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研究の進捗とユリイカ2020年9月号への雑感、など

イラスト:ⓒshigureni様

ここ1年ほど取り組んでいた論文がようやく査読を通った。データも送ったし後は校正および掲載を待つのみ。おつかれさまでした。

この時点で「条件付き採択かな~」みたいなこと書いてて、実際査読者のコメントもそんなに厳しくなかった(気がする)。だからさくっと修正して出したんだけど、その後さらにもう一回修正が入って発狂しそうになった。突如現れる三人目の査読者。なんで?もともとの二人の査読者で意見割れたの??そして三人目の査読者の指摘がまたこれまでのコメントと全然角度違うからいぃーっ!!!てなった。前にも思ったことなんだけど、後出しのコメントってフェアじゃなくない?

こういうときに肝に銘じたいのは、東畑開人著『日本のありふれた心理療法』補章【ありふれた事例研究執筆マニュアル】のなかの一節である。

査読者の機嫌を損ねてはいけない。論文を投稿する目的は、自分の正しさを証明することにあるのではなく、雑誌に論文を掲載してもらうことにあるからだ。自分が正しいと思うことを言いたいならば、Twitterで十分なのだ。(pp.293)

金言すな。もちろんこの後に「査読コメントを正しいと捉えて修正を行う方がずっと論文が良いものになる」という真面目な記述もある。確かに私の論文も、最初よりずっと洗練されたと思う。私も査読をする側に回るときもあるので、そういうときは割と相手のためを思ってコメントしてる、つもり。

でもまあ、論文一個通ってもまだまだやらないといけない研究が山積み。そんななか、楽しみにしていた雑誌が出た。

ユリイカが「女オタクの現在―推しとわたし」としてさまざまなライターや学者など有識者を募って編んだ当事者研究アンソロジーって感じ。読み応えがあってまだ全部は読めていないけど、いくつか印象に残った部分について感想(※Twitterに書いてたものを加筆修正して再掲)。

水上文 <消費者フェミニズム>批判序説
劇団雌猫に代表される女オタクの浪費肯定スタンスへのフェミニズム観点からの批判、と言っていいのかな。女オタクは推しにも全力だしそれ以外のメイクやらも楽しんでますよ、しかも経済状況やセクシュアリティの違いに関わらず好きなもので盛り上がって連帯できるんです・・・というように見えるけど、実際には女オタク内でも経済的に苦しいひとやメイクに興味ないひともいるわけで。従来の女オタクへの偏見のカウンターとして浪費肯定には必然性があったと個人的には思うけど、結局それは既存の社会規範のなかで「感じのいい<消費者>」になることだったのではないか、その影で分断が生じ、切り捨てられている層が存在する・・・という指摘には考えさせられた。難しいね。

田中東子・ひらりさ・中村香住鼎談 <女オタク>とは誰のことか
これほんともう、盛りだくさんの内容でとても面白い。2010年代後半になりようやく腐女子以外の女オタクにスポットがあたるようになり、その多様性が明るみに出たけど、やはりそこにもセクシュアリティや経済面などさまざまな分断があることに気づかされる。女オタク=「高等教育を受けた中産階級の異性愛シス女性」という認識が女オタク当事者のなかにも確かにある。そこに当てはまらない層の存在を改めて認識したというか、配慮っていうのも変だけど、意識は大事だと思った。

上記の鼎談と、柳ヶ瀬舞 腐女子はバッド・フェミニスト(?)を併せて読むと問題がクリアに見えてくる。「バッド・フェミニスト」という言葉を寡聞にして知らなかったのだけれど、ロクサーヌ・ゲイが「フェミニストでありながらそのイデオロギーと対立するようにも思えるものを愛すること(Wikipediaより)(今本を購入してるところ)」について書いたエッセイ集のタイトルだそうだ。私自身、公的にはポリコレへの配慮を求めつつも、私的には表立って言えない性癖で創作したり消費したりしている。俳優推してるのも顔がいいからで、ルッキズムも否定できないという“正しくなさ”を持っている(でも推しがポリコレに配慮がないドラマに出ると腹立つし見ないっていう)。その相反する価値観のあいだで葛藤することの意味や価値を、柳ヶ瀬さんは指摘している。

先の鼎談のなかでは私的領域と公共性がひとつの軸になっているんだけど、「私的」領域について、性癖など内心の自由がある部分にまでフェミニズム的なジャッジを向けるのはストイックすぎるのでは、という中村香住さんの指摘には慰められる。一方で、そうした内心を他者の目にふれる呟きや創作として表現した時点で公共性がどうしても生まれてしまうように思えるから難しい。pixivにあげてる我ながら倫理観ない二次創作とかとどう折り合いつけていくかっていう話なんだよな。

ただ、汀こるもの 審神者なるものは過去へ飛ぶ それは歴史の繰り返しはある意味そこへのカウンターのように感じた。とうらぶ学級会への苦言から始まりBL好きが陥りがちな視野狭窄批判まで謎の疾走感があるこの文章。BLにポリコレ感を持ち込むことに対し「趣味以外に何があると思ってるんだよ」というのはある意味「私的」の極致で、趣味でやってるのにそこで自らの正しくなさとかを内省していちいち葛藤することのめんどくささをばっさり切っている感じがする。

また、今の沼(ハイロー関係)でいうと、西森路代 批評―オタクと推しを繋ぐ言葉 も興味深かった。男性がグラビアアイドルを本人不在の場で批評する文化は平然と続いている一方で、女性が他者を批評することはずっと許されてこなかったのではないか、しかし最近ではそれが変わってきているのでは、ということに関する論考。他者を批評するときに女性が感じる後ろめたさについて、西森さんは「評されたくない」と感じているひと(男性)への罪悪感があるからなのでは、と考察しておられる。この後ろめたさについて私が連想したのは、長らく「見られる」「評される」という立場に置かれてきた女性が、自分がされて嫌なことをひとにしてしまうことへの罪悪感もあるのではないかということだった。逆に今、女性の批評を可能にしているのは、エゴサする公式(俳優)の存在なのかも。エゴサ≒「見られる」「評される」ことを拒んでいない、とすれば批評する罪悪感も薄れるというか。

個人的に好きなライターであるめりぴょんこと山野萌絵 アイドルを看取るという時代へ 推しに対して辛かったら(解散や引退に)逃げてもいいよ、という文章をかつての俳優ガッツが書いていると思うとなかなか感慨深いものがある。そういうファンの心構えは必要と理解しつつ、実際にその覚悟をしながら推すのって難しそう。でもまあ・・・みんないつか死ぬしと思えばそんなものなのかも。

楽しみにしていたのは藤村シシン 『星矢』オタク、オリンピアに立つ さすがシシン先生、圧倒的に光のアカデミック女オタク、在野研究者の星という感じ。なんかアカデミックになるとどうしてもフェミニズムとか絡んで身動きとりづらそうになる女オタクが多いなか(※私個人の偏見です)(※フェミニズム自体は大事だと思ってます)、本当にただただ自分の好きと向き合っておられるのが印象的である。星矢好きが高じて現在はオリンピックの聖火の儀式の古代ギリシャ語翻訳の仕事までするようになったというサクセスストーリー。強烈な「好き」が人生を形づくっていく感じに痺れる憧れる。自分が研究者として行き詰まっていたときにシシン先生の生きざまに勇気付けられたのを思い出した。そんなシシン先生も星矢に勇気づけられていたのだな…としみじみする。一年ぶりに古代ギリシャ講座(オンライン)申し込んじゃった

女オタクってほんと、多種多様だなと思った。だからこそ、十把一絡げには論じられないし、論じるべきではない。正直このユリイカ特集は雑多すぎてまとまりを欠いている感は否めないけど、それが面白い部分も確かにある。

でも、アカデミック枠で言うなら社会学者は多いけど心理学者少なくない?まあ誰が書くねんって感じではあるけど。次回があるなら(当分ないだろうけど)心理学系の女オタク当事者ももっと増えるといいな。

はーーー、観劇はぼちぼち戻ってきてるけどライブ行きたい。オンラインライブも楽しいけど、体動かしたい。

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