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ART & ESSAY《3》|熊谷めぐみ & 野村直子|『二都物語』——ロンドン

 1775年のパリ、18年の間囚われの身となっていたマネット医師は娘ルーシーに連れられて、ロンドンへ渡る。5年後、ロンドンの裁判所では、フランス側のスパイの疑惑をかけられたチャールズ・ダーネイが死刑の判決を受けようとしていた。絶体絶命のピンチに、無気力な弁護士シドニー・カートンが救いの手を差し伸べる。ルーシーに惹かれる男たちは、それぞれの立場で彼女を幸せにしたいと願うが、海の向こうで響き始めたフランス革命の足音は、彼らの運命に暗い影を投げかけるのだった。

 『二都物語』はその名のとおり、フランス革命期のロンドンとパリ、二つの都市を舞台に描かれる歴史小説である。作品は、1859年、ディケンズが編集を務める雑誌『オール・ザ・イヤー・ラウンド』において週刊連載の形で発表された。18世紀後半のフランス革命の時代(物語は1775年から始まる)を描いているので、執筆時から時代は隔たっているが、ディケンズが描くロンドンやパリの都市の描写に、執筆当時のヴィクトリア朝ロンドンやパリの姿がある程度反映されていることは否めないだろう。

 フランス人の医師マネットは、18年という長い監禁生活の影響で精神的な打撃を受け、記憶も不確かになり、一心不乱に靴を作り続けていた。父が生きていると知らなかった娘ルーシーと以前からマネットと親交のあったテルソン銀行のジャーヴィス・ロリーは、マネットをイギリスに連れて行き、5年の年月が経つ頃には、ルーシーの献身的な愛情によって、いまだ過去の記憶に悩まされるものの、マネットの状態は良くなっていた。

 そして、物語はロンドンのオールド・ベイリー(中央刑事裁判所)に移る。そこでは、ある裁判が行われようとしていた。フランス貴族出身の若者であるチャールズ・ダーネイは、フランス側のスパイとして告発され、有罪になれば死刑を宣告されると考えられていた。ロリーとマネット父娘は、証人として出廷するが、それはダーネイにとって不利な証言となった。

このような憐れみに満ち、誠意あふれた表情の若く美しい女性にじっと見つめられることは、被告にとって、法廷中の聴衆の視線を浴びるよりもずっと辛いことだった。

 告発した男たちに偽りの汚名を着せられたダーネイは、法廷上で追いつめられ、死刑判決を待つのみに思われた。そんな時、法廷で唯一天井を見上げて無関心な態度を貫いていた一人の男が、隣にいた事件の担当弁護士ストライヴァーにあることを耳打ちする。それはその男、シドニー・カートンが、被告であるダーネイと瓜二つの姿を持つという事実だった。このことで、ダーネイを目撃したという証言の信ぴょう性はなくなり、裁判の行方はわからなくなる。審議は難航し、一度陪審員の退席を挟んで、ようやくダーネイに評決が下される。それは裁判前の大方の予想を覆し、無罪という判決だった。

 オールド・ベイリーの裁判所では、ロンドンの聴衆がチャールズ・ダーネイの死刑判決を今か今かと待ち望んでいる。語り手が説明するように、当時オールド・ベイリーでは金を払って、まるで舞台観劇をするように、裁判を傍聴することができた。そして、それは当時の処刑方法も合わせて残酷な娯楽であった。

 『二都物語』では、復讐の名のもとに、血に飢え、無実の人間が殺されてもかまわないとするような革命下のフランスの民衆の恐ろしさが描かれるが、そうした民衆の暴力的な欲求は、ダーネイが四つ裂きの刑に処されるだろうことを嬉々として語る野次馬や、傍聴席で死刑を待ち望む大衆の姿にも投影される。怒れる民衆のもと、近づいているフランス革命の不穏な空気が、ここロンドンでも決して無関係ではないことが象徴的に示されている。

 そうした、暴力や死、偽りの空気に包まれた法廷の中で、異彩を放つのが証人として法廷に出廷したルーシー・マネットである。彼女の若く無垢な美しさと被告への同情心あふれる表情は、法廷中の人の目を引き、被告にまったく同情を覚えない聴衆たちでさえ、思わず目を奪われてしまう。

 野村直子が描き出すのは、そんな欲望渦巻く裁判所を前に、儚くも凛とした姿で立つルーシーの気高い姿である。純粋な心を象徴するかのような白いドレスをまとった彼女は、重々しく厳粛なオールド・ベイリーの門や、その奥の漆黒の中にある人々の欲望や罪深さとは対照的な無垢に光り輝く存在として際立っている。

 門の上には三体の女性の寓意像がルーシーを見下ろしている。左から、「不屈」(Fortitude)、「記録天使」(the Recording Angel)、「真実」(Truth)を表す像は、その荘厳さから畏怖の念を起こさせるが、同時に、垣間見える柔らかな表情は、門の前に立つルーシーの内面の強さと呼応しているようでもある。

 自分の証言のせいで、父親や自分に親切にしてくれたダーネイが死刑に処されてしまうかもしれない、そんな恐ろしい状況の中で、ルーシーは葛藤しながらも自分の勤めを果たす。その同情心あふれる姿が聴衆だけでなく、ダーネイ、そしてカートンの心を動かし、結果的にダーネイの無罪判決を引き寄せることになる。野村が描くルーシーには、ただ儚いだけではない、彼女の心の強さや影響力が投影されており、ルーシーというキャラクターの真の魅力を引き出している。

 オールド・ベイリーと同じく、今はまだ霧の中に包まれた裁判の結果。そして、この時はまださらなる苛酷な運命がルーシーたちに迫っていることを誰も知らなかった。


熊谷めぐみ|ヴィクトリア朝文学研究者 →Blog 『名探偵コナン』からシャーロック・ホームズにたどり着き、大学の授業でチャールズ・ディケンズの『互いの友』と運命の出会い。ヴィクトリア朝文学を中心としたイギリス文学の面白さに魅了される。会社員時代を経て大学院へ進み、現在はディケンズを研究する傍ら、その魅力を伝えるべく布教活動に励む。モーヴ街5番地、チャールズ・ディケンズ&ヴィクトリア朝文化研究室「サティス荘」の管理人の一人。

野村直子|美術家 →Twitter
舞台美術、衣装デザイン、立体造形、人形制作など、舞台や映像作品を中心に活動。宇野亞喜良助手としても多くの演劇作品に携わる。



作家名|野村直子
作品名|二都物語より ロンドン、幻想のオールドベイリー

アクリルガッシュ・ケント紙ボード
作品サイズ|6.5cm × 18cm
額込みサイズ|41cm × 32cm
制作年|2022年(新作)

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