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お仕事を推し事に左右されるな

イラスト:ⓒshigureni様

夏休みが終わった。

本当はもっと元気いっぱいで休み明けを迎えるものだと思っていたのだが、人生というのはそう思うとおりに進まない。

理由はわかっている。この夏の推し事で色々考えすぎてしまったからだ。お仕事へのモチベーションを推し事に左右されるのはあんまり良いことではない気がするので、早々に立て直したいところ。

現在の推しの沼に沈んで、約2年。

研究者としてどうにもうまくいかず燻っていたときに、たまたま行った現場で惹かれてしまったのだ。そもそも(アーティストなど、個人の作品を創作する人たち以外で)生きている誰かをこんな風に応援したいと思うようになるとは、完全に予想外だった。

現場に通いつつ、少しずつ接触イベントにも参加するようになった。

初めて接触のある催しに参加したのは沼に落ちてから半年後。写真集のリリイベだった。3部のうち1部しか行かなかったけど、きらきら輝く推しの笑顔と手厚い対応に完全にやられてしまった。他の俳優のリリイベにも参加したことがあったけれど、まったく違う屈託ない対応で、今でも鮮明に覚えている。

そこから現場に行く回数を増やし(といっても仕事も忙しいので知れている。ひとつの現場につき3~5回程度)、手紙も現場につき最低1回は書くようになった。

去年の夏、ファンミを2部通した。そこで初めて手紙にプレゼントをつけて贈るなどした。初めてまともに顔を見てやりとりできた(といっても秒単位だが)ことに有頂天になってしまった。

その後はカレンダーのリリイベを3部通した。これまた初めてだが、チェキを撮った。ここでも秒単位のやりとりがあって、推しはこちらの何気ない言葉もすごく的確に拾ってくれるので、やはり嬉しかった。

現場の合間にバーイベもあって、何部か忘れたけど通した。お見送りのときにうまく話せなくて、それでも推しが「また来てね」と言ってくれることで帰りの駅まで走り出したいくらいテンション上がってしまった。

最近、チェキをとる機会がまたあった。以前よりずっと落ち着いた気持ちで接することができて、伝えたいことが伝えられるようになってきたな、と感じていたところだった。

そしてこの夏、数か月ぶりにまた接触があった。

自分のなかで初めて、接触で落ち込んだ。見送りがあったのだが、私が推しに声をかけつつ推しの前を通りすぎるとき、既に推しは私の後ろの人(おそらく推しが認知しているファン)に「あー!」という感じで声をかけていたのだった。しかも2回ともそんな感じだった。

凹んだ。同時にそんなことで凹む自分に落ち込んだ。

この間いろいろあって、手紙は読んでもらえていると思っている、たぶん。顔はまあ、2年で実質6回では認知をもらえてなくて当然だし、そこにはこだわっていないつもりだったのだが、現に認知されているファンとの対応の違いを体感してしまうと、それは鉛のように呑み込みづらい塊りとなって、私の喉から胸を塞いだ。

しかしながら、こうなったのには私の方の気おくれもある。私は推しの仕事を全肯定できるタイプの盲目的なファンにはなれない。推しが出ていても面白くないと感じれば、手紙の内容は明らかに冷めたものとなる(とはいえ目に見えて推しのテンションを下げるようなことは絶対に書かない。ただどうしても良かった!と思った仕事への感想とは密度も熱量も違っていると思う)。明らかに not for me だなと感じればはなから見ないこともある。

対象関係論でいうところの投影同一化なのだが、私は自分の中の最近の推しの仕事への不満が推しに伝わってしまったのではないか…それがこの状況を引き起こしたのでは??と妄想分裂ポジションに陥りかけたのである。自我境界仕事してください。でもたぶん推しのいるオタクが病むのってこういう構造なのではないだろうか。

ともかく、そんな感じで元気をもらうはずの推し事で落ち込んでしまい、今にいたるというわけである。これは良くない。推し事のためにお仕事を頑張る、というのは大事だが、お仕事のモチベーションを推し事で下げてるとか本末転倒もいいところである。

こんなときに大事なのが、2推しの存在である。

推しへの思いが迷走してしまっている今まさに、2推しの仕事が順調で現場もめっちゃあるので正気を保てている。2推しの存在にめ~ちゃくちゃ救われている。投資もそうですけど、リスクの分散は大事ですね。2推しのおかげでお仕事がんばれそう。

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