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中古のiPhoneを買ったらSiriが呪われてたけど彼女のおじいちゃんが凄腕霊能者だったからなんとかなった話:『阿公講鬼』 【シリーズ 香港広東語文学の世界】

昨今の香港で出版されている広東語口語本には、

(1)セリフ部分だけ口語
(2)地の文もすべて口語

の二種類があり、(1)は小説などに多く、(2)はエッセイに多いと前に書いた

でも、例外はあって、特に一人称で語られるタイプの小説には(2)のパターンをとって全部広東語で書かれているものもある。

そんな例に、2017年に藍橘子というネット作家が書いた『阿公講鬼』というホラー小説がある。

(ちなみに私もホラーが苦手なので、以下はがんばってあんま怖くならないように紹介する)

中国語では「鬼」はオバケのことだから、タイトルは直訳すると「じいちゃんオバケを語る」という意味で、霊能者のおじいちゃんが語る心霊エピソードを紹介していく形式の本なのだけど、物語の出だしはなかなかにぶっとんでいる。

ひとことで言うと、「中古のiPhoneを買ったらSiriが呪われてたけど、彼女のおじいちゃんが凄腕霊能者だったからなんとかなった話」だ。

以下、せっかくなので(何が?)、そのお話を要約してみる。

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旺角で中古のiPhoneを買ったらときどき突然Siriが反応する。しかも「『助けて』に関連する映画です」など怖い内容だった。気味ががわるいので店にもっていくと、中をあけたらなぜか髪の毛がでてきたという。理由はいわず、お金を追加で払って新しいものにとり変えてもらった。

しばらくたったある日、眠っているとまたSiriが反応して「『身代わりがほしい』(我要替死鬼)に関連するWebサイトです」などと言いはじめ、私は金縛りにあった。

ガールフレンドのおじいさんが元道士だというので助けを求めに行くと、お札をわたされた。つぎまたSiriが反応したらそれで霊を退散させろ、という。興味を持っても手には負えないから、早く成仏させてしまえ、と。

しかし私は、興味本位からSiriを使ってその霊にはなしかけてしまった。話を聞いていると、霊の正体は深圳で強盗におそわれて殺された女性だということがわかった。

なんとか彼女を助けたいと思った私は、次の日、「紙紮舖」(死者への御供物を売っている店)へ行って、なにかその霊に備えようとした。どう燃やしたら霊に届くのかと思い、店主にたずねてみると、「時辰八字」(生まれた年月時分を旧暦であらわしたもの)と名前を書けば届くという。しかしどちらもわからないのであきらめた。

それからも私は、ガールフレンドの忠告を無視してお札はつかわなかった。ある日、私の部屋に彼女がじいちゃんをつれてやってくる。イライラした私は「なんで連れてきたんだ」と怒った。彼女は、私が最近女物の服やアクセサリーを買いあさったりしていて様子がおかしかったからじいちゃんに相談したのだと言うが、私にはなんの記憶もなかった。

そうしているうちに、じいちゃんはライターでお札をもやし、それを水に入れて無理やり私にのませた。のんだ私は胃に火が付いたような感覚になり、緑色の液体を吐いた。

私は女の霊にとりつかれていたのだった。

「彼女を助けたかっただけだ」という私に、じいちゃんは「お前の手にはおえないといっただろう」としかる。

「人の世には法律があり、地獄には戒律がある。誰もが霊を助けられるわけではない。彼らに近づけば近づくほど、『陽気』を吸われてしまうぞ」(人間有法律,地獄有戒條,唔係人人可以幫鬼㗎,近得佢哋多,會吸晒你啲陽氣㗎。)

霊に向かって彼女とじいちゃんが立ち去るようにかたりかけるなか、私はとつぜん、飛行機にのったあとに耳の気圧がぬけたようにすっきりとした感覚になる。じいちゃんはさらに「符水」(お札をつけたりそれを燃やした灰をまぜたりした水)を飲ませ、吐いてきれいにするようにいった。じいちゃんと彼女は私の部屋の女物の衣類をもって降りていった。どこかで燃やすという。

また部屋のなかで一人きりになったとき、Siriがなった……「また会いましょう」

——1章「取り憑かれたSiri」(Siri附靈)より

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なんというか、まさか「呪いのビデオ」ならぬ「呪いのAI」なんてものが登場する時代がやってくるとは、お化けの世界もテクノロジーの進化が凄まじい。

「彼女のじいちゃんがたまたま凄腕道士」という設定も強引で、なんともいえない。

でも、この「じいちゃん」のキャラクター設定が絶妙で、なんだか結構読めてしまう。

「じいちゃん」は、若い頃は広東省で村の道士をしていたけど、あることが理由で(その理由は物語の最後で明かされる)村を追われ、香港に移り住んだ。今では公共団地に住んで、いろいろなご近所さんの相談にのったりしている。

道士をしていたかは別として、香港のおじいちゃん・おばあちゃん世代には、大陸から(諸々の事情で)香港に移り住んだ経歴を持つ人が多いので、とてもリアルでその辺にいそうなおじいちゃん的な人物造形になっている。

おまけに「じいちゃん」は語り口も軽妙で、いつも除霊をしたあとに哲学者への言及を交えたりもしながら(おじいちゃんはクーラー目当てで図書館に入り浸っているから読書家らしい)いい感じのお説教をきかせてくれるから、各エピソードを読み終わるとほっこりした気持ちになる。


「じいちゃん」の解説する宗教からは、香港の民間信仰もよくわかって、読んでいると案外勉強にもなる。

上にまとめた1章のエピソードの中にもいくつか重要なキーワードがいくつか出てきている。

例えば主人公が紙を燃やして霊に備えようとするシーン。

中国文化の伝統的な宗教観では、この世とあの世はよく似ている。この世は「陽」、あの世は「陰」の世界とされ、どちらも裏表のようなものとされる。

だから死者はこの世の世界とあまり変わらない姿で普通に暮らしているものとしてイメージされる。日本では幽霊といえば自動的に怖いもの、というイメージになるけど、中国の幽霊というのは、基本的には人間と同じ姿をしているので怖くない。足もちゃんとあるし、浮いてないし、たいてい透けてもいない。『チャイニーズ・ゴースト・ストーリー』や『ルージュ』みたいな香港映画でも、おばけは普通の人間とわからない姿でこの世に登場する(ただし最近の映画は、Jホラーの影響もあって結構怖い系幽霊も出てくる)。

だから古典的な怪奇譚でも心霊映画でも、主人公は当初はオバケの存在に気づかず普通に人間として交流してて(何なら恋愛したりして)、後から「人間だと思ったら実は幽霊でした」というのがオチになるパターンが多くて、いまいち盛り上がりにかける。

でも生者と死者には一つだけ大きな違いがあって、人類学者の渡邊欣雄によれば、それは冥界の住人は自ら生産活動を行うことができないことだという(『術としての生活と宗教:漢民族の文化システム』森話社、2017年)。だから彼らは子供は作れないし、労働してお金を稼いだりすることもできない。でもその他は普通の人間なので、飲んだり食べたり着飾ったり遊んだりしたい(らしい)。

じゃあどうするかというと、生者が食べ物や衣服、お金を送ってあげなきゃいけない。その転送方法は「燃やす」ことで、香港では死者が使用するいろいろな品物や冥界のお金を模した紙製のお供物がその辺で売られている。

上のエピソードで主人公がそういうのを売っている専門店「紙紮舖」に行こうとしたのはそのためだ。供養してくれる人がいない霊は、「餓鬼」や悪霊になってしまったりする。

ちなみにこの「転送」は、現実世界の郵送と同じで、ちゃんとした「住所」がないと届かない。そのためによく使われるのが漢字で書かれた本名と「時辰八字」らしい。どちらも個人のアイデンティティを示す重要なものなので、これに付随して冥界の門が開いてオバケが里帰りをする旧暦の7月には背後から本名を呼ばれても振り返ってはいけないとか、みだりに「時辰八字」を教えると呪われる、だとかが言われたりもしている。

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余談なのだが、そういうわけなので、折り紙的な紙製の人形やら家具やらというのは、香港の人々にとって冥界を感じさせる縁起の悪いものらしく、「おかしな街に迷い込んだと思ったら………住民をよく見たら……みんな紙製の人形だったんだよ!」というのが香港的怪談最強クラスのパンチラインになるみたいなのだが、正直外国人としてはいまいちピンとこない。2014年の映画『香港仔』にも(ホラー映画ではないのだが)そんなシーンが出てきた。

いちいち全部は取り上げてはいられないけど、本作『阿公講鬼』には他にもたくさん民間信仰が解説されているので、案外勉強になる(したところで何だという話だが)。

他にも狐のお化けや、日本でもおなじみのキョンシーが登場するエピソードもある。第3章「迷子のキョンシー」では、腕を前に伸ばしてぴょんぴょん跳ねるキョンシーの由来は、出稼ぎ先でなくなった人を故郷に連れてかえるために、腕の部分を竹竿に括って二人で担いだ「趕殭屍」(キョンシー追い)からきている、と説明されている(ほんとかは知らん)。

趕殭屍とはどんなモノだったか。趕殭屍を担う道士は、「趕屍匠」と呼ばれた。

彼らはまず、山上に運ばなければならない死体をまとめる。山道は険しく、馬車も通れないので、二人で一つの死体を運んでいたのではダメだ。だから彼らはある方法を考え出した。それは二人で長い竹を持って、そこに全ての死体の腕をくくりつけるのだ。左手を一本に、右手をもう一本に………そうして竹を担ぎながら死体を山の上に運んだ。一度に5、6体運んだという。

だからみんながテレビで見る「キョンシー」(殭屍)は、両手をまっすぐ前に出している。そして竹はしなるから、歩くたびに、キョンシーたちもぴょんぴょん跳ねるように趕屍匠についていくことになる。

——3章「迷子のキョンシー」(迷路殭屍)p.40

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こういう中国文化的民間信仰が反映されたタイプの怪談を(1)伝統文化型とすると、香港によくある怪談には、さらに2つよく見かけるパターンがある。

ひとつは、東南アジアの呪術にまつわるもの。前に紹介した「降頭」もその一つだけど、香港では、東南アジア(特にタイ)の呪術は非常にヤバいということになっていて、現地の呪物をラッキーアイテムとして求める人もいるとかいないとか(現実の雑居ビルにもタイ産のお守り屋さんが出店してたりする)。この本にも、「ルークロック」(乾燥させた胎児)や「仏牌」(プラクルアン)といったタイのラッキーアイテムを買って失敗する人のお話が2つも出てくる。

僕の友人のケルビンは大のギャンブル好きで、旅行ももったいない、高いものを食べるのももったいないと、給料をすべてギャンブルにつぎこんでいた。賭けに勝ってもその金をまたさらに賭けに使ってしまうのだから、一体なんの意味があるのかわからない。

ある日ケビンと食事をしていると、彼はなにやら黒っぽい、毛むくじゃらのキーホルダーをとりだした。
何なのかと尋ねると:
「ルーコック」、とケルビンが言う。
「お前が”ルッコッ”(まぬけ)なのは知ってるけど、その持ってるのは何?」
「これの名前が”ルーコック”なんだって。中のは早死した猫の胎児」
「うぇ、何出してんだ食事中に」
「これをお前のじいちゃんに見極めてもらいたいと思って。本物か偽物か、”正”か”陰”か」、ケルビンが手にもったルーコックをどんどん近づけてくるので、僕は猫の死体とマウストゥーマウス寸前だ。

——4章「クマーン・ルーコックの真相」(古曼碌葛真相)p.48
じいちゃんとアパートの下の「しいたけ亭」でお茶をのんでいたときのこと、ご近所さんたちは皆じいちゃんのことを知っていてあいさつしていった。半分くらい飲み終えたとき、交差点のところに大きなトラックがとまった。黒いタンクトップに屈強な体、両腕に龍、虎、鳳凰の入れ墨をいれて頭は半分金髪にそめた男が僕とじいちゃんの方に向かってくる。(…)
男はとうとうじいちゃんの真向かいの席にどーんと座った。
「栄の兄ちゃんか、どうした?」じいちゃんが落ち着いて尋ねた。
「ほら師傅、それがっすね。最近いくつか仏牌を買ったんすよ、この腕の水晶のブレスレットも噂によるとすげーやつらしいんすけど、どうもそれでもずっとついてないっていうか」
男は悪人面だが、じいちゃんにはなかなか礼儀正しい。(…)
男はじいちゃんにさらに近づいた。
「俺に仏牌を売ったやつがクソ詐欺師だったんすかね!?ぶっ潰してやる!」
じいちゃんは瞬きして、じっと仏牌をみた。
「詐欺じゃない。が、献血はちゃんとしてるのか」
「は?仏牌ってまじで血で育てるんすか!うわー、どーりで!」
「違う。献血センターにいって献血をしたかときいてるんだ」

——13章「子を喰らう孤仙」(狐仙吃童)より、pp.150-151

東南アジアのことを香港では「南洋」とも呼ぶので、これを(2)南洋邪術型と呼ぼう。

もう一つは、香港のローカル・ヒストリーを反映したものだ。本作の中にも、50〜60年代の大陸からの難民が相次いだ次期に、泳いで香港を目指して溺死してしまった霊の話(「逃港拉屍人」)や、「無法地帯」と呼ばれたクーロン城がオバケにとっても無法地帯だったことを語る章(「城寨碟仙」)などがある。

こんなローカル・ヒストリーもので最も多いパターンは、日本軍や日本占領期に関わるものだ。物語になるかは別として、巷に溢れるお化け話としてはこの(3)日本占領期モノ、のパターンが実は一番多いんじゃないかと思う。

「うちの学校/団地が建ってる土地って、もともと日本占領期の集団埋葬地があったらしいよ!」というパターンは香港の子供達が語る怪談の定型句で、実際に教室で日本軍兵士の格好をしたお化けをみた、という話もよくある(らしい)。

本作のじいちゃんは「そんなにたくさん埋葬地があってたまるか」と否定的だけど、日本占領期にまつわるエピソードはいくつか出てきて、日本軍に殺されたイギリス軍兵士と彼を殺した日本軍兵士が今世で恋人同士になってしまい、そこにイギリス軍兵士の恋人の霊が心配してやってくるといういろいろと凄い話も収録されている(「遊地府」)。

第二次世界大戦中、日本が香港に侵攻してイギリス軍を降伏させたのが1941年のクリスマス、12月25日。それから日本の降伏後イギリスが主権を回復する1945年8月まで、香港は日本の占領下にあった。

今でも単に「三年八個月」(3年8ヶ月)といえば「日本占領期」を否定的に語る言葉になるほどに、この期間は強烈に香港史の負の1ページとして記憶されている。その期間に実際に日本軍がどんなことをしたのかについてははっきりしない部分もあるけど、とにかく怪談として語られる「噂」をみるかぎり、かなりひどい印象をもたれているらしいことは、日本人として知っておくべきだろう。

だからといって、そんな日本占領期にまつわる怪談を語る香港の若者たちが、日本に強い反感を持っているかというと、必ずしもそうではない。

この本の主人公である「私」も、日本のポップカルチャーに染まり切っていて、しばしばアニメやマンガがたとえに出てくる。

「宇宙のはじまりは混沌だった。なにもない。つまり無極の『○』だ。あとから太極すなわち『両儀』ができた。陰と陽、日と月のようにお互いに追いかけあうものが。太極の中には黒色の中に白の点があり、白色に黒点がある。両者が対立しながら支え合う様子を示していて、さらに永遠の循環、無限の意味もある。この種の永遠の循環の考えは、西洋の『ウロボロス』と類似している。ウロボロスはある種の完璧な生物で、自分を食べることで生存していける。さらには自分を食べることで長く成長していけるのだ。この種の永久機関は……」
「ウロボロス!知ってる!『鋼の錬金術師』のだ、じいちゃんも見た?」
「教科書かい?」じいちゃんは興味津々だった。
「アニメだよ」
「カートゥーンか。こんど貸してくれ」

———13章「子を喰らう孤仙」(狐仙吃童)より、p.164

この作品からはそんな日本文化の消費と、日本と香港の過去をめぐるネガティブな印象が、どちらも今の香港に共存/併存している様子が伝わってくる。単に「親日」/「反日」というレッテルでくくれるほど日本とアジア諸国の関係は単純ではない。

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ちなみにこの『阿公講鬼』には続編『阿公講鬼2』も出ていて、こちらの最初の1章は、じいちゃんも含めた一家全員が日本旅行に出かけるエピソードになっている。

日本への旅行が香港の人々の「あるある体験」になった昨今では、日本の旅館やホテルでお化けに遭遇する系の怪談も出てきている。これは(3)の亜種なのかもしれないけど、戦争とは全く別の日本と香港の関係性が反映されている。

実はこの『阿公講鬼2』は、個人的には前作ほど楽しめなかった。

その理由の一つは、香港の社会事情を反映したエピソードが多く、政治的なムードが濃厚で、前作のように軽い気持ちでは読めないことだった。

最近では、そんな風に返還後の香港の経済停滞や政治問題を題材にした怪談も増加傾向にあるように思う。今の香港の状況を見ていると、きっとこの手の作品は今後も増えていくだろう。

日本占領期モノのホラーも、今の香港の政治ホラーもどちらも、普通の方法では語れないような不安・不満を超常現象を借りて語ろうとしている点では共通すると思う。

だからホラー作品は、反体制的な政治主張とも相性がいい。

この『阿公講鬼』の筆者も、抗議運動応援ソングのMVに出演していたりする。
(→「《煲底之約》 (鍋底の約束)という香港デモの歌の話」)

最近の広東語口語文学にはホラー系がやたら多い気がするけど、それは単に若者好みのジャンルだからというだけではなく、もしかしたら口語文学が持つ政治的メッセージとホラー的表現のポテンシャルに重なる部分があるところがあるからなのかもしれない。

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