「データ」が私たちから奪うもの

※以下,動画内で発言より

掛布氏:今の野球を見ていると,選手一人ひとりが優等生に思える。みんながみんな,第一にチームの勝利。もうちょっとわがままな野球をする選手が出てきてもいい。
鳥谷氏:データがいっぱいありすぎる。自分で考えてポジショニングをとったり,自分で配球を考えたりする野球じゃなくなってきている。

教育の分野と照らし合わせて,私が共感したのは特にこれらの部分です。

✅「優等生」という言葉の在り方


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掛布氏の「みんながみんな優等生に思える」の発言。教育現場で考えるとどうでしょうか❓みんな優等生なら,いいじゃん‼️と一見思えそうですが,そんな事はない。昭和の時代なら,自分の子供が優等生だと聞くと

「お前は自慢の息子/娘だぁ‼️わっはっはー‼️」だったかもしれません(笑)

しかし,令和時代「優等生」という言葉を喜ぶ,親も子どももほとんどいません。子どもたちの中では「優等生」という言葉にどこか皮肉が含まれている事を,誰よりも感じているからです😖だからこそ,「特別」ではなく「平凡なみんなと同じがいい」という同調圧力が強くなっているのではないでしょうか❓

✅効率的な学習が良いはずなのに

 「自分で考えなさい‼️」と,子どもの頃よく言われました。そして余計な事をして怒られました(笑)対談の中で鳥谷氏は,今の野球はまずはデータを渡されて,そのデータありきで始まっていると話されてます。これを教育現場に置き換えて考えてみると,こういう問題が頻繁に出るから解き方をあらかじめ考えておこうであったり,自分の学習結果から出された分析データをもとに学習を進めたりするという事です。さらには,間違えた問題と類似した問題やわかっていないポイントを集めた問題を提示してくれます。それを繰り返していけば,テストで点数は取れるようになり「学力」は上がります。それが,子どものやる気に繋がっていく。そして何より効率よく学習を進めることができます。ただ,個人的には「それは素晴らしいことだぁ‼️」と諸手を挙げて賛同ができません😖効率化のためにデータを活用することは素晴らしいことだと思うし,最低限の労力で最大の結果を生もうという考えには大いに賛同しますが,なぜか奥歯に何かが詰まっている感じです。

✅「自分で考えるの本当の意味」の意味を考える

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「自分で考えなさい‼️」と,子どもの頃よく言われました。そして余計な事をして怒られました。そうです,自分で考えた結果,間違って痛い目をたくさん見たんです。対談の中で,上手くいかなかったとしても,データのせいに出来てしまい,自分の責任ではなくなるという話がありました☝️ここが核心だと思います。幼い日の私のように,自分の感覚で考えて失敗するのとデータを基に考えて失敗するのは,似て非なるものです。明らかに後者の方が,上手くいく確率はやっぱり高いですよね❓

でも,だからと言って「データに頼らずもっと自分で考えるべきだ‼️」とも思いませんし「そう,やっぱり両方大事だから,バランスが大事ですね」で終わらせるのは,あまりに曖昧すぎです。

 大切なのは大きな視点で「どんな時も目的か手段かを明確にする」を見失わないことです‼️例えば,「受験に合格する」が目的なら,コンピューターとデータを駆使して点数を取るために最短距離を目指すべきです。けれど,「受験に合格する」はミクロに見れば「目的」ですが,マクロで見れば目的ではなく「手段」です。常にこの二つの視点を行き来しながら考えることでしか見えないものがあるはずです🥴(♯えっと,これは思いっきり感覚の発言です☝️笑)

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