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『忘れもの』 【第4話】 「転落」

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「社長、そこをなんとかお願いできないでしょうか。このとおりです。お願いします!」
 富岡商事の社長室に葉山ヒカルの声だけが響いた。
 革のソファーから離れ、社長の富岡正三の膝が少しだけ頭を出す高さの大理石のテーブルに隠れるように、葉山ヒカルは床に額をつけた。
「今月、社長のところにお借りいただけませんと、支店の営業数字が達成できないのです。なんとか、これまでのご縁に免じて、三億ほど手形でお借りいただけませんでしょうか。翌月すぐにお返しくださって結構ですから。お願いします、社長!」
 社長の富岡は、腕組みをしたままじっと目を閉じている。
 この若者にはこれまでも何度か協力をしてきた。
 その度に、この若者は無邪気な笑顔を返してくる。
 亡くなった一人息子が生きていればこの若者くらいにはなっていたのかと考えると、ついつい息子の苦労を少しでも軽くしてやりたい気持ちにかられてしまう。
 息子にしてやれなかった思いをこの若者に重ねてしまい、これまで何度も無意味な融資だとわかっていながらサインしてしてきた。
 富岡正三はどうしたものかと思いを巡らしていた。
 三億円を借りることなど、今の富岡商事には痛くも痒くもない。
 本業の輸入車販売は好調で、一昨年からはじめた駐車場開発事業も勢いに乗っているからだ。
 世の中は新しいタイプのウイルスが蔓延したおかげで、すっかり生活様式が変わった。
 感染を避けようと、車を通勤手段にする人が増えたり、休日の移動手段ももっぱら車が主流となった。
 中古車市場は空前のバブル期が到来し、どの業者も在庫がなくて困っている。
 富岡商事が手掛ける輸入車販売事業もこの波にのり、新車と中古車の両方を扱えることに加え、特定のメーカーに頼らない販売ルートも功を奏した。
 駐車場開発も、後発業者としてのメリット出すために、大手の三分の一の開発費用で地主に提供するモデルがうけた。
 大手が手をつけないような不整形地でも、富岡商事は開発をつづけ、徐々に業界内でもその名を知られるようになってきた。
 今年度も過去最高益を更新することは確実だ。
 うまくいけば、再来年には株式を上場させることも夢ではない。複数のベンチャーキャピタルからも出資の打診もうけている。
 可能な限り決算書は綺麗にしておきたい。
 癒着を疑われるような取引は、上場に際して足かせになってしまう。
 そんな思いをいだいていた矢先に、葉山ヒカルが融資協力のためにやってきた。
「葉山さん、頭を上げてくれ。あんたの気持ちも立場も痛いほどわかるつもりだ。だが、悪いが今回は別をあたってくれないか。あんたも銀行員ならわかると思うが、上場に向けてできるだけ身辺を綺麗にしておきたい。また落ち着いたらいつでも協力させてもらうから、今回は勘弁してくれんか」
 富岡正三は神妙な顔で、静かに息を吐き出すように葉山ヒカルに思いを伝えた。
 葉山ヒカルは頭をあげようとしない。
 さらに額を床に擦りつけた。
 床についた両腕は肘のところが90度から60度くらいに折れ、まるでコオロギかバッタの足のようだ。
 滑稽だが、四本脚で地面にしっかり立っているような格好になっている。
「社長、そこをなんとか……、なんとかなりませんか。私どもはメガバンクですし、協力的融資を行っているということは、逆に御社の信用を示すことにもなると思います。メガバンクがバックについているということになれば、証券会社もベンチャーキャピタルも安心して出資を申し出ることになりませんか!どうか、このとおりです……」
 しばらくの沈黙をおいて、葉山ヒカルはなおも続けた。
「実は、今回の融資が失敗してしまいますと、行内での私の立場も危うくなります……。せっかくここまで上ってきたというのに、同期に先を越されてしまいそうなんです。このところ、まったくといっていいほど上手く事が運んでいないんです。頼れるのは、富岡社長だけなんです……。どうか、このとおりです。お願いします……」
 コオロギの背中が震えているのがわかる。
 スーツの裾が羽のように振動している。
 しかしその鳴き声はあまりに身勝手に富岡には聞こえた。
 人は競争し、人と比べ、自分の現在地を確認する。
 だが、その現在地が、自分にとって理想の現在地をさしているのか、それとも、客観的な自分の立ち位置をさしているのかでは、心の向く方向は随分と異なってくる。
 葉山ヒカルは、まさに自分の描く理想像のみに目を向け、客観的な現在の自分を見失っている状態なのだと、富岡正三は理解した。
 息子が同じことを言ったら、父親としてどうするだろうか。
 富岡正三は、目の前で土下座をする若者を前に、何度も自問自答を繰り返していた。
 ここで金を借りてやるのは簡単だ。
 しかし、それはあくまで方向性を見失った若者に、甘い餌をやるのと同じ。
 味をしめれば、また必ず同じことを繰り返すだろう。
 この若者は、きっと将来を見込まれるだけの素材も素質も持っているはずだ。
 正しいスタンスを育て直せばまだ十分に間に合う。
 きっと我が息子が生きていれば、どれだけ泣かれようとも突き放すはずだ。
 目を閉じ、腕組みをし、深いシワを何重にも折り曲げながら、富岡正三の心は定まっていった。
 人には必要な試練が最適なタイミングで訪れる。
 先代の社長、つまり、実父から叩き込まれた考え方を富岡正三は思い出した。
「葉山さん。今回は無理だ。あんたの置かれた状況もわかるが、これは我社にとっては今後の社運を左右することにもなりかねん。私一人の判断で、一生懸命働いてくれている社員の夢や希望を潰すわけにはいかんのだ。わかってくれないか。このとおりだ」
 従業員1,000人を抱える企業のトップが30歳そこそこの銀行員に深々と頭を下げた。
 これ以上、葉山ヒカルには為すすべはなかった。
 自分の心の内をさらけだしたことが急に恥ずかしくなり、慌てて鞄に手帳をしまい、挨拶もそこそこに富岡商事の社長室を出た。
 額には玉のような汗がふき出て、鼓動は早くなり呼吸ができない。
 みなとみらいのベイサイドエリアに建つ富岡商事本社ビルの最上階の8階からは、横浜の港風景が一望できる。
 富岡社長はこの景色を見ながら、その開かれた前途に胸を高鳴らせているのだろう。
 葉山ヒカルは、最上階から降りるためのエレベーターホールで、締め付けられる胸を押さえながら、前途明るいこの会社とは正反対に、自分の境遇はまさに一気に下るこのエレベーターのようだと思うのだった。
 みなとみらい駅で電車を待つ自分の姿が、ひとつ向こうのホームに到着した電車の窓に写った。
 マスク姿にもすっかり違和感がなくなったが、どこか自分とは違う誰かがその車両に映し出されているような感覚になる。
 ホームで隣に立つ見知らぬ会社員の男性と自分とがニアリーイコールのようで、映し出される二人の社会人の姿には個性のかけらも感じられない。
 こうやって金太郎飴のようなビジネスパーソンがつくられていくのかもしれないと、雇われの身であることの儚さに思いを馳せてしまう。
 自分は何のために働き、何のために生きているのか。
 汗の引いたワイシャツから放たれる少し酸っぱい自分の臭いに、見えない何かに必死にしがみつこうとしている自分自身への冷めた感情が漏れ始めているように葉山ヒカルは感じていた。
 電車に揺られながら、葉山ヒカルは、年度末にかけた起死回生の取引が実らなかったことを、支店長の片岡にどのように報告するか思案した。
 毎日寝る間も惜しんで働いているのに結果が出なかった。
 上司からの誘いは断ったこともないし、どんな時も上司の仕事は最優先にこなしてきた。
「こんなはずじゃないんだ。こんなことで終わってたまるか。俺は横浜の渉外キャップなんだ。渉外キャップたる俺が、他の奴らの遅れをとるわけなんてないんだ」
 電車を降り、横浜駅の地下鉄通路を出口に向かって歩きながら、葉山ヒカルは自らに暗示をかけるようにつぶやいた。
「一寸先は闇……」
 かがやき銀行の行員なら誰しもが一度は口にする言葉の意味を、葉山ヒカルはまだ他人事ととして突き放しておきたかった。

支店の行員専用口からデスクに戻ると、預金係と出納係が慌ただしく現金を締めているいつもの光景が目の前に広がっていた。
「計算、合いました!」
 支店で一番人気のあるテラーの山根実彩子が、その美しい声で支店全体に報告した。
 パチバチパチッ。現金合致の報告とともに拍手をするのも、かがやき銀行のお作法の一つだ。
 この合図が、支店行員のそれまでの緊張を一気に開放する。
 17時の終業チャイムにむけて、内勤職の面々は片付けを始め、帰宅の準備に忙しくなる。
 そして、ここからが渉外係の独壇場となる。
 月末と年度末はきまって19時から経営会議という名の、通称「吊し上げ裁判」が開かれる。
 つくづくマイナス主義の社員評価体制だと感じるのはこういう点で、その月やその年度に活躍した行員を褒め称えるのではなく、最も足を引っ張り、失敗した行員を糾弾することがこの会議の目的なのだ。
 渉外課長がさっきから忙しそうに決算数字と営業数字の推移表を印刷している。
 まもなく、印刷したその表に赤い線がひかれる。
 その赤い線こそが、これから糾弾されるであろう、ワーストワンの称号を与えられる渉外担当者の成績なのだ。
 かがやき銀行横浜支店3階会議室が重々しい空気につつまれた。
 黒を基調とした絨毯に、ダークブラウンの円卓の真ん中には遠隔会議用のモニターや集音マイクが並んでいる。
 一人一人が座る椅子も革張りで、肘掛けを備えた立派なものだ。
 役員が来店して行う会議にも使用されるだけあり、スキもソツもない。
 全てが整った会議室の中で、渉外担当者各々の心だけが不安定なバランスでそこに集まっている。
 誰一人として、互いの表情をみようとはしない。
 これから待ち受ける光景をすでに予想しているかのように、緊張の糸は太く重く、重力と重なって下に下に行員の気持ちを引っ張ている。
 渉外課長の開会宣言に続き、年度末の支店全体の営業数字、つづいて渉外担当者ひとりひとりの個人成績が読み上げられていく。
 渉外担当者は皆、下を向いたまま、会議室のテーブルの木目を目で追う。
 葉山ヒカルもまた、耳だけを働かせ、心のスイッチは切ったまま、握った拳を見つめていた。
「葉山、お前、富岡商事で三億は固いって言ってたな。どうして富岡商事が入ってないんだ?お前の三億さえあれば、今期はうちの店は達成したことくらい、キャップなんだからわかってただろう。何やってんだ!それでも横浜の渉外キャップか!」
 支店長の片岡の怒声が会議室に響き渡った。
 片岡は大学時代まで野球をやっていたこともあり、体格も良ければ声もドスが効いている。
 酒の席で機嫌が良くなると、高校時代に甲子園を目指していたことや、慶應義塾大学の野球部時代には神宮球場のスタンドにホームランを何本も打ち込んだことなどを自慢する。
 野球部でしごかれた経験に比べれば、銀行の営業なんて軽いものだというのがお決まりのセリフだった。
 葉山ヒカルに向けられた公開処刑は3時間続いた。
 会議が終わり、席を立とうとする葉山ヒカルを、片岡が呼び止めた。
「葉山。悪く思うな。お前のためでもあり、支店全体の気持ちを引き締めるためでもあるんだ。お前は大学の後輩でもあるから目をかけてきたつもりだ。俺の気持ちもわかるな」
「はい。支店長にはご迷惑をおかけし申し訳ないと思っております。来期こそはご期待に応えられるように頑張りますので、ご指導よろしくお願いいたします」
 葉山ヒカルはすっかり抜け落ちた肩の力を必死に入れ直し、片岡に向かって直立不動の姿勢を保った。
 深々と頭を下げる葉山ヒカルの横を、ポケットに手をいれた片岡が通り過ぎる。
 葉山ヒカルはさっと会議室の扉に向かい、片岡を通すために扉を引いて待った。
 会議室から出たところで、片岡が葉山の方を振返り、思い出したかのような口調で言った。
「葉山、お前、旅行が趣味だって言ってたよな」
「はい。学生の時はよくバックパック一つで国内も国外もよく旅行していました」
「そうか、九州なんかはこの季節、過ごしやすくて気持ちいいだろうなぁ」
 片岡はそう言いながら、片手をあげて会議室を後にした。

 日付が変わり4月1日を迎えた。
 新社会人が真新しいスーツに身を包み、緊張した表情で電車に乗り込んでくる。
 こんな時代もあったなと、懐かしさとともに、純粋無垢な彼ら彼女らの中で、どれだけの者が厳しい競争社会をくぐり抜けていけるだろうか……、昨日の公開処刑を思い出しながら、葉山ヒカルは通いなれた横浜駅の改札を出た。
「今日からまた戦争だな」
 そんな独り言をいった自分が、妙にタフに感じられ、逞しくも思えるのだった。
 かがやき銀行では毎月1日に異動辞令が出る。
 行員の不正隠しを防ぐため、内示は行われないのがこの銀行の特徴だ。
 徹底した内部統制により、行員の不祥事はこれまで数えるほどしか発生しておらず、金融庁の検査でもコンプライアンスについての指摘は皆無だ。
 今日もまた、朝礼で辞令が発表される。
 異動周期に入っている行員はもちろんだが、人事に関することは誰しも関心が高く、毎月1日の朝は支店内の空気がソワソワしている。

「葉山ヒカルくん、折尾支店渉外係係長として異動です。ご栄転おめでとう」

 辞令を読み上げた支店長の片岡の口元が一瞬緩んだのを葉山ヒカルは見逃さなかった。
 葉山ヒカルはかがやき銀行折尾支店に異動となった。
 折尾支店は福岡県北九州市八幡西区にある。
支店のある折尾地区は県内有数の学園都市として発展してきた人口約20万人の地区だ。
 九州共立大学を始めとした大学や専門学校が立ち並び、最寄りのJR折尾駅の乗降客数は九州でも5本の指に入るほどの多さだという。
 営業先も学校法人や行政が中心で、顧客の毛並みは良く、扱いやすい顧客が多いという。
 支店の行員も支店長をはじめ10人ほどの規模で、行員は全員同じ社宅に入居している。
 朝から晩まで顔を合わす仲なので、かがやき銀行の中でも行員の交流が盛んで有名だ。
 しかし、かがやき銀行で一、二を争う花形店である横浜支店に比べれば、所詮は地方の一支店であり、当然だが、役員の目も届かない。
 営業数字も横浜支店の20分の1ほどの規模だ。
 朝礼で自らの異動が発表されるのを聞きながら、心だけがすうっと身体から離れていくような感覚を、葉山ヒカルは覚えた。
 これまで積み重ねてきた何かが、砂山のように崩れさっていく。
 葉山ヒカルは行き場のない感情の収め方がわからず、目の前に置かれた辞令書の文字をただ繰り返し繰り返し黙読し、脳みそに自分の行き先を叩き込もうとした。
 桜の花びらが風に吹かれては勢いよく舞い上がり、黒色のアスファルトの上にピンクの斑点を重ねていく。
 引き継ぎのために外に出た葉山ヒカルは、舞い上がる桜の花びらに心を奪われた。
「桜ってこんなに美しかったかな」
 葉山ヒカルの肩に桜の花びらが舞い落ちた。


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