気づいたからなのかもしれない。旅というものは能動的でないといけないのではないだろうか?沢木耕太郎の深夜特急が受動的な物語であったのなら、あそこまでバックパッカーのバイブル化はしてないはずだ。自分から動き自分で道を切り開く。それこそが「旅」であり、それこそが醍醐味ではなかろうか。そん
先日、大学の講義で安楽死を選択した方の映像を見た。 日本では安楽死は認められておらず、その方はスイスの方まで姉妹の方と行き、今後病気が治ることがない確認ともう為すべき治療がないこと、この先意識がなくなり本人にとって苦しみになることを確認したのちに、安楽死という選択をとった。 その映像の中で強く頭の中に響いている言葉がある 「死はいつ訪れても今じゃないと思う」 若いうちに死が訪れても、年をとって死が訪れても、病気になって死が訪れても 亡くなるのは今じゃないと思ってしまう
欠けた 欠けた 「なにが欠けた」 歯が欠けた 「欠けていないじゃないか」 いや確かに欠けている 「見当たらないけど」 思ったよりも硬かったよ 「なにがさ」 さぁ
『意識が高い』というこの言葉を聞いたとき、何を想像します? 毎朝同じ時間に起きてお気に入りのコーヒーを入れる人 自己啓発書を読み漁る人 スターバックスでMACをいじっている人 自己投資といって海外に行ったり、語学の勉強している人 こういった人は何一つ悪いことはしていないし(当然の話だが)、自分をしっかり見つめたり自己のスキルをあげようと頑張っていたりと、尊敬できるところを多く持っているはずだ。 なのにも関わらず…僕はどうしても心のどこかで嫌悪感を感じてしまう。
テレレレ、テッテレー!!!! 自己啓発本を読むと、レベルアップしたような気持ちになるのは僕だけだろうか。どこからか、おなじみのレベルアップのSEが流れて、ステータスが上がり、「さっきの俺と今の俺を一緒にしないでくれ…(失笑)」と思ってしまう。 そんな効果もあってのことか、本屋の店頭には思考法や時間術、対人関係についてとか人の幸せといった種類の本が多く置かれているように思える。 読むとまず登場してくるには、「今の状態に満足していないあなた」だ。時にはこれが漫画のキャラクタ