【未定義的衝撃:Mirror現象と国安法時代の香港カントポップ】 序:暗い時代に歌う歌
ナチス時代に亡命生活を送ったドイツの劇作家ブレヒトは1939年の詩集の中でこう書いた。
彼が生きた時代がどんなに暗いものだったかは、間接的に想像するしかできないし、それを現代と比較することが適切なのかどうかはわからない。
けど最近の香港の様子を見ていると、この「暗い時代」という言葉をついつい思い浮かべてしまう。
2020年6月末に制定された国家安全維持法(国安法)によって、香港には大きな変化が生じている。民主化運動は弾圧され、選挙制度も変わり、映画ですら「国家安全に利する」ものかどうかを基準に判定されるようになった。返還後の香港に未曾有の変化がもたらされたこの1年、報道を通じて見ているだけでも重苦しい気持ちになることがしばしばあった。
これはたぶん私だけの感覚ではない。
香港のネットメディア『立場新聞』がこの年末、読者にカラーピッカーの中から「2021年の感覚を表す色」を選んでもらう企画をやっていたが、最も多くの人が選んだ色は「#000000」すなわち、真っ黒だった。
こんな暗い時代の香港で、それでも歌は歌われているだろうか。
歌われているのだ。
それも、どういうわけか、とびきり明るい歌が。
* * *
2021年の香港では「Mirror」という男性アイドルグループが爆発的人気を獲得し、チャートを席巻した。
Mirrorは2018年、ViuTVという香港のテレビ局の公開オーディション番組『全民造星』をきっかけに誕生し、同年11月にデビューした香港の12人組男性グループだ。デビュー当初は2019年のデモ、翌年の新型コロナ禍といった一大事もあってか、さほど注目されなかった。だけど2021年に入ると一躍大ブレイクし、追っかけファンが爆増するなど社会現象となった。
彼らの流行は海外メディアの注目も集め、日本でもちょこっと報道されたり、紹介されたりしていた。アメリカの『New York Times』も今年の8月に「このボーイバンドは香港が今まさに必要としている喜びだ」と題された論考を掲載している。
一体、何が起きたのだろうか。Mirror現象とはどんなものだったのだろうか。
それは、国安法時代の香港のポピュラー音楽業界のあり方について、あるいは「暗い時代」における歌の役割について、何かを示しているのだろうか。
そこで本連載では、Mirror現象を中心として、2021年の香港音楽業界をざっくりと振り返ってみたい。
* * *
このnoteでは、かつて「カントポップ」と呼ばれる香港の広東語ポップスの歴史をまとめる連載をしたことがある。本連載もその延長として、カントポップの歴史の中にMirror現象を位置付け、比較しながら考察することを目指している。
だから、Mirrorファンのみなさま、あるいはMirrorがちょっと気になっているみなさまに、Mirrorの魅力を共有することを主な目的としているわけではない(もちろん何らかの形で魅力が伝わってくれればうれしいけれど)。
また、Mirrorが「なぜ」売れたのかを明らかにすることを目指すわけでもない。
彼らが売れたのは、(多くの香港人にとって)彼らが魅力的だったからであって、それ以上でも以下でもない。なぜ彼らが魅力的に思えたかについては、たぶんファンそれぞれの理由があるから、それを調べるのは難しい。というか、少なくとも今の私の立場と力量では無理だと思う。
私はMirrorのファンと言えるほど熱心に彼らを追いかけてきたわけではないし(そこそこ夢中になっていることは否めないのだけど)、また、かれこれ2年以上香港に行けていないので、現地でMirror現象を感じたり、ファンの熱意に直接触れたりすることはできていない。あくまでメディアでの報道などを通じて、間接的にこの現象を見てきた立場だ。
だから、どちらかというと自分と同じような立場の人や、あるいは香港やMirrorをあんまり知らない人に対して「Mirror現象ってこんな風だったみたいですよ」「2021年のカントポップ業界ではこんなことが起きてたみたいですよ」ということをざっくりとお伝えすることを目指している。
その点、「鏡粉」(Mirrorのファン)のみなさまにはご理解いただきたい。
そして、Mirrorがちょっと気になってこの記事にたどりついてくれた方には、ぜひともまずMirrorや、Mirrorのそれぞれのメンバーの楽曲を聞いてみてほしい。たぶん、彼らの魅力は、それで伝わる人には十分に伝わるんじゃないかと思うから。
またMirrorの成立の経緯や各メンバーのプロフィールなどについては、C-POP研究所さんのこちらの記事がとても参考になる(なんで流行ったのか、という本連載ではあまり扱わない点もしっかりと考察されている)。
さらには熱心なファンが日本語で情報発信するサイトを作ってくれているようなので、興味のある方はそちらも参考にしてほしい。
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といっても、個人的な思い入れを語らないのも寂しい気もするので、この序文の終わりに私の好きな曲2曲のMVを貼りつつ、ちょっとだけコメントしておこう。
姜濤 – 蒙著嘴說愛你(マスク越しのアイラブユー)
全メンバーの中でトップクラスの人気を誇る姜濤(キョン・トウ)のソロ曲。新型コロナ禍の真っ只中の2020年4月にリリースされた応援ソングである。
「ふーん、Mirrorって流行ってるんだ、なるほど確かにイケメンかもね」程度に思っていた私は、はじめてこのMVを再生した時にすっかりやられた。何にやられたのかはよくわからないのだけど、なんとか言語化を試みると、韓国アイドルっぽい雰囲気のイケメンが香港の街中を歩き(まあ厳密に言うとこのMVの中ではバーチャルにモニターの中で歩いているだけではあるのだが)、しかも広東語で歌っている様子が新鮮で心打たれたんだと思う。
なんてったって、自分が歩いたことのある街を歩き、自分が話すのと同じ言語をしゃべってるのだ。だからものすごく今時っぽいのに、香港的で親しみやすくもある。そのギャップが彼らの魅力なんだと個人的には思った。大袈裟な言い方をすれば、異国のプリンスが突然地元に転生してきたような感じというか。
香港のMirrorのファンたちも最初に彼らに惹かれたきっかけは似たようなもんなんじゃなかろうかと想像している。もっとも彼らにとって香港は故郷だし、広東語は母語だし、思い入れは当然私よりも更に格段に強いわけだけど。
盧瀚霆 – 不可愛教主(教祖様は愛せない)
姜濤と並ぶ人気メンバーである盧瀚霆(アンソン・ロー)のソロ曲。この曲にもやられた。イントロのアコースティックギターの旋律から英語まじりのサビまで、全体になんともいえない韓国ドラマの挿入歌味が漂っている。
歌詞もとても良く、ありがちなラブソング風だけど、実はファン心理を歌っているようにも読める(そもそもタイトルの「教主」は、ファンがアンソン・ローを呼ぶあだ名でもある)。
Mirrorの楽曲の歌詞は、これまでカントポップの業界で活躍していた作詞家によって書かれている。だからサウンドやスタイルの点ではK-Pop風だったりして旧来のカントポップらしからぬ要素もみられるのだけど、歌詞世界の点では既存の香港音楽との連続性もしっかりとある。その辺りも彼らの魅力なんだと思う。
このアンソン・ローはドラマ『おっさんずラブ』の香港版『大叔的愛』への出演をきっかけに大きく注目されるようになった。本連載のタイトルにも入れている「未定義的衝撃」は、このドラマの主題歌『突如其來的心跳感覺』(突然のトキメキ)の歌詞の一節からとっている。
ドラマ的には突然同性に恋心を覚えた人の狼狽を歌った歌詞なんだろうと思うけども、もしかしたら香港にとってのMirror現象も、突然で、予想外で、どう受け止めたらいいかわからないような「未定義の衝撃」だったんじゃないかと思うのだ。
香港社会が前代未聞の変化を経験するこの時代に現れた前代未聞のアイドルであるMirror——その「未定義の衝撃」をカントポップの歴史の中に位置付け、検証するのがこの連載の目的である。
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目次「未定義的衝撃:Mirror現象と国安法時代の香港カントポップ」
はじめに:暗い時代に歌う歌 ←今ココ
(1)歌だけは残った:統計から見る2021年の香港音楽
(2)12人のイケメンたち:パロディから見るMirror現象
(3)青い鏡と黄色い鏡:Mirrorと(脱)政治
(4)香港の歌手は死んだのか:ニュースターたちの誕生
(5)それじゃあ、またな:表現の不自由と社会風刺
おわりに:「鏡」に映るもの
[バナー画像出典:am730(CC BY)に基づき筆者作成]
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