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見る場所を見る——鳥取映画小史③

2022年1月24日(月)〜1月30日(日)にかけて、ギャラリーそらで行う展覧会「イラストで見る、鳥取市内の映画館&レンタルビデオショップ史」の解説文(会場に設置予定)を、5回に分けて掲載します。

第1章「劇場と活動写真(1898〜1936)

第2章「戦争・災害からの復興(1937〜1958)

第3章 テレビの登場と自主上映ブーム(1959〜1982)

 市内に九館が並立し、戦前を超えるほどの活況を呈していた鳥取映画界に、テレビが新たな「撹乱」をもたらしました。1959(昭和34)年3月に日本海テレビとNHK鳥取放送局、同年12月にRSBテレビ(後の山陰放送)が開局。テレビの普及により、各家庭で気軽に映像が見られるようになると、映画館は一気に苦境に陥ります。1961(昭和36)年8月にスパルが閉館。昭和37年11月28日には立川映劇大森映劇が休館となり、九館時代は六年ほどで終わりを迎えました。

 挽回を図る映画館は、冷暖房の完備やオールナイト興行を組むといった工夫をしたり、テレビとの差異化を図って、残酷ものやヤクザ映画、ロマンポルノ、マカロニウエスタンなど過激な暴力とセックスの世界に活路を見出そうとしましたが、相変わらず苦しい経営が続きます。1969(昭和44)年6月には日ノ丸劇場が閉館。すでに映画業界の斜陽が囁かれていた1961(昭和36)年12月に最新設備を揃えて開館した栄楽館も、約10年後の1972(昭和47)年6月に閉館しました。

鳥取東映_仁義なき戦い

新聞広告にも過激な文言とイメージが並ぶようになる
(『日本海新聞』昭和48年5月6日)

 1970(昭和45)年、上映機会の少ない多様な作品を上映して鳥取の映画文化を盛り上げるべく、清水増夫さんが代表をつとめる「アートシネマ鳥取グループ」が結成されました。さらには同団体に触発されるように自主上映グループの結成が相次ぎ、自主上映ブームが到来。清水さんは鳥取映画村NPO法人とっとりフィルムコミッション鳥取コミュニティシネマと団体名や運営体制を変えながら、2022(令和4)年現在も精力的に自主上映活動を続けています。

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清水増夫氏
(インタビュー「文化のための映画制作支援」より)

 他方、1970年代に存在感を放った映画館は鳥取映劇です。1956(昭和31)年の開館当初は日活系でしたが、すぐさま洋画専門に方針転換。火災による全焼などの苦難に見舞われながらも、粘り強く興行を続けてきました。その後、1972(昭和47)年に『ゴッドファーザー』、1975(昭和50)年末には『ジョーズ』が大ヒットして洋画人気が高まり、鳥取映劇にも幅広い年齢層の観客が詰め掛けました。配給収入も初めて洋画が邦画を逆転し、「洋高邦低」と言われるようになります。

まるもビルweb

まるもビルの広告
(『日本海新聞』昭和54年7月29日)

 1979(昭和54)年7月29日には鳥取駅近くにまるもビルが建設され、鳥取東映鳥取東映劇場鳥取東映パラス劇場として興行を再開(後に鳥取東映シネマ1・2と改称)。角川アイドル映画や長編アニメ映画など、テレビ文化と関わりの深い作品群が人気を集めました。映画館は、最大の宿敵であるテレビと共犯関係を結ぶことで生き残りを図ったのです。1982(昭和57)年前後は邦画も洋画もヒット作に恵まれ、県内の映画館は再び1930年代の映画全盛期を思わせる賑わいを見せました。



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