橋本環奈と新垣結衣が出てくる香港の小説の話:『降頭師之日常』【シリーズ 香港広東語文学の世界】

香港の小説を読んでたら橋本環奈が出てきてびっくりした。
と思ったらなぜか陰陽師もガッキーも出てきた。

その小説のタイトルは『降頭師之日常』。2018年に出た若者向けのライトな小説で、モンコックの雑居ビルに店舗を構える呪術師の主人公がさまざまな呪いを求めてやってくる顧客たちと繰り広げるほのぼのとしたやりとりを描いている。

(誰も原作は読まないと思うけど、以下ネタバレがあるから注意だ)

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「降頭」(”ゴンタウ”と読む)というのは東南アジア由来とされる呪術のことで、香港ではとにかく恐ろしい黒魔術として想像されている。1980年代にはこれを題材にして、香港のダメ男がタイに行って遊び呆けて現地の女に呪われる筋書きのホラー映画が次々とつくられた。

そういう映画に出てくるのが、いかにも恐ろしげな風貌をして、気持ちの悪い呪いをかけてくる「降頭師」だったのだが、時代の変化なのか、本作の主人公アラウォン(阿拉旺)くんはもう少しポップな呪術師になっている。

ホラー映画界での「降頭師」ブームも過ぎ去り、今の香港では彼の商売はあまりうまく行っていない。

降頭市場は、実のところ、すでに長らく鳴かず飛ばずだ。80年代の香港で降頭関連の映画が多く作られた時期には、降頭はまさに飛ぶ鳥を落とす勢いだったと言えるかもしれないが、まさにその全盛期、幼きアラウォンは「有名な降頭師になって、大きくなったらお金をたくさん稼ぐぞー」と志したのだった。しかし、彼が学を修め帰ってきたころは、偶然にもSARSの時期であり、降頭がなくても人が大勢死んだ上、社会は不景気になり、経済は低迷してしまっていた。

だから彼は、婚活イベントや階下のレストランへの人の斡旋などの副業をしながら、セコセコと小銭を稼いでくらしている。時たまやってくる客にも抜群に気合の入った軽快なセールストークを繰り広げるので、昔ながらの呪術師らしいミステリアスさは一切なく、そこが物語の面白みにつながっている。

「橋本環奈」が出てくるのは、ある女教師が「職場不倫をしている旦那を呪い殺したい」という依頼を持ちかけてくるエピソードの中だ。

「なんてひどい。奥さんが学校で教えてるのに、学校の女教師に手を出すなんて……」、アラウォンが批判した。
楊先生は苦笑して、言った:「ほんとに女教師とヤっただけなら、私もここまで起こりませんよ……」
「じゃあ昇進のために校長とヤったとか?いくらなんでも……」
楊先生は首を振った。
「まさか掃除のおばちゃんに?」、アラウォンが言った。
楊先生は首を振り、写真を差し出すと、言った:「自分で見てください」
アラウォンは写真を手に取ると、驚いて、言った:「先生、ウソでしょう?橋本環奈じゃないですかこれ!」
楊先生は首を振って、訂正した:「よく見てください。橋本環奈のコスプレをしてるだけです。うちの高校の学生、”喬靖芝”ですよ」
アラウォンは失笑して言った:「喬靖夫(作家・作詞家)の親戚ですか彼女?」
楊先生はアラウォンのジョークを無視して、もう一枚の写真を差し出した。こちらの写真はさっきのと比べるとボヤけていて暗かったが、場所は学校近くの公園で、女子高生を後ろから抱きしめている太った男がいるのが見えるだけだった。男の見た目は、どこか日本の芸能人の荒川良々に似ていた。

ガッキーの方は、物語の終盤、最終部に出てくる。

「女教師夫、橋本環奈似JK不倫事件」の後、なんだかんだあって元・顧客である「華生」という若者を弟子にしたアラウォンは、新たな任務に取り掛かるため、別の女性の写真を取り出して彼に見せる。

「早速仕事だぞ。彼女が今回の主役だ。」
 (即刻有工開喇,佢就係今次嘅主角。)
「ガッキーですか?」、華生はびっくりした。
 (「結衣?」華生嚇一大跳。)
「違う。」アラウォンが訂正する:「ガッキー”たん”だ」
 (「錯。」阿拉旺更正:「係結衣BB。」)

(上で「たん」と訳してしまった部分の原文はBB(ビービー)で、英語のベイビーが広東語風になまったものだ。親しい女性の名前の下につけるフレーズで、逃げ恥以降香港でも「みんなの嫁」状態になったガッキーの名前「結衣」の下にはしばしばこれをつける。むしろこのシーンを見ると、つけなくてはならないようだ。)

呪術修行に青春を捧げてしまったアラウォンは、香港に戻ってから見たガッキーのドラマにどハマりして、彼女のファンクラブの香港支部の会長にまでなってしまうほどの大ファンだった。

しかし、そんなガッキーに熱愛が発覚したことが今回の事件の発端となる。

相手は男性アイドルグループ「C7」の大杉弘樹(こっちは多分架空の人物)。

ファンクラブの威信にかけて、全力で大杉を呪い殺そうとするアラウォンだったが一向にうまくいかず、調査を続けるうちに、彼の母方の家系が有名な「安倍氏」であることを知る。

「安倍家というのを聞いたことがあるか」、アラウォンが言った。
「知ってますよ。日本の首相でしょう」、華生が言った。
「うん、彼もまあ全く関係ないとは言えないが、いま私が言っているのは、『陰陽師』の安倍家のことだ」

大杉の母親は安倍晴明の末裔で、現代日本最強の陰陽師であり、息子に仕掛けられたアラウォンの「降頭」をことごとく阻止していたのだった。

かくして、直接日本に乗り込んだアラウォン一行と迎え撃つ安倍家一行の間に、たぶんその筋のマニアにはたまらないのかもしれない夢のアジア呪術バトルがはじまっていく。

結局、最後はアラウォンが(主人公補性で)勝利をおさめるのだけど、大杉に最後の一撃をくらわせようとしたところで、彼の耳にある日本語が飛び込んでくる。

アラウォンがまさに手を下そうとした瞬間、彼の耳にある日本語が入ってきた。彼は日本語はできなかったが、以前にサミー・チェンの歌を聴いていたから、この「チョットマッテ」という言葉が待てという意味だということがわかった。そして、それより更に重要だったのは、その話者の鈴の音のような心地よい声色だった。アラウォンの手を止めることのできたその人物とは……。

ガッキーその人に他ならなかった。

サミー・チェンの歌、というのは大黒摩季の『チョット』のカバー、『Chotto等等』のことだ。広東語カバーなのに、サビでは「チョットマッテヨ」と日本語のフレーズが連呼されている。これを聴いていたからアラウォンは「ちょっとまって」という言葉を瞬時に理解できた、という演出だ(→この歌については「女人的弱點: 次世代の歌姫候補たち 【香港カントポップ概論:1990年代②】」)。

ガッキーの登場によりアラウォンは戦意を喪失し、これにより小説はお開きになる。

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こんなふうに、とにかく最近の香港の文学は破茶滅茶でおもしろい。

といっても一昔前に流行った金庸の武侠小説や、近頃ちょっと注目されている推理小説やSF小説みたいな本格派の小説の話ではない。たぶんそういう小説に橋本環奈は出てこない。

何が飛び出すかわからない破天荒なおもしろさを秘めてる(と私が思う)のは、近頃流行しているライトノベルやらエッセイやらの軽めの文学のほうだ。

こういう文学には一つの共通点があって、それは広東語で書かれていること。『降頭師之日常』も、セリフの部分は全て広東語のまま書かれている。

当たり前だと思うかもしれないけど、これは実は革命的にすごいことなのだ。

中国語の一種である「広東語」は言わずとしれた香港の共通語なわけだけど、基本的には口語であって、もともと書き言葉ではない。口を開けば広東語を話す香港の人々も、作文をしたり書類を作ったりするときは、基本的に台湾や中国で使われているのと変わらない文章語である「書面語」で書く。

大衆紙の記事やあるいは広告なんかに文字表記した広東語も使われないわけではなかったけど、正式ではない印象がある。いわゆる広東語ポップス=カントポップだって、書面語で書いた詩を広東語発音で歌っているだけで、口語の広東語で歌われているわけではない。(→「你唔愛我啦:新広東歌運動 【香港カントポップ概論:2000年代〜②】」

だからこれまでの香港の小説というのも、金庸の武侠小説や比較的最近日本でも話題になった陳浩基の『13・67』なんかも、中国や台湾の人もそのまま読むことができる書面語で書かれている。

ところが最近の香港では、ネット発の小説・エッセイを中心に、喋るままの広東語で書かれた本が本屋に多く並ぶようになっている。これらの本はたいていSNSなどで連載されて人気になった後にローカルな出版社によって書籍化されたもので、内容も装丁も若者向けになっている。

客観的な根拠は出せないけど、本屋では新作がしっかり平積みにされていたり、一部の売れっ子作家はアイドル的な人気があったりして、この手の本はそれなりに人気らしい印象がある。

言文一致が既に当たり前に成し遂げられてしまっている日本からすると想像しづらいかもしれないけど、これはなかなかにヤバい現象だ。


第一に、もはやこれは、遅れてきた香港版「文学革命」なのかもしれないのだ。

中国では長らく、私たちも日本で「漢文」として学ぶ古典的な漢語「文言」が正式な書面語として使われていた。でも今から100年ほど前、ナショナリズムの高まりの中で魯迅やらが頑張って、知識人だけでなく国民全員が理解可能な口語「白話」で文学を書こうという運動を行った。これにより文言に変わって白話が文語の主役になり、何千年も続いてきた中国の書記言語のシステムがひっくり返ってしまったから、「文学革命」とも呼ばれている。

中国史というくくりの中ではこれで言文一致が達成されてめでたしめでたしなのだが、ここで注意しなければいけないのは、この新しい文語として定着した「白話」はあくまで北京を中心とする北方の口語だったことだ。それとは全く異なる方言を話す地域、例えば広東語を母語とする広東の人々にとっては、それは結局のところ自分たちの日常語とは異なる別の言語に過ぎない。文語と比べれば習得が簡単になったとはいえ、これらの地域では言文不一致の状況は根本的には解決しなかった。

だから今流行しつつある広東語文学は、100年越しに広東語地域に言文一致をもたらす「ネオ白話運動」なのかもしれない。元祖白話運動の背景に中華ナショナリズムの勃興があったのと同様に、今回の運動にもきっと近年高まりつつある強い「香港人」意識とも無関係ではない。ベネディクト・アンダーソンがナショナリズム分析の古典『想像の共同体』で書いたように、口語文学は国民国家を作り出す重要なアイテムの一つだった。

昨今の香港で、特に若者の間で強く支持されるナショナリズム的なアイデンティティ意識のことを「本土主義」と言ったりするけど、広東語文学はまさに「紙上の本土主義」と言えるかもしれない。

そういう意識についてどう思うかは政治的立場によるだろうけども、いずれにせよきっと今の香港を理解するには欠かせない社会現象であることは間違いない。


第二に、これは香港における全く新しい文化消費の形を示しているかもしれないのだ。

香港は狭い。面積的には東京23区の2倍くらいらしいけど、山がちなので宅地開発可能な地域はもっと狭い。そんな狭い場所に人がギュウギュウに詰め込まれているけど、それでも全人口は700万人ほどしかいない。

だから映画にせよ、音楽にせよ、香港のポピュラーカルチャーは常に外の世界に、特に同じ中国語圏である台湾や東南アジア華人世界、そして中国大陸に市場を持つことで成長してきた。

これは島国とはいえ1億人の人口を抱え、内需だけで存続する「ガラパゴス化」が可能な日本とは大きく違うところだ。

近年では桁外れの人口を持つ大陸市場の影響力が強まる中で、香港音楽/映画の大陸依存もますます進んでいるから、もはや香港文化が「香港らしさ」を失ってしまったという声も内外から聞かれる。

「香港の中だけでは食っていけない」のなら、それもしょうがない。

でも、今流行しつつある広東語文学は、香港の中で地産地消される文化だ。書面語で書いている限り他の地域でそのまま翻訳なしに読んでもらえるけど、広東語で書いてしまったらいくら同じ漢字で書かれているとはいえ、広東語が話せない人にはほとんどさっぱりわからないはずだ。だから香港以外では売れなしい、たぶんそもそも売られてもいない(と思う)。

にも関わらず、これらの文学の担い手は、ある程度香港市場だけで「食っていけて」しまってる。音楽や映画と比べれば制作コストがかからない文学だからかもしれないけども、外への展開は必ずしも香港文化の唯一の生存の道ではないことを、この新しい流行は示している。

そんな地産地消の文学には、書面語で書かれた国際文学とは違って、香港のローカルな題材が遠慮なしに描かれている。ハナから海外展開を期待していないから、翻訳不可能な広東語の俗語表現や言葉あそび、それにローカルなあるあるネタが満載で、その辺がたぶん新鮮で共感を呼んでるんだと思う。世界的に受けやすい武侠小説や犯罪小説、SF小説なんかにはもちろんそれぞれのよさがあるだろうけど、やっぱり身近な喜怒哀楽を取り上げてくれた本を読みたい気持ちは誰だってあるはず。

そういうわけで、一切外国人が読むための配慮はされていないから、言語面以外にもなかなかにハードルが高い(だから基本的に翻訳もされていない)。

けど逆に言えば、今の香港について知りたい人にとってはまたとない教材になる(はず)。これがこういう文学に注目すべき第三のポイントだ。

おまけに実は、私たち日本の人々は、実はこういう文学を楽しむにはとても有利な立場にいる。なぜならガッキーや橋本環奈をはじめ、日本の芸能人やらポップカルチャーやらの話がしばしば登場するからだ。

少し前、人類学者のゴードン・マシューズという人が、香港の消費文化のことを「文化のスーパーマーケット」と呼んだことがある。自由貿易港である香港には世界中の商品が流れ込んでくるわけだけど、それだけでなく世界中のポップカルチャーも同時に入ってくるから、香港の人々はまるでそれをスーパーマーケットで買い物をするように選び取って消費してきた、という意味だ。国際的な大衆文化を消費することそのものが、香港の人々のローカルな文化経験になってきた。

この香港の「文化のスーパーマーケット」の中で、とりわけ人気の商品のひとつがおとなり日本初のドラマや音楽だった。

最近でこそ政府も「クールジャパン」なんていうことを言い出して、世界で消費される日本のサブカルチャーが注目されたりしているけど、香港ではもう何十年も前から日本のポピュラーカルチャーがほぼリアルタイムで消費されてきている(→「日本娃娃:カントポップとニッポン 【香港カントポップ概論:1980年代③】」)。

日本の人々の思う「香港の芸能人」の印象は今もまだジャッキー・チェンとアグネス・チャンのままみたいだけど、香港人が思う「日本の芸能人」は、80年代の「西城秀樹」と「中森明菜」から90年代の「廣末涼子」と「木村拓哉」を経て、00年代以降の新垣結衣や石原さとみに至るまで、着々とアップデートされ続けている。

だから今の香港の小説にも突然、何の説明もなしに「橋本環奈」が登場することが可能なのだ。

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こんな風に実はいろんな意味で楽しめる香港広東語文学なのだけど、いかんせんどローカルで特定の年齢層に偏った楽しみなので、多分日本で紹介されることはほとんどない。だからこれから少しづつ、特に個人的に気に入ったものを簡単に紹介して行きたいと思う。

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