見出し画像

子供は親の道具である。子供自身の生きる理由なんて最初から無く、だからこそ自由に決めていいし決めなくてもいい。

子供は親の道具である。
どう考えたってそうだ。

私たちは皆、自身に何の決定権もなく、ある日突然この世に存在させられる。
生きてみたいとも生きたくないとも思うことなく、ある日突然生きることを強制される。
子供が好き、自分の家庭を持ちたい、意中の相手を結婚という形で縛りたい、労働力が欲しいなどなど理由は様々あるだろう。
ただ総じて言えるのは、子供は親の何かの目的のために作り出された、言わば道具である。
私たちが生まれた理由は「親」にあって、私たち自身には無い。
自分にとっての生きる理由は最初から存在しないのだ。

それなのにどうして、生きる理由を自分たちで探さなければならないのか。
大人になるにつれ、世間は生きる理由を探すよう求めてくる。
「自分を見つめ直して本当にやりたいことを見つけよう」
「他者への貢献が何よりの生きがいとなります」
無駄に爛々とした言葉が溢れている。
これらは暗に、明確な理由のない人生は空虚で自堕落だと揶揄する。
大層な理由がなければ生きていてはいけないと言われている気がする。
けれども、最初から私は望んで生まれてきた訳ではないのだ。
勝手に参加させられたやったこともないスポーツの試合で、「もっと向上心持ちなよ」と言われるようなものだ。

それでもたいていの人は生きる理由を探す。
なぜか。
きっと不安に耐えられないからだろう。
親が望む子供としての役割は人生という時間の3割ほどで事足りる。
じゃあ残りの大半の時間を理由なく、日和見的に過ごせるか。
否。
そわそわして落ち着かないだろう。
暗闇をただひたすらに進むことが困難なように、理由なく時間を過ごすことは難しい。
そして暇すぎる。

だから生きる理由はなんだっていいのだ。
不安にならない程度にキラキラしていて、何となく達成感のありそうなものでいいのだ。
なんなら不安にも暇にもならないのなら決めなくていい。
強制参加させられた人生という名のゲームを、せめて楽しんでやるかという心持ちで生きていきたい。

2024/05/08 さつき

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?