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「味覚」という共有できない感覚を,「言語」でなんとか共有しようと全力で試みる

2020年のテーマの一つは,味覚の幅を広げる,なので,想像のつかない驚きのある料理に喜びを感じる。例えば,ドーナツを思い浮かべてみると,自分が想像するドーナツの味は,このくらいの甘みで,砂糖がまぶしてあるから表面が歯に当たった瞬間ざらっとして,生地はもっちりしている,みたいな勝手な先入観の味がある。

そんな先入観を超える料理を探し求めています,2020年。

そんな折にお一人のnoteが目にとまりました。雑誌・料理王国の元副編集長の江六前一郎さん。

たとえばこの感覚にとても共感。

僕は、レストランで食事をするときに、「個人の好み」と「食べ手への伝わり方」を別々にして考えるようにしている。「個人の好み」というのは、たとえば僕の場合だと、素材の旨みを抽出して重ねていくものよりも、できるだけ素材の調理前の食感や風味が残っている料理が「好み」。しかし、これはあくまで僕の個人のもの。誰かと共有することは、ひじょうに難しい類のものだ。

食事をするときに何を感じているか。
例えば私はワインが大好きです。もとはぶどうを発酵させたものなのに,「メロンのような香りで酸が強くて雑草を喰んでいるような..」そんなことを妻とずっと話している。もともとはただのぶどうなのに,ぶどうの香りを探していないおかしさにクスッとくる。その時間に幸せを感じる。それは味覚という共有できない感覚を,言語でなんとか共有しようと全力で試みるから。もちろん美味しさ,驚きも重要だが,一緒にテーブルを囲む方々とその時間に一緒に感覚を共有できているということは奇跡に近い。我々は答えをいつも探し求めている。レストランで食事をするときにも,料理人がどのような思いでつくったか,何がこだわりのポイントなのかが伝わってきて欲しい。

一方で、たとえば「素材の香り」を引き立てるために、ある調味料を使った場合、その結果引き立てたかった素材の香りが、食べた人に意図通りに伝わっているかという問題は、好みとは別の話だ。それは、食べる側の経験にもよるし、料理人にとっての「伝える行為としての技術」の有無によるものでもあると思う。そういうなかでは、食べる人と作った人のコミュニケーションによる答え合わせが必要なのではないか、と僕は思っている。

では僕が感動するような料理を提供する料理人はどこにいるんだろうか。僕のドーナツの幅に入ってこないドーナツを作れるドーナツ職人はどこに?そもそもいるのか。結局この驚きのドーナツがあるとして,なぜ僕が驚くかは,他の驚かないドーナツとの比較においてしか成り立たない。

東京にいる人たちの平均値、全体が共有している「空気感」のようなものに敏感であること。味の微妙な差は、これによって生まれると思っている。これを僕は、「味の同時代性」と呼んでいて..

そうだ。味の同時代性。この時代の味,という軸は刻一刻と変わっていくもので料理の歴史に刻まれていくものだ。現代においてしか比較できないし,かつ,全体の空気感に対するセンスを磨き続けなければならない。この辺りは芸術に近いかもしれない。現代において,モネのような印象派の作家が出てこないのは,もはや印象派は歴史に刻まれたものであり,美術史の一つの構成要素でしかなくなったから。もちろん現代アートにも古典の再解釈というのはあって,それは料理でもクラシックなイタリアンを提供する店舗が新しくできることと同じなんだろう。

今、客が求めているものをそのまま出した方がいいという、マーケット主義ということではない。レストランの目指すもの、提供したい料理をしっかりともったうえで、同時代性を意識して微調整することが必要だということではないだろうか。

マーケティング的な発想では絶対に驚きのドーナツはできないと思う。進むべき道筋を信念を持って進んでいて,常に時代の中で研ぎ澄まされたバランス感覚を持っている料理人が作るドーナツなんだと思う。

そんな料理は美しいなと思う。


追記:「驚きのドーナツを作る方法」
それは自分によって達成されるのでは,という仮説。自分で信念を持って味を重ねたりしてみる。料理人が厨房に立っているあいだに,我々は複数のレストランで味覚のテストを行うことができる。(これは前向きな意味において)料理の基礎知識は全く勉強してこなかったので,同時代性を研ぎ澄ましながら先入観を超えるドーナツを作ることができるんじゃないか。

こつこつ更新します。 こつこつ更新しますので。