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「香港のことが、死ぬほど好きなんだ」

国家安全法が導入された7月1日の香港の街頭に「我哋真係好撚鍾意香港」というバナーがあらわれた。「私たちは本当に香港のことがとても好きなんだ」という意味だ。

広東語を少しでも学んだことのある人ならわかる簡単な文章だと思う。

「我哋」が「私たち」、「真係」が「本当に」、「好」は「とても」という強調で、「鍾意」は「好き」。「香港」はもちろん「ホンコン」だ。少しクセモノなのが、真ん中の「撚」という文字だろう。これは「粗口」といって、もともとは性的な意味を持つ言葉を強調の意味で使っている。英語で言うところの「Fワード」のようなものだけど、日本語にはあまりない言葉遣いだから、たとえるのが難しい。要するに「死ぬほど好きなんだ」「好きなんだっつーの」と言うような、少し荒々しく感情を表現するような表現になっている(のだと思う)。

それにしてもこの言葉が街頭にあらわれたのは一体どういう意味だったのだろう。

まずこれは明らかに政府に向けた要求や批判のようなものではない。

かといって対外的なプロパガンダでもないだろう。そもそも口語の広東語で、しかも翻訳の難しい「粗口」を使った表現なので、香港の人以外でこのバナーの意味がすぐにわかる人は少ないだろうと思う。

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ある社会や文化について、その「内部」の視点から理解することを目指す文化人類学の研究者(の端くれ)として、昨年から続く香港のデモについて興味深く観察していたのは、こんな外部の人にはとうてい理解できないような広東語や香港事情への高度な理解を前提とするスローガンやシンボルがたくさん作られたことだった。

運動の対外的なプロパガンダという点では、そういう「ハイコンテクスト」な記号にはほとんど意味はないはず(だって外の人には伝わらないんだから)。それにも関わらず、そういうものが量産されたのはなぜなのだろうと思ったのだ。

そういうメッセージは当然、それを理解できる身内に向けられていたはずだ。それは政府に何かを要求したり、海外に助けを求めたりするようなものではなく、仲間同士に呼びかけあい、結束を再確認するものだったはずだと思う。そんなスローガンやシンボルには、「香港人」であること、「香港」という共同体に向けられた思いを感じることができる気がする。

香港の活動家が対外的に、英語や北京語や(時に日本語も)駆使して語るよそ行きな言葉からだけではなかなか見えてこないけど、この「死ぬほど好きなんだ」という言葉が表すような香港への愛が、あの熾烈な抗議運動の大きな原動力だったはずだと思う。「民主」と「自由」のある国が(あるいは少なくともそれを自認している国が)彼らを難民として受け入れたところで、彼らの愛着は報われるだろうか。

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そんな内輪向けのスローガンの力を私が感じたのは、去年の9月、太子駅の追悼現場に足を運んだ時のことだった。この駅では、8月31日、警察による強制排除で死者が出たのではないかという噂があった。封鎖された駅の出口は死者を弔う品々と人々が思いを書いて貼り付けた付箋でいっぱいになっていた。私が訪れた夜も大勢の人が周りにいて、涙をぬぐいながら献花をしたり、祈りを捧げたり、その様子をただじっと見守ったりしていた。

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その時、路上の一人が突然「光復香港」(香港を取り戻せ)と声をあげると、あたりの人々が「時代革命」(時代の革命だ)と叫んだ。そのコール&レスポンスはどんどん大きくなりながら繰り返されていった。

この駅の「死者」の実在について、正直なところあまり信じていなかった私は、あくまで部外者、傍観者としてその場にいたつもりだった。「光復香港、時代革命」のスローガンも既にネット中継を通じて何度も耳にしていた。でもこの掛け合いがその場に生み出す熱気というか一体感のようなものには思わず心が震えた。

危険な反政府運動に身を投じるデモ隊やそれを支持する人々の間の強固な団結は、単なる抽象的な自由や民主への希望だけではなく(ましては体制派が言うような”アメリカの金”ではもっとなく)、こういう現場で叫ばれる「言葉の力」によっても作られ、そして保たれているものなのだろうと感じた。

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国家安全法下では、「光復香港、時代革命」という言葉をかかげたり叫んだりすることや「8月31日の太子駅で警察は人を殺した」と言うことすら処罰の対象になりうるという。香港は、政府が言葉の意味や意図を管理し、その力を規制する時代に入ったようだ。それほどにこの1年の香港では、言葉が大きな力を持っていた。政府もその力を正しく認識している。

でも政府に何か誤算があるとすれば、この1年間香港に溢れた自由な言葉たちは、既に消し去りがたい連帯感、一体感を人々の間に植え付けてしてしまったということだと思う。

いま香港では、この禁止された「光復香港、時代革命」という言葉を表す暗号が次々生まれている。たとえば下の図のように漢字を極端に抽象化したものや、違う音の別の漢字で置き換えたものやら、アイデアは無限だ。

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白紙の紙を8枚掲げているこの写真のように、空白すら暗号になり得る。人々の間に既に共通の認識がある以上、どれほど抽象化されていようが、白紙であろうが、そこに表現された言葉がしっかりと「読めて」しまうのだ。

こんな今の香港の様子を見て、私も研究をしっかりと続けて、こういった人々の営みを今後も見つめていこうと思った。そう思うのは、別に何か具体的な政治的意図があるわけでもなく、学術的な野望が強くあるわけでもないけれど、とにかく私もこんな「香港のことが、死ぬほど好きなんだ」からなのだろうだと思う。

(バナー出典:BC, ML, Sakamoto for Studio Incendo [CC BY 4.0])





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