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『忘れもの』 【第7話】 「光と影」

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 顔をゆっくりあげると、涙がレンズのように瞳を覆った。
 絵の具を水に垂らした時にできるマーブル模様のように変形した空が見える。
 まるで水の中から眺めているようだとノエルは思った。
 しばらくこのまま眺めていたいと思ったが、まばたきすると、涙はポロポロと粒になって落ちていった。
 スギゴケがノエルから流れ落ちたしずくをキャッチしたらしく、かすかに葉っぱのタップする音が聞こえた。

 もう涙は出てこなかった。
 身体中の水分が無くなってしまったのではないかと思うくらい、ノエルは泣いた。
 ノエルは自分の内側からせり上げてくる感情をとめることができなかった。
 それらの感情を涙とともに吐き出し続けた。
 そして、空っぽになった。
 もうこれ以上吐き出す感情も、流す涙も残っていない。

 どのくらい泣き続けたのだろうか。

 ノエルの隣でオオサワ老人はずっとノエルの肩をその大きな手の平で包み込んでくれていた。
「そのままでいいんだよ。怖がることや恐れることなんて何もないんだ。ノエルくんは、ノエルくんのままでいいんだよ。安心して、さぁ、安心して泣きなさい」
 繰り返し、繰り返し、オオサワ老人はノエルに語りかけた。
「どうしてボクなんか産んだんだ!ボクなんか生まれてこなきゃ良かったのに……」
 何度も、何度も、ノエルは叫んだ。

 しばらくして、オオサワ老人が言った。
「ノエルくんがこの世に産まれてきたことの答えを、今はわからなくていいんだ。いつかきっとわかる日がくる。約束してもいい。お母さんがキミを産んだことの理由(わけ)、そして、キミがこの世に産まれてきたことの意味を、必ずキミにはわかる日がくる」
 ノエルは泣きながらだまって聞いていた。
 オオサワ老人の言葉の意味は、ノエルにはわからなかった。
 自分を捨てた母親のことをいつか理解できるとも思えなかった。
 一緒にいたいのに、自分を置いてどこかに消えた母親のことを心のどこかで恨んでいる自分がいることを、ノエルは気づき始めていた。
 それなのに寂しくて涙が出る。
 恨む心と欲する心。
 どちらが本当の自分なのか、ノエルの心はいつもシーソーのように揺れ動いていた。
 不安定で落ち着かない心を必死にこれまで守ってきた。
 アシナガの森で、鳥の声や風の音を聞いている時だけが、心のシーソーから降りることができているように思えていた。
 アシナガの森にいる時だけ、一人ぼっちじゃないと思えていた。

「どうして、どうして……。ボクなんて一人ぼっちだし、誰もボクのことなんて必要だと思ってないし……。なのに、なんでボクはボクのままでいいの?どうして?」
 ノエルはオオサワ老人をまっすぐ見て叫んだ。
「ノエルくんは一人なんかじゃないよ。それに、ノエルくんのことを必要としている人がここにいるじゃないか」
 オオサワ老人はにっこり笑った。
「え?」
 ノエルの目がまんまるになり、オオサワ老人を見つめた。
「私は、ノエルくんに会えるのを楽しみに毎日ここに来ているんだ。ノエルくんが私のつくったサンドイッチを美味しそうに食べてくれることが嬉しくて、今日は昨日よりうまくつくるぞ!と頑張れるし、何より楽しいんだ。私はノエルくんに元気をもらっているんだよ。だから、少なくとも私にとって、ノエルくんは大切な大切な友人だよ。だから、ノエルくんは一人なんかじゃない」
 ノエルの頬がさくらんぼ色に染まった。
「本当?本当にそう思ってるの?」
 恐る恐るノエルが訊ねた。
「もちろん、本当さ。本当だとも。キミの笑顔を見たくて、キミともっと仲良くなりたくて私はいつもここに来てるんだよ。キミは私にとって必要な人なんだ」
 オオサワ老人はまたにっこり微笑んだ。

 母親の背中を見送った日から、ノエルの心には深く大きな穴が空いた。
 穴からこぼれ落ちたものは数え切れないほどある。
 そして、たまに光がさしても、その穴は必ず影をつくった。
 真実と嘘。
 その二つをノエルは携えて生きている。
 それでも生きていいとオオサワ老人は言う。
 そんな自分のことを大切な友人だとオオサワ老人は微笑んでくれた。
 全てを信じることができたわけではない。
 心に差し込んだ光が、心の穴のせいで影をつくってしまう。
 だけど、ノエルははじめて「嬉しい」という感情を覚えていた。
 誰かに必要だと言われることを、素直に「嬉しい」と思える自分を知った。

 涙の乾いた瞳でもう一度空を見上げた。
 ウグイスの鳴き声が、森の天井に跳ね返ってノエルの身体にも降り注いでくる。
 目を閉じて、ノエルはしばらくウグイスの鳴き声に耳を傾けた。
 森にふく風がその鳴き声をさらに遠くまで運んでいく。
 そして、樹の幹にぶつかり、跳ね返り、四方八方へこだまするように響き渡る。
 春が一気に森を駆け巡っているようだ。
 きっと、春に芽吹く草木たちは、この鳴き声を一年間ずっと待ち続けているのだろうとノエルは思った。

 ふと、隣に目をやった。
 さっきまで隣で語りかけてくれたオオサワ老人の姿がなくなっていた。
 ノエルは慌てて立ち上がり、切り株の椅子のまわりを何度もまわり、あたりを見渡し、オオサワ老人の姿を探したが、その気配は感じられなかった。

 春の穏やかな風が、ふぅっとノエルの顔を横切った。

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第1話〜第6話まではこちらからご覧いただけます。併せてお読みいただけますと幸いです。

いつもお読みくださりありがとうございます。お時間を割いてくださったことを心より感謝申し上げます。

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