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【短篇小説】空腹の息子

私は夜中、自室で仕事をしていた。

会議の資料作りをしていたのだ。


妻と息子は寝室で寝ている。


私も寝たいが、資料作りが間に合いそうにない。緊急の会議に必要なのだ。

仕事を終えたら、戸締まりや元栓の確認をして寝ることとしよう。私は自分がした事も忘れてしまう事があるからだ。


私はコーヒーを飲んで眠気を抑えつつ、パソコンに向かっていた。


すると、部屋の外、リビングで物音がした。


冷蔵庫を探る音がする。


妻が飲み物を取っているのだろうか。

だが、妻にしてはややガサツだ。


やたら物音を立てて庫内を探っている。


ひょっとして、息子がお腹を空かせたのだろうか。

私は部屋をそっと出てみた。


暗い部屋に、ダイニングキッチンの場所から冷蔵庫の明かりだけが漏れている。


開け放たれた冷蔵庫の扉の向こうに、庫内を漁る者がいる。


息子だ。

背が低く、足も細くて小学生低学年らしい大きさ。


「お腹すいたのかい?」私は声をかけてみた。

ビクッと脚を震わせ、息子はすぐに台所から奥へ駈けていった。


「怒らないよ。逃げなくていい」私は言った。

そう言えば、今日の夕飯は野菜が多かった。息子もあまり食べていなかったのではないか。


おにぎりでも作ってあげようか。

私は残り物の冷や飯を取り出し、冷蔵庫の明かりを頼りに塩むすびを作った。


そして後を追う。

だが、廊下の奥の浴室へ行くが、誰もいない。


私は首を傾げる。

そして、おにぎりを持ってリビングへ戻る。


リビングの大窓から、庭を横切る息子の姿が見えた。


何と言う事だ。こんな夜中に外へ飛び出すなんて。


私は時々癇癪を起こし、強く叱りすぎてしまうことがある。

息子はひどく叱られると思ったのだろう。


私はすぐに靴を履いて、おにぎりを持ったまま家を飛び出す。


「待ちなさい!怒らないから!」

街灯すら消えた夜の住宅街。

私は息子の影を負う。

息子はすばしこく、曲がり角を縦横無尽に逃げてゆく。


私は息子にカッとしたが、こんなときにひどく怒ってしまっては逆効果だ。


「ほんとに!怒らないよ、おにぎりもあげよう。戻ってきて」

私はできるだけ優しく、だが息子に届くように大きな声で言った。


何軒か、家の窓から住人が顔を出した。

何事かと思ったのだろう。


息子は、暗い草むらの広がる丘に逃げ込んだ。

そして、大きな石の陰にさっと隠れた。


長方形の石だ。

何処かで見たことあるような。


私はその石に近づき、息子を怯えさせないように、笑顔でおにぎりを突き出しながら回り込んだ。


だが、誰もいなかった。

人の気配はなく、ただ、墓石があるだけ。


息子はどこへ行ったのだろう。

私は恐怖と焦りで、手が震えた。

行方不明になったらどうする。


「怒らないから!出ておいで!」

私は声を限りに叫ぶ。

だが、墓地の静寂に声は吸い込まれる。


私は焦って携帯電話を取り出し、妻にかけた。 

よく見たら、私が寝ぼけただけで息子じゃないかもしれない。

誰か泥棒が入ったか…それとも山から降りた猿か…

妻の横に息子が寝ていれば、何も心配はいらない。


電話に出た妻に顛末を話した。


妻はすすり泣いた。

「いい加減にして…あなた…」


そして、妻は、今一度墓石をよく見るように言った。


そうだ、我が家の墓だ。

愛する息子が病で亡くなり、建立したものだ。


息子は消化器の病を患い、亡くなる直前まで

「お父さん、何か美味しいものちょうだい」

と言い続けていた。


よく見ると、私が以前に供えたであろう…古いおにぎりやお菓子が残っている。


「あなたは…現実を受け入れられないのよ…。あなたが食べ物を持って、夜中に走り回るのを…近所の人達も心配しているわ」

妻が言った。

「お願い…私も辛いの…。あなたがこのまま…狂ってしまうのじゃないかと…」


私は墓石を見た。

暗闇と涙で霞んでしまい、墓誌の息子の名前が読めなかった。

いつまでも私は、息子の影を追い続けている。


私は塩むすびを墓に供え、手を合わせた。


例え狂ってしまっても構わない。

それが、幻影であろうが…幽霊であろうが…


ずっと息子が会いに来てくれるなら。



【おわり】

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