それじゃあ、またな:表現の不自由と社会風刺 【未定義的衝撃:Mirror現象と国安法時代の香港カントポップ(5)】
2021年の香港は、暗い出来事が多かった。
でも一方で不思議なことに、Mirrorの流行に代表されるような、明るい話題も並行して注目を集めていた。
そんな1年を象徴する1曲を選べと言われたら、私は迷わずMC $oho & KidNeyの『係咁先啦』(それじゃあ、またな)を挙げる。この歌には、そんな2021年の香港の矛盾した喜怒哀楽が詰まっているような気がするからだ。
2021年7月に投稿されたYoutubeの公式MVが執筆現在で450万回以上再生されており、SpotifyやKKBOXの年間再生数トップ20にも入ったヒットソングである。
この曲にはMC $oho & KidNeyの他に「Kayan9896」という女性歌手がフィーチャリングされている。彼女は吳家忻(ン・カヤン、”ジーニー”)という名前のモデルで、別に歌手として著名な人ではないが、爆発的にヒットしたこの曲がきっかけで有名になり、最近ソロ曲を出したりしている。
余談だが、モデルとしてのカヤンは、Mirrorのメンバー陳卓賢(イアン・チャン)が2021年3月に出したソロ曲『DWBF』のMVにも出演していたりする。
(ちなみに今回の記事のMirror要素はこれだけだ。Mirror特集なのにごめんね。)
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飲み会から帰れない人の歌
MC $oho & KidNeyについては、『Black Mirror』を取り上げた本連載の2つ目の記事で既に述べた。Youtubeに動画投稿を行うクリエイター集団「試當真」(Trial and Error)の一員として活動する二人である。2021年7月に発表したこの『係咁先啦』で、ラップデュオ「MC $oho & KidNey」としての活動をスタートさせた。
ラップと言っても、彼らのラップは本格的なヒップホップというよりは、ユーモラスなコミックソング的側面が強い。香港ポピュラー音楽史でいうと、初代ヒップホップグループとされるLMFよりも、90年代にコミカルなラップ調の楽曲で人気を博した2人組、軟硬天師(Softhard)の系譜だろう。
(LMFと軟硬天師については以下の記事で少し取り上げている)
今年9月に発表された『跌嘢唔好搵』(落としたものを探さない)のMVを見てもらえば、この二人のゆるくてコミカルな雰囲気はわかると思う(途中からは何故か「落としても〜のを」と、ちょっと変な日本語の歌詞も入っている。)
今回とりあげる『係咁先啦』でも、パーティ(飲み会)から帰りたいのにみんなから引き止められてしまい、なかなか帰らせてもらえない主人公の心情がユーモラスに歌われている。
(ViuTV『Chill Club』での歌唱。)
楽しく飲んでいたら、そろそろ終電の時間になってしまった*。今帰らないと、嫌いなバスに乗って帰らなければならない。タクシーで帰るには大金がかかる。ミニバスなら安く済むが、乗り換えが面倒だ。
(*MC $oho & KidNeyのふたりが住んでいるのは屯門という香港でも市街地から遠く離れた郊外である。なのでたぶん他の仲間たちより終電が早い。この歌の中でもN259という屯門へ向かうバスの路線が言及されている。)
「それじゃあ、またな」と別れを告げつつ、主人公は席を立とうとする。
しかし周りは「いやいや」「仲間だろ」「楽しくないのか?」と引き止めてくる。
「楽しいよ、でも行かなきゃだから」と答えつつ、主人公は何とか引き止められない言い訳を探そうとする。
でも、そんなうまい言い訳も思いつかず、最後は友人たちの手を振りほどいて外に飛び出す主人公だったが、いざ会場を離れるとどこか後悔も湧いてくる。
結局、主人公はもう一度飲み会に戻ることにする。
しかし、そこで彼を待っていたのは、悲しい現実だった。
別に誰も彼が帰ってくることなど求めてはいなかったのだ。
この『係咁先啦』は、こんな「飲み会あるある」を歌ったとても笑える歌だ。
* * *
こんな歌が流行ったわけ
だが、ただの「飲み会から帰りたくても帰れない男」を歌った歌だったら、たぶんYoutubeで450万回以上再生されることはなかったはずだ。
この曲は、よくよく聞いていると、実は飲み会ではなく全く別のシチュエーションを歌っているのではないか、と思える仕掛けになっている。
何とかこの場所を出て行かなければ。でもここには友人たちもいて、思い入れもあり、簡単には離れられない。それに出て行くなんて、周りの人たちにどう切り出したらいいのか。ここが嫌いなわけじゃないし。言い訳を探そうにも思いつかない。でもそれでもやっぱり出て行かなければ。
一度はなんとか決心したものの、友人たちを思い浮かべるとやっぱり決意が鈍る。彼らを置いていくのは申し訳ない。彼らのためだと思って、もう少しここにいることにしようか。
出て行ったとして、もう一度戻ってきた時、ここはどうなっているだろう。戻ってきた自分を、みんなは昔のように受け入れてくれるだろうか……
なんとなく想像がついただろうか?
この「飲み会から帰れない」主人公のジレンマは、香港を離れて他の地域に移民するべきかどうか悩む人々の逡巡とピッタリ重なるものだったのだ。
MC $oho & KidNey本人も、のちにBBC中国語版のインタビューの中で、実際にそのような意図を込めた歌だった、と種明かししている。
香港では、国安法の制定後、変わり果てた香港に見切りをつけ、海外への移民を選択する人が増えているとされる。こうした香港から海外への「移民」ブームは、これまでも返還前などに一定規模で起きていた。しかし、以前のブームの原因が比較的漠然とした将来の「中国化」への恐怖にあったとすれば、今回はその恐怖は間違いなく現実のものだろう。特に2019年のデモに関わった人々の中には、香港に残れば逮捕されるかもしれないという危惧もある。
香港政府の発表によれば、2021年の年央人口は739万人で、前年同時期の748万人から大幅に減少した。自然増・自然減などを除いて算出しても、この1年間で9万人近い人口が流出しており、単純計算で1日あたり平均250人が香港を離れた計算になる。もちろん、この全てを政治的理由を要因とする移民だとは決めつけることはできないけど、世界各国が感染症対策を理由に人の移動を制限していた時期であり、気軽に旅行や留学や転勤ができる状況ではなかったことを思えば、この数字の意味するところは非常に大きいと言えるだろう。
一生戻らない覚悟で、家族と友人を置いて香港を離れる決意をする人々の心情、そしてそれを見送る後に残された人々の心情は、どれほどのものだろうか。
私には想像することしかできないが、ともかくこの『係咁先啦』は、そうした香港人の移民をめぐる思いに焦点を当てた歌として話題を呼び、ヒットしたのだ。
今度があれば、な
よく聞けばあちこちにヒントは隠されている。
たとえば、この曲の終盤、「Kayan9896」をフィーチャリングした歌パートでは「回程」(帰りの旅程)など飲み会とは関係なさそうな言葉が出てくる。
MVのサムネイルにもなっているこの楽曲のジャケットにも、MC $oho & KidNeyとKayan9896の3人の頭上に大きく飛行機が描かれている。
また、この歌に繰り返し出てくる「走」という動詞は、日本語では「帰る」「離れる」のどちらにも翻訳可能な多義的な言葉である(「逃げる」の意味もある)。
「走先喇」は、他の人より先に帰ろうとする人が使う定型的表現で、日本語にするなら「先に帰るね」あるいは「お先に失礼」などと訳すのが自然だと思う。
でもこの原義としてはあくまで「先に離れるね」なので、香港を離れようとしている人の言葉として解釈することも可能である。
こうした多義性を残すために、この記事ではここまで一貫して、(飲み会から帰りたがっている人が口にする日本語としては若干違和感があることを承知で)「走」は「行く」、「走先喇」は「俺もう行くわ」と訳してきた。
隠されたテーマについての種明かしをしたところで、もう一度歌詞を見てほしい。
曲の冒頭からフックとして繰り返されるフレーズで、すでに上でも一度訳出したものだが、あらためて見てみると大きく印象が変わって見えてこないだろうか。
* * *
暗い時代のユーモアとメタファー
この曲を2021年の香港を代表する楽曲としてとりあげたかった理由は2つある。
ひとつは、この楽曲がユーモアのなかに悲しい題材を見事に融合させた作品だからだ。ユーモアには、そのままでは口にするのも憚られるほど深刻なトピックも軽快に語らせてくれる力があると思う。
この歌も香港からの脱出というとても重いテーマを扱っているのにもかかわらず、「飲み会からなかなか帰れない男の歌」という表面上のコミカルなフォーマットもあってか、不思議と軽い気持ちでも聞ける。
意味を知った上で聞くと、クスッとしつつ涙も出てくるような、不思議な歌だ。
香港の多くの人が、これまでにないほど泣き、怒り、落胆し、そして束の間の幸福や笑いをエンタメの世界に求めたこの1年にふさわしい1曲だと思う。
もうひとつの理由は、この歌が、政治的に困難な状況の中での社会風刺の可能性を示していると思ったからだ。
国家安全を脅かす行為の「扇動」も禁止している国安法により、香港では言論そのものが取り締まりの対象になった(参考:廣江倫子、阿古智子編『香港 国家安全維持法のインパクト:一国二制度における自由・民主主義・経済活動はどう変わるか』日本評論社、2021年)。
しかしダブルミーニングを活用したこの曲を見ていると、言葉を取り締まるという試みは、現実にはとても難しいものだろうと思う。
この歌の中に国安法違反で取り締まれそうな文言は特に見当たらない。なんてったって表面上はただの「飲み会からなかなか帰れない男の歌」でしかないのだから。
政治的な言葉はおろか「香港」という言葉すら一度も出てこないのだ。
でもこの歌は、それを聞く人々に、表面上の歌詞とはまったく違う言外の意味を感じさせることに成功した。歌詞には移民という言葉も、空港という言葉も、飛行機という言葉も出てこないのに、なぜかこの歌を聴く人は、空港で友人や家族に別れを告げ、飛行機に乗り込んで香港を離れようとする人々の気持ちを想像する。
この連載では、前々回の記事で、一見抽象的に見えるMirrorの歌についても民主化運動に引きつけた解釈がされ得ることを見てきた。言語の多義性や、それを文脈に合わせて解釈する人間の能力は、常に為政者の取り締まりの意図を越えていくものだろうと思う。たとえある言葉が禁止されたとしても、その言葉を一切用いずに同じ意味を表現することはきっと可能である。
たとえば国安法が導入され「光復香港、時代革命」という8文字が禁句となった時、香港の路上に8枚の白紙を掲げる人々があらわれたように。
国安法時代の香港では、直接的なプロテストソングを作るのは難しくなるだろう。
でもそれは必ずしも、香港から社会派の歌が消えることは意味しないはずだ。
香港の音楽も、それが持つ政治的機能も、まだきっと死んではいないのだ。
* * *
目次「未定義的衝撃:Mirror現象と国安法時代の香港カントポップ」
はじめに:暗い時代に歌う歌
(1)歌だけは残った:統計から見る2021年の香港音楽
(2)十二人のイケメンたち:パロディから見るMirror現象
(3)青い鏡と黄色い鏡:Mirrorと(脱)政治
(4)香港の歌手は死んだのか:ニュースターたちの誕生
(5)それじゃあ、またな:表現の不自由と社会風刺 ←今ココ
おわりに:「鏡」に映るもの
[バナー画像出典:am730(CC BY)に基づき筆者作成]
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