東大総長の卒業式祝辞で感じた,あいまいな私のあいまいな知覚

コミュニケーションとか知覚ってなんて曖昧なんだ。

以前から疑問に思っていたことを,note記事にしていた。

例えば,
「味覚」に関しては,こんな記事
「視覚」に関しては,こんな記事

ふとおととい行われた東大総長の卒業式の祝辞が目に止まった。

私たちはつい、言葉という道具のもつ機能は単純明快かつ確実であって、それを使いこなす能力は誰にも共通していると思いがちです。私は実験物理学が専門ですが、科学論文を書く際には、誰が読んでも常に同じ解釈に至る、明確な表現をするべきだとの教育を受けてきましたし、学生にも正確に書くことと教えています。

これは特に仕事で海外の方と話しているときに強く感じる。英語はローコンテクストな言語なので一から十まで事実をしっかりと相手に離さないと伝わらない。

しかし言葉は、決して無色透明で公平中正な媒体ではありません。様々な記号の中でも、とくに自然言語は、意味の揺らぎを伴い、価値や感情を帯びています。つまりノイズが混ざっているのです。表現の失敗や解釈の誤りから、すれ違いが起きたりするのは日常茶飯事です。伝える側と受け取る側の文化の違いから、様々な障害や摩擦が生まれます。

なにも海外の方と話している時のみに限った話ではない。国籍にとらわれず人によってコミュニケーションのプロトコルってあると思う。じゃあそれは解決すべき課題なのか。

これは本当に面倒なことです。言葉が数式のように、透明でノイズのない明快な「ツール」に徹していてくれたら、どんなに便利なことでしょう!ここで思い出しておきたいのは、言葉の使命が、情報の伝達だけではないという歴史的な事実です。今でも、映画の名シーンのセリフや、昔口ずさんだ歌の歌詞は、過去の思い出や感情を呼び起こすでしょう。言葉は単なる情報の運び屋である以上の役割を果たしているのです。

感情や価値観までも巻き込みながら人は言葉でコミュニケーションをとります。場合によっては,発し手が予期しない文脈まで受け手は感じ,時に過大に喜び,時には意味なく傷つく。このように言語に付加されたものをここでは「ノイズ」と呼んでいます。

...耳に逆らう異なる意見も、異質で多様な他者との遭遇も、これまで以上に大きな役割を果たす、と私は感じています。「知のプロフェッショナル」である皆さんには、言語が決して透明な道具ではないこと、知の作法が固定的で決まりきったものではないことを、いつも意識してほしいのです。そして言語がときに生み出す「ノイズ」を冷静に感知し、賢くしかも創造的に対応できるような感性を、さらに磨いていってください。


例えばこの前あった1シーン。

妻がふと歩道橋で立ち止まったかと思うと西の空に沈む夕焼けに見惚れていた。

そうか,このひとはこれを美しいと思うんだ,と共感し,それからその歩道橋でみる夕焼けがとても好きになった。

たぶん私の人生が終わるまで,その歩道橋で夕焼けをみるたびにその鮮烈な妻への共感にこころが持っていかれるんだろう。

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そして最近勉強しているワインのこと。

ワインが本当に好きだ。

ブドウ畑を眺めていると本当に落ち着くし,ワインのボトルを開けながらみんなで,この畑なんだ!土の味がする,と語っている時間が平和でたまらなく好きだ。

ワインの風味を人と分かち合う時にとんでもない表現をすることがある。開けたてのテニスボール缶の香りとか。

最初にこんな風にソムリエの方が表現するのをみて,冷静にそれはない,と感じていた。だってそれは単なる腐ったブドウジュースなんだから。今となってはそれはとても的確に表現していて,真っ先にそれだ!と腑に落ちる感覚がある。

このセンスはノイズをかぎ取る高度なコミュニケーションなんだと思う。

総長の祝辞にも出ていた,
私は「ノイズのソムリエ」になりたい。


こつこつ更新します。 こつこつ更新しますので。