中国大陸製「エセ広東語」歌謡に学ぶ正しい「カントポップ」の作り方(3):押韻と文体

中国大陸の非広東語話者によって作られ、歌われる「エセ広東語」歌謡。
それを「エセ」たらしめている要素を分析し、そこから反対に正しいとされる「カントポップ」の要件を考えようという企画の第三弾。

前回は〈不该用情〉という楽曲を取り上げたが、その時にこの楽曲のサビが「-ing」で韻を踏んでいるという話をした。

也许当初不该用情(cing)
如今不会再有痴情(cing)
命运的注定(ding)
何必错对要去算清(cing)


作詞技法としての押韻


押韻はカントポップの歌詞が持つもう一つの特徴である。どんな歌であれ、基本的には脚韻を踏むようにフレーズ末尾の音を揃えなくてはならない。

つまり、広東語で作詞を行う人は、

(1)メロディにのせて違和感のない声調を選び
(2)短母音や入声がもたらす発声上の制約に注意し
(3)各フレーズの末尾では韻を踏みながら
(4)メッセージ性を込めた意味の通る歌詞を作る

わけである。

広東語での作詞が専門技術を要する「職人芸」である理由がわかってもらえるのではないかと思う。


エセポイント:普通話読みでしか韻が成立しない歌詞


この3つの制約のうち(1)(2)はカントポップ固有の条件だけど、(3)の押韻に関しては普通話の歌詞にも見られる。というかそもそも日本で「漢詩」と呼ばれている中国の古典詩にも共通する古来からのルールである。

ただし広東語と普通話では発音が大きく異なっている字も多いので、普通話で成立する韻が広東語でそのまま成立するとは限らない。

「エセ広東語」歌謡の中には、もともと普通話で作詞した歌を無理やり広東語に「変換」したためか、韻がおかしくなっているものも散見される。

つまり押韻も「エセ広東語」歌謡を見分けるポイントの一つなのだ。

たとえば林一という歌手が歌っている〈取悦所爱〉という歌。

林一〈取悦所爱〉(2020)

嬉笑怒骂着 期待过未来(loi)
汹涌 却化作这感慨(koi)
失去过几多色彩(coi)
转身是最佳姿态(taai)

时间 执着的 执着的 不会停摆(baai)
再努力 再呼喊 仍然被隔在门外(ngoi) 放不开(hoi)
可能的 可以的 却不可爱([ng]oi)
原来 我再找不到人把你取代(doi)
曾自豪 有懂你 到最后沦陷伤害的 深海(hoi)
哭笠是因为厌倦了等待(doi)

基本的に「-oi」で韻を踏んでいるのに「态(taai)」「摆(baai)」だけおかしい。

この二つは普通話読みするとそれぞれ「tài」「bǎi」であり、他の字も「来(lái)」「慨(kǎi)」「彩(cǎi)」などなどなので、広東語読みではなく普通話読みするとちゃんと「-ai」で韻を踏んでいることになる。

つまりこの歌は、普通話読みで押韻を考えて作詞した歌を無理やり広東語発音で歌った歌だと考えられる。

広東語の発音はなかなかに自然に聞こえるけど、「エセ広東語」歌謡にカテゴライズすべきだろう(ちなみに声調もぐちゃぐちゃだ)。


広東語読みでは韻を踏めていないことくらい歌う時に気づけそうなものなのに、このパターンの楽曲は案外ある。

たとえば「赵珂」という歌手が歌う〈心动〉。

赵珂〈心动〉(2021)

心动因你存在(zoi) yeah
系对你满心期待(zoi)yeah
没人能将你替代(doi)
请你不要狠心将我拒之门外(ngoi)
命中你发出的爱([ng]oi)yeah
似饮冰水般痛快(faai) yeah
我开始变得奇怪(gwaai)
好像渐渐对你产生依赖(laai)

〈取悦所爱〉と同じく広東語の「-oi」、普通話の「-ai」で韻を踏む歌詞で、犯しているミスも全く同じだ。「快」(kuài)、「怪」(guài)、「赖」(lài)も普通話読みなら「-ai」で、他の部分と韻が踏めている。

「正しい」カントポップの名曲の例を見てみよう。張敬軒の〈櫻花樹下〉(2008)はサビがこれらの曲と同じ「來」系の語尾(-oi)で韻を踏む。

還記得櫻花正開(hoi) 還未懂跟你示愛([ng]oi)
初春來時 彼此約定過 渴望未來(loi)
人置身這大時代(doi) 投入幾番競技賽(coi)
曾分開(hoi) 曾相愛([ng]oi) 等待(doi) 跟你未愛的愛([ng]oi)
你說悲不悲哀([ng]oi)

[大サビ] 秒速之間變改 小小世界(gaai)
    眷戀 也許走不過 拆卸的街(gaai)
    少女亦隨年漸長 走得多麼快(faai)

還記得櫻花正開(hoi) 還未懂跟你示愛([ng]oi)
當天園林今天已換上滿地青苔(toi)
如有天置地門外(ngoi) 乘電車跨過大海(hoi)
匆匆跟你 相望一眼 沒理睬(coi)
明日花 昨日已開(hoi)

この曲も途中で「-aai」で韻を踏んでいる箇所があるけど、これはサビから一旦メロディが切り替わる「大サビ」だからなので問題ない。カントポップの押韻は、曲全体で一つの韻だけを使わないといけない(古典詩で言う「一韻到底」)わけではなく、セクションごとに韻を変えることは許される。

ただし上の「エセ広東語」歌謡の場合は、一つのセクション内で「-aai」が混ざってしまっているので、この〈櫻花樹下〉のケースのような意図的な換韻とは区別して考えるべきだろう。


花僮〈浪子闲话〉(2020)

もう少し複雑な押韻の「失敗」パターンをもう一つ。花僮(以前取り上げた〈笑纳〉の歌手)が歌う〈浪子闲话〉という曲のサビは、最後の「叹流年 似黄花 问过苍天无人答」の部分だけが広東語、他は普通話で歌われているのだけど、広東語パートの韻がやっぱりおかしい。

我饮过风 咽过沙(shā)
浪子无钱逛酒家(jiā)
闻琵琶 谁人画(huà)
不再春风如寒鸦(yā)
我饮过风 咽过沙(shā)
浪迹天涯浮云下(xià)
叹流年 似黄花(faa)
问过苍天无人答(daap)

普通話部分は「-a」で韻を踏んでいる。

最後の広東語パートも一つ目の「花(faa)」(普通話は「huā」)は音が揃っていて韻が踏めている(そもそもこんな風に普通話と広東語を混ぜて歌詞を作ることは基本的にないので、これを「韻を踏めている」としていいのかは正直よくわからない)。

でも二つ目の「答」の語尾は広東語では入声の「daap」なので「-a」と揃っていない。

普通話では入声が消滅しており、「答」は「dā」と発音されるので「-a」で韻を踏める。花僮も最後の部分を「(モウヤン)ダー」と無理やり普通話読みすることで韻を踏めてるっぽくしているように聞こえる(そもそも他の歌の発音からして彼女には「入声」自体の認識がない気もする)。

とはいえ長母音+入声の場合、もともと末子音があまりはっきり発音されないこともあって、こういう韻の踏み方はカントポップでも例がないわけではない。

たとえば姜濤の〈孤獨病〉(2020)では、「-o」で韻を踏むサビの中に「-ok」(と「-ong」)の字が混ざっているけど、耳で聴く限りどちらもほぼ「おー」なのであまり違和感はない。

難道怨下去 人間真的會了解我(ngo)
很想問為何難過(gwo)
很想呼救 情緒極度無助(zo)
是孤獨還是失望還是 被世界折磨(mo)
假使我仍未夠好 你不要唾棄我好麽(mo)

隨便笑下去 喜歡的可以中傷我(ngo)
普天下病人無數 我在這邊 陪你寂寞(mok)
當你再哭也沒結果(gwo)
找不到那心理藥房(fong)
別遺忘還有我(ngo)
同樣在那些陰影 跌下過(gwo)

ただしこの歌の場合は姜濤の発音の「咬字」がそこまでしっかりしてないので気にならないだけであって、やっぱり例外的ではあると思う。


非広東語話者が「エセ広東語」の歌を作れる理由


なんにせよ広東語と喪失している普通話では、多くの漢字の読み方、とりわけ語尾の発音(韻に関わる部分なので中国の伝統的呼称では「韻母」と呼ばれる)が大きく異る。

だから普通話で作詞した歌を無理やり広東語読みで歌っても、韻が崩れてしまい「広東語の歌詞」としては成立しないのである。


しかし、そもそも「普通話で作詞した歌を広東語に変換する」なんてことがなぜ可能なのか。

普通話と広東語の違いは、ちょっとした「訛り」のレベルではない。発音がちょっと違うだけではなく、そもそも語彙から文法から、何から何まで違う。日本語でいう「方言」と比べてもかなりの差があるので、たとえば英語とドイツ語のような共通の祖先を持つ別言語のようなものだと考えた方が近いと思う。

「英語で作詞した歌をドイツ語で歌う」なんてことはもちろんできない。なのになぜ「普通話で作詞して広東語で歌う」ことができるのか。

その理由は、カントポップの多くが、実は口語ではなく書き言葉(書面語)の中国語で書かれ、その漢字の広東語読みで歌われていることにある。

広東語が話される香港でも、書き言葉として使われている中国語は、中国大陸で使われているものと基本的には変わらない(字体は異なるが)。この書き言葉は近代になって、北方の口語をベースに整備された白話文なので、語彙や文法はほぼ今日の普通話とも一致する。

なので普通話で書いた詞を、広東語読みの発音だけ調べて歌えばとりあえず「カントポップ」らしい曲は作れる。広東語の口語能力は求められないので、非広東語話者でもなんとかそれっぽく仕上げられてしまうのだ。


「エセ広東語」歌謡の中には、広東語の口語を用いたものもわずかだが存在する。たとえば〈水蒸气亲吻Disco〉という曲では、「点解 dim2gaai2」(繁体字では「點解」)という「なぜ」を意味する広東語の口語が歌詞に使われている。

LeeyOn李昂 × 张蔷〈水蒸气亲吻Disco〉

我不再不再会放弃你
点解点解会忘记你
我惊喜
又无法躲避

文語だけの歌詞とは違い広東語の口語を知らないと作れない歌詞ではあるので勉強具合は伝わってくる(声調はあんまちゃんとしてないが)。

「三及第」という文体

香港のカントポップでも歌詞のフレーズに口語が混ぜられることはある。

たとえば前回取り上げた〈富士山下〉に「車(ce1)你回家」(あなたを車で家まで送る)として出てくる「車(ce1)」(車で送る)という動詞も口語的な語彙だと思う。

これをたとえば標準的な「送(sung3)你回家」(あなたを家まで送る)にすると声調が変わってしまい、後ろの「你(nei5)」と高さの変化がつかず、メロディと気持ちよく一致しない。作詞上どうしてもここは1声の動詞でなければならなかったのだろう。

カントポップの作詞家は、こんな風にして、時として口語も借りてきたりしながら「填詞」というパズルをクリアしていく。

たとえば「すでに」は、標準的な中国語では「已經」(ji5ging1)が一般的な言い方だけど、カントポップでは順序をひっくり返した「經已」(ging1ji5)も多用される。これももともと広東語の口語的表現らしい。

例:Dear Jane 〈最後一間唱片舖〉(2020)

如若世間這刻經已沒唱片舖
餘下這間交給你我守到老
時代變很少真愛會不倒
難得你 還跟我 去撐這小店舖

「已經」と言おうが「經已」と言おうが、会話では大差ないけど、歌詞にする時には声調が「低→高」から「高→低」に変わるので大違いである。つまり「經已」を使えば下降するメロディにも「すでに」という言葉を当てられるようになる。

たとえば前々回、エセ広東語歌謡として取り上げた〈再爱也没有意义〉も「已经」(已經の簡体字表記)の部分を「经已」とすれば、声調とメロディの対応はだいぶマシになる。

後半の「心里」もなんとかしたいが、末尾の後は韻に関わるので動かしづらい。
たとえば「(心)中 zung1」にすれば声調的にはOKだが、次の行の「去 heoi3」との押韻が成立しなくなる。こんな風に押韻と協音を同時に満たす組み合わせを見つけるのはとても難しい。


他にもより古典語に近い「已」や「早」も同じような意味の言葉として使うこともできる。そうすれば1音節しか使えないシチュエーションでも「すでに」を表現することが可能になる。

カントポップの歌詞は、こんなふうに現代的な文語をベースに広東語の口語や古典語(漢文)の語彙を混ぜ込んで作られている。こうした文体は三種の具を入れたお粥の名称を借りて「三及第」と呼ばれ、歌詞に限らず新聞のコラムなどでも用いられ、長く香港で練り上げられてきたものらしい。


文語は「填詞」に向いている


カントポップの歴史上、全て口語で歌詞を書く試み自体はあった(下記記事参照)けど、まだまだ主流にはなりきれていない。

その理由としては、文語ベースの「三及第」を使うことでボキャブラリーが増えることが大きいのではないかと思う。つまり「填詞」のパズルに使えるピースが増えるのだ。

口語で歌詞を作ろうと思うと、みんなが普段話すのと同じような語彙を使わなければ違和感がある。たとえば「なぜ」は通常「點解」としか言えない。

けど口語とは乖離した文語の世界なら、もう少し語彙の幅が増える。「為什麽 wai4sam6mo1」のほかに、より文語っぽい「為何 wai4ho4」とも言えるし、「何以 ho4ji5」という言い方もできる。さらに反語的な言い方なら「怎會 zam2wui6」も使える。

会話で「為何」や「何以」を使って喋る人はもともといないのだから、どれを選ぼうと「そんな言い方するかな…?」という違和感は生まれない。

他にも「〜と」という助詞で言えば、口語なら「同 tung4」を使うのが普通だけど、文語なら「跟 gan1」「與 jyu5」「共 gung6」「和 wo4」などのパターンがある(ニュアンスはそれぞれ違うだろうけど)。

それぞれカントポップの歌詞で用いられる4種類の高さの声調に対応するので、使い分ければどのようなメロディでもだいたい「〜と」を表現することができるはず。

たとえばAGA(江海迦)の〈理性與任性之間〉という歌では、一つの曲の中に「共」(共你試過一起)、「與」(我過去與你相關)、「和」(和你眨一眼)の3種類が使われている。

例:AGA 〈理性與任性之間〉(2021)


そもそも中国語の文語というのは、詩作に適した言葉なんだろうと思う。

声調(「平仄」)や韻母を合わせる作業は、古典詩の時代にも存在した。メロディに合わせるわけではないので「協音」とは違う技能だけど、詩の制約に従って声調を揃えなければいけないのは同じはずだ。だからこそ中国語の文語は古来より「言いたいことを詩のルールに合わせて表現する」技巧と語彙を発達させてきたのだろう。

漢文や漢詩を真面目に学んだことのある人ならわかるかもしれないけど、中国語の古典的文語には同じような意味を表す単語がとても多い。

同じ意味を表す多様な形式の語彙があっても日常生活には特に役に立たないだろうけど、形式上のルールに則って言葉選びをしなければならない詩作にはこの上なく便利である。

そんな歴史を持つ詩作に適したボキャブラリーを活用できるからこそ、カントポップの作詞者たちはさまざまな制約に合致した言葉を選び取ることが可能になっているのではないかと思う。


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