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『忘れもの』 【第8話】 「仮面」

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「葉山さんは八王子のお生まれですかぁ。わしも若い時にはしょっちゅう東京に遊びに行きよったとですよぉ。八王子いうたら、北島のさぶちゃんが住んどるっちゅうてねぇ。わしも一度は住んでみたかぁって思いよったことがあったとですよ。都会は面白か場所がたくさんあるっちゃもんねぇ。うらやましかとですよぉ」
 岡崎産業の社長、岡崎勤は肩を上下に揺らし、大笑いしながら、葉山ヒカルと支店長代理の飯塚にお茶を勧めた。
 葉山ヒカルが引き継いだ超大口取引先の岡崎産業は、創業70年の地元屈指の老舗企業である。創業者は早くから産業のインフラに目をつけ、ガス、電気といった生活に欠かせない事業に取り組み、代理店業を中心に業績を拡大した。
 三代目にあたる岡崎勤は、生まれながらにして経営者という運命を背負いながら、幼い頃から帝王学を徹底的に叩き込まれて育った。
「気が短くて豪快」という言葉がピッタリの性格で、一度決断したら迷いも妥協も一切許さない主義で、岡崎産業の年商をこれまでの2.5倍に大きく膨らませた。そして、今もなお、北九州を中心に、九州各地に拠点を増やし、営業範囲を拡大し続けている。
 かがやき銀行は、この敏腕経営者の腕に惚れ込み、他行では考えられないほどの低金利で融資を行い、同社の事業拡大とともにその取引を広げていった。
 そして今では、同社のメインバンクとしての地位を確立していた。
 しかし、岡崎勤は、メインバンクだからといって決して油断のできない相手だ。自社にとって他に利があると察すれば、簡単に他行に乗り換える冷徹さを持っている。
 これまでも何度も他行に乗り換えられそうになり、必死で融資条件の緩和を餌に引き止めてきた。
 ある意味では、完全に岡崎勤の術中にハマっているとも言える。
 かがやき銀行としても、これ以上の融資条件の緩和は、銀行として利益がないばかりか、支店業績悪化の引き金になるため、なんとか岡崎産業との関係改善を行いたかった。
 そんな折、同行の花形支店である横浜支店の渉外係長が異動でやってくると聞いて、支店長の川辺と支店長代理の飯塚は色めきだった。
「支店長、これはチャンスかもしれませんよ。横浜できっと何かあっての異動でしょうが、横浜の渉外係長に就くほどの人材ですから能力はあるはずです。しかも、悔しい思いをしているでしょうから、ここで挽回を狙っているんじゃないでしょうか。だからこそ、彼に岡崎産業の案件を任せてみてはどうでしょう。うまくいけば儲けもんですよ」
 いつになくメガネの奥が輝いている飯塚の提案に、支店長の川辺も「それもそうだな」と納得し、これは折尾支店にとって一つの賭けだなと思った。
 着任初日、清潔感のある身なりに落ち着いた雰囲気の葉山ヒカルが時折見せる鋭い眼差しに「これは只者ではないな」と銀行員としての勘が働いた。そして、二人の腹は決まった。
「葉山くん、ちょっといいか」
 支店長の川辺に呼ばれ、支店長室に入った葉山ヒカルは、川辺と飯塚から、これから担当するエリアと担当顧客先の説明を受けた。
 担当する顧客数は、個人が200軒、法人が50社ほどだった。銀座でも横浜でも経験したことがない個人顧客への集金業務も引き継ぎ内容に含まれていた。それに、法人顧客といっても、どれも個人事業主と変わらない事業規模の中小零細企業ばかりだった。
 これまでは上場企業や、事業規模が数百億円規模の大手企業が中心だったため、折尾支店の担当顧客の規模はかえって想像することが難しかった。
 担当顧客リストを眺めながら、少々途方に暮れていると、支店長代理の飯塚が、担当エリアとは別のエリアの企業の顧客情報資料を差し出た。
 資料は、顧客情報システムのCRMから出力したものではなく、「取扱注意」と表紙に朱書されたリングファイルに閉じられていた。
「岡崎産業……」
 葉山ヒカルはリングファイルに閉じられた資料を一枚ずつめくった。
「スプレッドで0.02ですか!横浜でもめったにない金利設定ですが、どこか強い競合行でもあるんですか?」
 超優遇金利が記された稟議書を見て葉山ヒカルは思わず声が大きくなった。
 そして、岡崎産業の歴史から、これまでの取引経緯、三代目社長との関係、そして折尾支店が抱える課題について、川辺と飯塚が説明した。
「このままでは足元を見られ続けてしまうんだ……。しかし、ここの借入残高は折尾支店にとって大口中の大口。他行に借換でもされたら、一気に借入残高は下がってしまい、支店の目標は未達どころか、取り返しのつかないことになるんだよ」
 ここでもか……と葉山ヒカルは唇を噛んだ。
 一週間前のあの日、借入残高目標のために土下座までして、あえなく失敗した自分の哀れな姿を思い出した。
 目標数字の話になると、つくづく銀行という商売が嫌になる。
 お金が必要な人には借すことができず、借りる必要のない人に無理やり借りてもらう。
 お金を欲する人には高金利で貸付け、お金の有り余っている人にはタダ同然の金利で貸し付ける。
 金融業は、いったい誰の何の役に立つための商売なのだろうかと、自分の心にまだわずかに残る良心が、ほんの少しだけ痛むのがわかる。
「支店長、わかりました。岡崎社長との取引をあるべき姿に戻すことが私のミッションなのですね」
 葉山ヒカルは、これは自分にとってのチャンスでもあり、ある種の賭けでもあると悟った。
「さすが、勘がいい。その通りだよ。君には、支店の運命を左右するミッションを任せたいんだ」
 川辺と飯塚は顔を見合わせ、身を乗り出した。
「精一杯やってみます。失敗すれば、私もここで終わりだと覚悟しています。その代わり、無礼を承知でお願いがあります」
 葉山ヒカルの鋭い視線が二人を捉える。
「何かね?」
「もし、このミッションが成功したら、私を本店へ戻していただけませんでしょうか」
「わかった。約束しよう。横浜で何があったかは知らんが、君にとってもこれが勝負なんだろう。岡崎産業との取引が成功したら、私が責任をもって本店に戻れるように常務に推薦するよ」
「ありがとうございます」
 支店長室を出て、自分のデスクに戻った葉山ヒカルはふと考えた。
「ひょっとして、片岡支店長は、はじめから俺をここに送り込むつもりだったのか……」
 横浜支店の会議室で行われた年度末の公開処刑は、紛れもなく葉山ヒカルへの叱責と罵倒そのものだった。そして、折尾支店への異動は、本人も疑いようのない左遷であると捉えていたし、周囲の誰もが触れてはいけないこととして、異動の話をさけた。
 あらためて思い出しても、腹わたの煮えくり返るような思いと、言葉では言い表し難い屈辱が鮮やかに蘇ってくる。
「まぁ、左遷だよな……」
 片岡がいくら大学の先輩であるとはいえ、所詮は使える者と使えない者という二者択一の中で選別されてしまったのだと、葉山ヒカルはあらためて我に返った。
 人は自分自身を守るために、物事を少しでも良い方に捉えようとする。
 決して見ることのできない相手の心の内にも、わずかばかりの自分に対する好意を期待してしまう。
 それが幻想であると知った時、人の心は地の底に落ち、再びその崖をよじ登る気力を得るために、それまでとは真反対の感情を生み、吐き出すのかもしれない。
 葉山ヒカルもまた、淡い期待と絶望との狭間で苦しみながら、深い谷の底から這い上がるモチベーションをどのように上げていけばよいか悩んでいる。
 無常の世であることは今に知ったことではない。
 遠い記憶の中で、すでに人を信じる心は置いてきた。
「期待はするが、信じることはしない」
 葉山ヒカルの眼差しの奥には、いつも底冷えする感情が漂い、他に隙きを与えない。

 何をするために本店に戻りたいのかと問われても、今は答えることができない。
 何のために銀行員をやるのかと問われても、明確な回答を持ち合わせていない。
 何のために、いや、誰のために働くのか、と問われても、正直、答える自信もない。

 与えられたものをこなすことが楽でいい。
 期待をかけられることが嬉しいのではない。
 与えられることで、明日を生きていける。
 そうやって、これまでも生きつないできたのだと思う。

 しかし、与えられたものをこなし続けても、幼い頃に空いた心の穴を、未だに埋めることができていない。
 心に空いた穴には、光と影が常に表裏一体で現れる。
 光があたっても、いつしかその光によってできた影にばかり目が向いてしまうようになった。
 与えられることで生きられる。

 葉山ヒカルは、息苦しさを押し殺すようにネクタイを締め直した。

 折尾の空は、飴色に染まっていた。
 カラスが慌ただしく飛び回っている。

「こいつらの方が、よっぽど生きてるのかもしれない……」

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これまでの第1話から第7話まではこちらからご覧いただけます!併せてお時間を割いていただけますと幸いです。

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