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神様でも仏様でもなく

うちのばあちゃんは強烈で最強だった。
クセも強いが、愛も深い。
すでに他界して20年近く経つが、ばあちゃんの思い出は色あせない。むしろ、今になって鮮明に蘇ってくることもあるくらいだ。いや、今だからこそ蘇ってくるのかもしれない。

ばあちゃんは明治45年に広島県呉市で生まれた。名を「ヒデヨ」という。小さい頃から強い近眼だったばあちゃん。平成の世になっても牛乳瓶の底のような分厚い眼鏡をかけていた。その顔立ちは……。オブラートに包んで表現するならば「林家ぺー、パー子」の「林家ペー」さんに近いかもしれない。少なくとも髪型は「林家ペー」さんそのものだった。
とにかく、クセが強い。
ちなみに、僕は幼い頃、ばあちゃんの名前をずっと「ヒデヲ」だと思っていた。ばあちゃんが達筆だったのかは定かではないが、ばあちゃんが書く字に原因があった。「ヒデヨ」の「ヨ」の字の一番下の棒が左斜め下向きに払ってあり「ヲ」に見えてしまったというわけなのだが、そもそものキャラの濃さに、男性のような名前にも違和感がなかったのかもしれない。

そんなばあちゃんが残してくれた、心に生き続ける教えがある。

『真心で生きろ』

広島弁のばあちゃんが言うと『真心で生きんさい!』であるが、神仏よりも自分の心が一番大切なんだ、だから心で生きなさい! という教えなのである。

どういうことか?
 
<神仏不要説>
「仏壇の中にお父ちゃんはおらん! 坊主がおがむよりワシが心でおがんだ方がよっぽど価値があってええ!」
ばあちゃんの最愛の夫であるじいちゃんは、ばあちゃんより20年近く先に天国に旅立った。何をするにも「お父ちゃん、お父ちゃん」と夫を愛してやまなかったばあちゃん。じいちゃんが亡くなった時、家族のだれもがばあちゃんもじいちゃんの後を追うように亡くなってしまうのではないかと、その喪失感の大きさを心配した。
ところがどっこいである。
天下無双のばあちゃん。じいちゃんの死にまったく動じないどころか、これまで以上に活動的になり、昼はカラオケ三昧の充実した毎日を過ごし、結局92歳の大往生だった。
そんなばあちゃんが、じいちゃんの1周忌に放った言葉がそれだった。
ばあちゃんは言う。心の中にじいちゃんは生き続けているのだと。そして、お坊さんが「成仏しろ」と何度唱えようとも、そんなことにはまったく価値がないのだとも。だって、じいちゃんはきちんと成仏してばあちゃんの心でちゃんと生きてるから。だからお坊さんに払うお布施などもっての外! 
「坊主に払う金はねえ(無い)!」と一喝。
ついに、1周忌の法要は見送られ、その後、じいちゃんに関する法要は一切行われなかった。
「この罰当たりが!」
そんなことをいう親族はもちろんいた。批判も随分うけたようだった。
しかし、ばあちゃんは揺るがなかった。
僕は、ばあちゃんが仏壇の前に座ってしんみりするような姿を一度も見た記憶がない(きっと仏壇の前に座ったことはなかったのではないかと思う)。

しかし、ばあちゃんの心で生きる姿、その生きる神髄を目の当たりにする日がやってくる。
ばあちゃんが亡くなる一年前。
その日は、ばあちゃん自らの希望で、ばあちゃんの「生前葬」が行われた。
「生前葬」なんて聞いたこともなかったし、後にも先にも初めての「生前葬」だった。
ばあちゃんの好きな歌を親族みんなで歌い、思い出を語り、そしてばあちゃんへの感謝の言葉がその場を包んだ。最初はいぶかしげな顔で集まった親族たちも、会が進むにつれ表情はやわらぎ、みんなの頬には熱いものが流れていた。
ばあちゃんの記憶、いや魂に、みんなの笑顔と愛はしっかりと刻まれたのだとわかった。
会の最後に、ばあちゃんはみんなに向けて
「これまでありがとう。幸せな人生じゃったよ」
と満面の笑顔で語った。
あの笑顔を僕は忘れることができない。
と同時に、ばあちゃんの人生とは「自分らしく生きた人生」そのものだったのだと感じたのだった。神仏より大切なもの、それは自分の心を信じて歩くこと。そんなことをばあちゃんは生きたままの葬式で僕たちに伝えてくれたのかもしれない。
だからこそ、その時流した涙は、悲しみにくれた冷たい涙ではなく、感謝や愛のつまった温かな涙だった。

僕たちはついつい世間体を気にしてしまう。そういう性をもった生き物だと思う。
自分以外の誰かの評価や評判に一喜一憂してしまい、悩み、苦しんでしまう。
それがために自分の本当の気持ちを犠牲にすることも少なくない。
少なくとも僕はそうだし、それに抗おうと必死だ。

自分軸で生きるとか、自分に正直に生きるとか、言葉でいうのはとても簡単だが、実際にその通り生きようとすると実はとっても難しいことなのだと思う。

だって怖いもの。
「あの人ってさぁ……」
まださされてもいない他人からの後ろ指におびえてしまうんだもの。

他者の顔色をうかがい、あっちに行きこっちに行き、僕もそうやってたくさんの壁にぶつかってきた。

その度に身体の内側から聞こえてくる。

『真心で生きろ!』

どうするの? どうしたいの? 
自分自身と禅問答を繰り返しながらこれまで生きてきたし、きっとこれからもこの繰り返しなんだと思う。

だけど、いつか胸をはって「真心で生き抜いたよ!」といえる日が来るように、心の声から耳をそらしてはいけない。そう思っている。

大切なこと、それは誰にとっての大切なことなのか。

それを問い続けて生きていきたい。

傷つくことばかりかもしれないし、苦しい日々が待ち受けていることもあるかもしれない。
でも、逃げるわけにはいかない。
誰の人生でもない、自分の通る道なのだから。

でもきっとうまくいく! 

神様でも仏様でもなく、強烈で最強のばあちゃんがいつも見守ってくれていると信じているから。

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