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横浜銀蝿のマネージャーから、山嵐のスタッフになった話。

《はじめに。》

 毎年、1月とか4月という期が変わるタイミングで、何か始めたがる性分なのですが、それを今年は「note」にすることにしました。
何者かになりたかった自分が、それをやめて裏方の道を選んだはずなのに、去年はそんな私の話を聞きたいと専門学校でゲスト講師のお仕事をさせてもらいました。
フリーランスで一匹狼の私の話でも、誰かの生きる道のヒントになるのかもしれない、と思ったのです。
直接誰かに何かを教えたりするのは、うまく説明ができないしニガテだけど(そして自分の生き方は決してオススメはできないけれど)、文章に残すくらいなら出来るかも、と思って、noteに書き記していくことにしました。
更新のペースは遅いかもしれませんが、文を書くことは嫌いではないので、まずはマイペースになるべく続けていけるようにやっていこうと思います。

《ここからが本編。》

 やるならインパクトのあるタイトルにしようとしたら、こうなりました笑。ちゃんとした事実なんですけど!
2022年、私にとっての山嵐元年。毎年恒例のFacebookで振り返りをしようとしたら、2022年が濃すぎて、書くのを断念しました笑。
でも、それは他のアーティスト・タレントさんとの話をまとめて振り返ろうとしたから話が膨大になって断念しただけで、山嵐だけ切り離して書いたら何とかなると思ったので、まずはここから書いていこうかなと。

自分の関わっているもののステッカーばかりを詰め込んだMacBook

■山嵐との出会い。

 それはもう、遡れば中学生の時に聴いていたアーティストであることに間違いないのですが。
 物理的な出会いは2016年、OGA NAMAHAGE ROCK FESTIVALの楽屋。この年、名ばかりの物販スタッフとして【04 Limited Sazabys】チームに便乗させてもらい、念願の男鹿フェスに初めてお邪魔したのでした。

 この時はまだ「日本コロムビア」というレコード会社の社員をしていて、宣伝部の中のタイアップ部の所属。直接は関係のない部署ではあったけれど、インディーズ時代のフォーリミちゃんをお手伝いしていたことや、私の地元・秋田県で行われている男鹿フェスの存在がどうしても気になっていたこともあって、便乗させてもらうことにしました。
この年はフジロックにも行ったけど、珍しく男鹿フェスと日程が被らなかったんだよね。それで両方行けたはず。

 7月に入って、会社の週一の定例会で、「山嵐がコロムビアの所属になります」という発表がありました。「RED ROCK」というアルバムのリリースのタイミングです。
「えー!男鹿フェスの主催バンドがうちに?このタイミングで?そんなことある??」
本当にびっくりしましたが、これはもう絶対に挨拶しなきゃ!と思い、男鹿フェスのアーティストエリアで山嵐担当の先輩に紹介してもらったのがファーストコンタクト。

 今考えても、この頃から「地元で何かしたい、秋田県に関わることがやりたい」という野望がどこかにあったんだと思います。翌年には初めての転職をしているし、いちレコード会社社員という立場に収まりたくなくなっていた頃なんだろうなあ。

 しかし、その時その場にいたのがSATOSHIさん、KOJIMAさん、KAI_SHiNEさん。だから、最初に挨拶をしたのはこの3名だけ。忘れもしない恨めしいエピソードもありますが、それはここには書きません笑。しかし、この挨拶のタイミングで、カイさんには何となーーく「イシイって秋田出身の奴がコロムビアにいるんだな」と覚えてもらっていた模様(恐らく)。私も三つ編みの兄さんの(見た目の)インパクトは非常に強く、それが一応【山嵐】との出会いですかね。

■男鹿フェス実行委員になった年のこと。

 時は流れ、2019年4月。計らずも、フリーランスの道へ。そうなった理由は色々ありましたが、いずれそれも書いていくでしょう。
 どうせフリーランスになるのならやりたい!と思っていたことの一つが「男鹿フェスの実行委員」でした。秋田の仕事をすること、東京と秋田を行き来する生活が目標の一つであり、その足がかりが男鹿フェス。ずっと東京で働いてきた私には、秋田でのツテがない。それに、これまではフェスに出演する側、アーティストにくっついてフェスに参加することはあっても、フェスを作る側を経験したことがなかったので、実行委員に入ることでそれを少しでも体験してみたかった。そんな理由で、すぐに秋田に帰り、男鹿フェス実行委員長・菅原圭位(ヨシミ)さんの元へ。二つ返事で、実行委員の仲間に入れていただきました。
ヨシミさんを紹介してくれた【バックドロップシンデレラ】渉さんのこともいずれ書かねば。てか、書かなきゃいけないこと多すぎな笑

 この時点で実は【横浜銀蝿40th】のマネージャーの話もいただいており、プロジェクトは進行中。この辺のこともいずれ書くつもりですが、まぁ私のワガママをたくさんきいていただいた。おかげで実行委員の活動ができたわけだけだから、本当に感謝です。

 コロナ禍前の2019年は、男鹿フェスが屋外イベントとして10周年という記念すべき年であり、実行委員長的には何か色々仕掛けたいな〜という構想がありました。宣伝活動にもっと力を入れたいな、とか。アーティストのほとんどは東京にいるわけだし、私も普段は東京に住んでいる。そうなると、まずはやっぱり【山嵐】の所属レーベルにご挨拶に行って、色々とご相談すべきなのでは?と。そこでまず会いに行ったのが「CAFFEINE BOMB」の代表のMOPPYさん。たくさん飲みにも連れて行っていただいておりますが、コロナ禍、一番オンライン飲みをするほど仲良くしていただくことになるとは思ってもみませんでした。今や私の上司。
また、当時の【山嵐】は「極上音楽集」というリレコーディングベストアルバムを出した時でもあり、私もラジオへのコメント出演を決めたりと、地味にCDの宣伝にも携わらせていただきました。「Hot Spice!!」という番組にSATOSHIさんがコメント出演しているのだけど、聴いた人覚えている人、いるかなぁ。

 結局、この年の男鹿フェス実行委員としての私のポジションは、当初こそ「楽屋班」だったのですが、急遽新設された「メディア班」となり、公式Twitterの中の人、写真集作りのためオフィシャルカメラマンチームへの指示出し、出演者の所属事務所との取材のやりとりなどを担当しました(ONRFX写真集にもそれで掲載してもらいました)。この時、連絡を取り合うために、撮影班LINEグループにも入ったおかげで、秋田県内で活動をするカメラマンの知り合いが一気にどーんと増えました。
 【山嵐】のメンバーとも再会するも、レコード会社勤務時代の先輩にKOJIMAさんの同級生がいてその話をしたことと、武史さんが後日行われた実行委員打ち上げに【オメでたい頭でなにより】の赤飯と一緒に参加しに来てたくらいで、特に何か深い話をしたとかそういうことはなかったです。
 ただ、KAIさんが何となーくその時に、「コロムビアにいた秋田出身のイシイ」の存在を思い出してくれたようで。その後行われた「極上音楽集」ツアーの秋田公演の時に、カメラマンの手配をお手伝いさせてもらいました。(私は東京にいたので、そのライブには行っていない笑。)
 そして、翌年2020年1月19日、代官山UNITで行われた「極上音楽集ツアー2019~2020」ファイナルにお邪魔して(自分のツイート見つけたw前の山嵐のアカウントにいいねされているw)、翌日【横浜銀蝿40th】の札幌キャンペーンへ旅立つのでした…。

■【横浜銀蝿】から、【山嵐】へ。

 そもそもなんでお前が【横浜銀蝿40th】のマネージャーなんだという話もあるのですが笑、それはさておき。
 2021年12月31日、配信ライブ「横浜銀蝿40th ファイナルカウントダウンライブ『ゆくじぇい くるじぇい 配信だじぇい』」を終えて、2022年1月1日、始発の新幹線こまちで雪の秋田へ帰りました。2019年6月から2021年12月までの2年半、【横浜銀蝿40th】のマネージャーの仕事(業務委託)をやりきりました。そして、コロナ以降、2020年、2021年と秋田に帰れなかったので、それこそ2019年の男鹿フェス以来、3年半ぶりの秋田帰還。2年半(元々は1年半)という期間限定の活動だった【横浜銀蝿40th】、この期間はこの人たちのために頑張ろう、やりきろうと思って突っ走ってきました。そんな自分に、ちょっとお休みを与えようと思って帰ってきた秋田。

 男鹿フェス実行委員のみんなともなかなかゆっくり飲める機会もないので連絡を取り合っていた矢先、武史さんが男鹿に来るとの情報が。なので、実行委員みんなで武史さんを囲む会をやり、私もそこに参加しました。その際、武史さんから一言、「お前酒飲めるから、山嵐のマネージャーやれよ」。んんん???ニホンゴ?????おっしゃっていることがちょっとよくワカラナイです状態に。
 その時はただの酔っ払いの発言だと思っていたのですが、後日武史さんからMOPPYさんへ電話があったそうです。元々自分もMOPPYさんとはずっと連絡を取っていたし、KAIさんがやっている秋田こまちの玄米麺「99麺(ククメン)」のことも気になっていて試食会に参加させてもらったりしつつ、ふんわりとお2人からも【山嵐】に関わっていくことに関しての打診はありました。そこに、御大・武史さんご本人からの推薦?があったということで、いよいよ話が本格的に動き出しました。

■男鹿フェス実行委員と山嵐のスタッフ。

 じゃあ、いつどこのタイミングから、実際はどんな立ち位置で【山嵐】に関わっていこうか。単純に「マネージャーをやる」と言っても、簡単なことではない。そもそも「CAFFEINE BOMB」は、【山嵐】にとって、厳密にはレーベルであってマネジメントではない。諸々考えた結果、立ち位置的に私はMOPPYさんのアシスタント的な、「CAFFEINE BOMBからきている山嵐担当のスタッフ」という形で落ち着きました(あ、カフェインボムの名刺がでけました🤤)。そして、本格始動は9月11日の大阪・泉大津フェニックス「HAZIKETEMAZARE FESTIVAL 2022」からということに。
ただ、その前の7月に開催される男鹿フェスにMOPPYさんが来れないということで、「OGA NAMAHAGE ROCK FESTIVAL vol.11」3日間開催のうち、【山嵐】が出演する3日目だけ物販要員としてお手伝いをしよう、ということになりました。他の日程は全て実行委員の「楽屋班」として参加。3日目は実行委員と掛け持ちで、実行委員Tシャツと山嵐Tシャツを着たり脱いだりで、楽屋と物販コーナーを行ったり来たりしました。一番対極の場所にあって遠いのよw 楽屋にもいるし、客席側にもいるし、一体お前は何なんだと言われつつ、それは2019年Twitterの中の人をやっていた時、アーティストの情報と客席の情報を両方見ながら呟いていたあの時と差して変わりはございません笑。
ついでにこの時はもう「99麺」にも携わっておりましたので、飲食ブースにも行ったり来たりでした笑。

■山嵐元年。

 こうして、2022年9月から正式に【山嵐】のスタッフを始めました。KAZIさん、小川さん、石井さんとマトモに挨拶をしたのも、ハジマザが初。とりあえずこの日は朝から物販と、ライブ中は定点カメラ係をしつつ。翌週から始まった「PAIN KILLER TOUR Season.2」は初日こそMOPPYさんがいてくれたものの、翌日の秋田ではもう独り立ちだったので(その上、打ち上げにはイベンターもおらず、私1人で仕切り…まじで2日目が地元・秋田で助かった…対バンもTOTALFATだし…知っている人だらけ😭)、急ピッチで色んなことを覚えていきました。引き継ぎなんてあってないようなものなので笑、全部その場で覚えていきます。バンドによってスタイルや求めていることも違うしね。

 だけど2022年は、26年やってきた【山嵐】のメンバーにとっても大きな変化があった年。初めてのサポートドラム。ライブ納めの日にはそのサポートドラムのGAKUさんが、新幹線が停電で止まってしまった影響でフェスの出演時間に間に合わず、まさかのぶっつけ本番で同日出演している他のバンドの3人のドラマーに助けていただくという、経験したことがないことが次々と起こりました。メンバーはもちろんですが、お前はどえらい年にやってきたなと言われました。ほんとだよ笑。
たった4ヶ月の間でしたが、本当に色々なことが起きた4ヶ月でした。もう何でもこい笑。怖くないぞもう笑。

■まとめ。

 何はともあれ、こんな感じで始まった【山嵐】とのご縁。
書いているうちにどこに比重置いたらいいのかとか、こここんなに書くつもりなかったのに、みたいなところがあって、乱筆乱文になってしまいました。たくさん文章書くうちに慣れていくかなあ。
でも伝えたいこと言いたかったことは詰め込めたかな〜と思います。何がどこでどうなるかなんて分かりませんね。中学校高校の頃に【山嵐】を聴いていた地元の友達からは崇め奉られる人生になると思っておりませんでした。ふふふん♪

とりあえず毎度毎度言っているのは、横浜とか湘南とかの、見た目の怖いバンドばかり担当になるのは一体何故なんでしょうね!

これからも頑張りますので、どうぞよろしくお願いいたします\\\ ٩( 'ω' )و ////

山嵐 PAIN KILLER TOUR Season.2 初日 仙台MACANAの楽屋、本番前。


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