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「映画による場所論」を再起動する

都市の全域的なリアリティを求めて

 鳥取であれ茨城であれ、沖縄であれ東京であれ、わたしたちは特定の「都市」あるいは「地域」と呼ばれるものを容易に思い浮かべることができる(と信じている)。が、それを具体的に説明しろと言われれば、途端に言葉に詰まってしまう。わたしの頭の中にある「鳥取」は、都道府県や市区町村の地理区分で表せるものではないし、鳥取砂丘や湖山池などの有名なランドマークで語り尽くせるようなものでもない。人口最小県であるとか、新型コロナ感染者数最小県といった説明も、ある一側面を恣意的に切り取っているに過ぎない。

 社会学者の若林幹夫が言うように、そもそも都市を直接見たり経験したりすることはできないのだが、そうであるがゆえに、却って都市は、何かしらの方法で全体像を把握したいという欲望を強く喚起させる場所であり続けてきた(若林幹夫『都市のアレゴリー』INAX出版、1999年、15頁)。若林は、個々人の身体が直接的に経験する「局所的なリアリティ」に対して、直接経験が不可能でありながら、何らかのメディアを媒介として表象され、複数の身体の間で社会的に共有されるリアリティを「全域的なリアリティ」と名づけている(『都市のアレゴリー』12〜13頁)。

 写真家や映画作家もまた、鵺のように掴み所のない都市の全域的なリアリティを捉えてみせたいという欲望に駆られてきた。過去に膨大な数の都市写真や風景写真、都市論的な映画や風景論的な映画が生み出されてきたことを、ここでわざわざ説明する必要はないだろう。だが、個人の身体が局所的なリアリティしか経験できないのと同様に、カメラが一度に記録することができるのも局所的な風景の断片=ショットのみである。たとえドローンや飛行機で空撮を試みたとしても、それはあくまでドローンが見た局所的な風景であり、機内の窓から眺めた局所的な風景であるに過ぎない。都市の全景をまるごと構図に収めれば、それで全域的なリアリティが得られるわけではない。

 「都市と芸術の応答体2020」の座談会で映画監督の三宅唱は、「土木」という語を「土地の形質の変更にかかわる技」として定義しているという建築家・藤原徹平の発言を受けて、土木について考えるためには「ロングショットの想像力」が要求されると述べている。三宅によれば、映像内の出来事やアクションと、その舞台となる空間や土地が不可分に結びついているという認識から生まれるのがロングショットである。だがこの発言に続けて、三宅はすぐさま「もちろん、全てを一度に捉えることはできないので「フレーム外の想像力」というのも同時に要求される」と補足し、その後は「ロングショットとクロースアップショットの想像力の足し算」が土木を捉えるための第一歩になると言い直している。

 一連の発言は、ロングショットの有効性よりもむしろ限界を露呈させているといって良い。土木や土地、あるいは都市や地域といった広大なスケールに挑もうとするとき、カメラがワンショットで捉えられるスケールでは不十分だ。たとえ長回し(ロングテイク)や移動撮影を駆使しても、カバーできる範囲には限界がある。そして写真や映画は、単一の断片=ショットにこだわるのを止め、コラージュやモンタージュといった手法を導入することでスケール不足を補う。複数の断片=ショットを集積して組み合わせたり、テキストや物語を付加することによって、都市の全域的なリアリティを捉えようとするのである。

モザイク状の映画/都市

 そもそも(ほぼ)すべての映画は、複数の断片=ショットを組み合わせて作られているのだが、なかでも都市を表象する欲望に駆られた映画は、その断片性を殊更過剰に強調し、自らの本性を曝け出す。

 例えば『薔薇の葬列』(松本俊夫、1969年)では、新宿、原宿、六本木などの猥雑な風景、ゴーゴーダンスやドラッグパーティーなどの風俗、ゼロ次元や池田龍雄、淀川長治といった固有名が集積され、手持ち撮影やインタビュー映像、早回しやネガポジ反転など多種多様な映像手法を伴いながら矢継ぎ早に映し出される。こうした種々雑多なイメージの奔流は、あらゆるものを無節操に取り込み膨張を続ける都市・東京の姿と相似形を為している。

 あるいは『略称・連続射殺魔』(松田政男、足立正生、岩淵進、野々村政行、山崎裕、佐々木守、1969年/1975年)では、連続ピストル射殺魔・永山則夫の軌跡を辿って、日本列島を縦断しながらカメラを回していく。無慈悲に切り裂かれた風景の無数の断片=ショットが、都市と農村が混在し、従来の秩序が失われたヘテロトピア(混在郷)としての場所のありように重ね合わせられていく(佐々木友輔「郊外映画の風景論 #02 ふたつの均質な風景」neoneo web、2014年4月21日)。

 2002年放送のテレビドラマ『木更津キャッツアイ』(TBS)でも、『薔薇の葬列』のように同時代カルチャーのデータベースから様々なネタをサンプリングし、台詞やギャグ、小道具などに散りばめる戦略がとられているが、そこで集積されるのは、木更津に固有なものというよりもTSUTAYA的なものである(佐々木友輔「房総ユートピアの諸相——〈半島〉と〈郊外〉のあいだで」『半島論——文学とアートによる叛乱の地勢学』所収、金子遊・中里勇太 編、響文社、2017年)。

 すなわち、種類は豊富だが全国一律代わり映えのしない商品が並ぶ「均一な多様性」を示すことによって(若林幹夫「多様性・均質性・巨大性・透過性——ショッピングセンターという場所と、それが生み出す空間」『モール化する都市と社会——巨大商業施設論』若林幹夫編、NTT出版、2013年、198〜202頁)、「完全な〈郊外〉」としての木更津を表象しているのである(宇野常寛『ゼロ年代の想像力』ハヤカワ文庫、2011年、161〜182頁)。

 かくのごとく、映画は己の断片性を際立たせて、モザイク状の都市を描き出す。それはかつての都市のように象徴的な体系を持たず、無秩序で混在的な様相を呈している近代以降の都市のアレゴリーである。両者は強力な共犯関係を築いており、容易に引き剥がせるものではない。

 だがいま映画と都市について思考するなら、まさにこの結びつきこそを疑わなければならないだろう。わたしたちが特定の都市に対して抱く全域的なリアリティは、個々人が日々の生活の中で経験している局所的なリアリティの全体と、その都市についての日常会話や言説、ネット、テレビ、映画、写真、絵画、地図など各種メディアが作り出すイメージが混ざり合い、ときに衝突し、ときに融和しながら形成されていくものである。それゆえ、必然的に次のような疑問が生じる。

 モザイク状の都市というイメージは、現実に都市が断片性を本性とする場所であるから映画でもそのように描かれているのだろうか。それとも、断片性を本性とする映画が作り出したイメージが、わたしたちの都市イメージを方向づけ、別の場所のありようを見えづらくしてしまっているのだろうか。さらに言えば、そもそも映画が断片性を本性とするという前提は正しいのだろうか。断片=ショットを集積するのではない仕方で作られる映画が映し出す都市の姿は、いったいどのようなものだろうか。

解像度と圧縮率のジレンマ

 こうした問いを立てた場合、すぐさま思い浮かぶのは、長回しの移動撮影、編集を伴わないワンシーンワンカットであるが、これらの手法で都市の全域的なリアリティに迫ることの限界は、すでに確認しておいた。

 確かに強力な手ぶれ補正機能を備えたGoProのようなウェアラブルカメラや、手ごろな価格で購入できるスタビライザーの普及は、激しい手ぶれの制約があった移動撮影の自由度を大幅に高め、カメラと都市は新たな関係を築きつつあるように思える。小型・軽量でありながら高精細なウェアラブルカメラによる長回しの街歩き動画は、歩行者視点で捉えた貴重な街路の記録足り得ているし、FPSゲーム的なカメラワークで都市を探索するアーティスト・海野林太郎さんのような興味深い試みもある。

 だが全域的なリアリティという目標設定をしたとき、長回しの移動撮影の課題はやはり時空間の圧縮ができないことにある。無編集を前提として、移動撮影を1km続ければ約15分、100km続ければ1500分もの上映時間が必要になるのであり、とても現実的とは言えない。また仮に長時間の撮影を決行したとしても、記録されるのは瞬間毎の局所的なリアリティのみであり、長尺になればなるほど都市の全体像を一望のもとに見通したいという全域的なリアリティからは遠ざかってしまうだろう。

 ならばGoogleマップのストリートビューはどうだろうか。数百万枚のパノラマ写真を撮影し、それを連続したものとして仮想の地球儀上に配置する。これは膨大に断片=ショットを集積する方向性の極限であり、モザイクを可能なかぎり細かくすることで、断片性を連続性へと転化させる試みである。
 だがストリートビューも、長回しの移動撮影とほぼ同じ問題点を抱えている。用意された数百万枚の写真は、一挙に画面に映し出されるわけではない。ユーザーは地図上の任意の点にペグマン(人型のアイコン)を降ろし、そこからパノラマ写真の世界に足を踏み入れる。進みたい方向に向かう矢印アイコンをクリックして、一歩ずつ前に進んでいく経験は、やはりどう見ても局所的なリアリティに属しているだろう。ひたすら矢印をクリックして歩き続けても、全域的なリアリティに辿り着けないというのも、長回しの移動撮影と同じである。

 このように、断片=ショットの数を増やせば増やすほどモザイクは細かくなり、断片性は連続性へと近づいていくが、そのぶん上映時間も再現なく肥大化していく。反対に断片=ショットの数を減らせば減らすほど上映時間は短くなるだろうが、今度はモザイクが荒くなり、断片性が強調される。高解像度・低圧縮率か、それとも低解像度・高圧縮率かの二者択一を迫られる。

映画による場所論


 以上の考察から、従来の映画とは異なる仕方で都市の全域的なリアリティを捉えるために、クリアしなければならない課題が導き出された。高解像度と高圧縮率を両立させた映画制作の方法を構築すること。すなわち、断片=ショットを集積してモザイク状の都市を表象するのとは異なる仕方で、なおかつ、広大な都市のスケールと対峙しても上映時間の肥大化を食い止められるような時空間圧縮を可能にする映画制作の方法を構築することである。

 今すぐに結論を出すことはできないが、ここからは、この課題に答えるための道具立てを示し、今後の研究と制作の展開を予告しておきたい。

 2011年から2013年にかけて、私は映画を撮ることが場所論を書くことが同義であるような制作=研究の実践として「映画による場所論」を提唱し、長編映画『土瀝青 asphalt』の制作に取り組んだ。足立正生、松田政男、原將人、中平卓馬といった論者の間で議論された70年代初頭の「風景論争」、エドワード・レルフやイーフー・トゥアンらが開拓した現象学的地理学、ヴィヴィアン・ソブチャックによる現象学的映画研究を主な手がかりとして、〈風景映画〉〈場所映画〉という二つの映画制作の図式を作成し、このうち〈場所映画〉のほうを『土瀝青 asphalt』制作のための理論として位置づけた。(佐々木友輔『映画による場所論——〈郊外的環境〉を捉えるために』東京藝術大学大学院博士論文、2013年。および、佐々木友輔「〈風景映画〉から〈場所映画〉へ」『土瀝青——場所が揺らす映画』所収、佐々木友輔、木村裕之 編、トポフィル、2014年)。

〈場所映画〉の実践

 〈場所映画〉の実践のためには、撮影を習慣化し、生活の中に埋没させる必要がある。これには〈場所映画〉構想以前に取り組んでいた「映像日記」(2005〜2008)の経験が役立った。映像日記とは、ジョナス・メカスの日記映画に触発され、毎日1本、10秒から長くて1分程度の短編映像をウェブサイトにアップロードする試みで(現在は非公開)、当初は映像素材のストックや撮影技術の習得を目的としていたが、次第に良くも悪くも惰性化し、身の回りの人や物の姿を素朴に記録するスタイルが定着していった。

 〈場所映画〉の制作を始めてからは、徒歩もしくは自転車などを用いた移動撮影と、ノーファインダー撮影(正確には液晶ディスプレイを見ない撮影)が基本形となった。『土瀝青 asphalt』では、あらかじめ撮影の開始地点と終了地点を定めておき、2点間を移動する中で現れてくる景色をほぼ撮りっぱなしで記録する。安全な移動や、ルートの確認といった意識を介入させることで、「わたしはいま撮影をしている」という意識を希薄化すると共に、長距離かつ長時間カメラを回すことで、事前の計画や意図を超えた予期せぬものが画面に映り込むことを期待した。

2016年に制作した長編映画『TRAILer』では、渡具知ビーチ(1945年の春に米軍が沖縄本島に上陸した地点)から摩文仁の丘(同年6月に沖縄での組織的戦闘が終結した地点)までの現在のルートを辿りながら〈場所映画〉の撮影をおこなった。「基地の島」や「観光の島」など各種メディアが映し出してきたイメージとは異なる沖縄のありようを捉えると共に、そうした既存のイメージ相互の関係や布置を捉えることを試みた。

 凹凸の多い道を歩けば突発な揺動が増加するし、自転車の車輪は土地の起伏を正確になぞって揺動に変換する。長距離の移動撮影を続けていると、サイボーグの身体とその足が踏み締める地面との並行関係が強烈に意識されるようになる。ここで揺動は、身体が「揺れ動いた」記録であると同時に、世界=場所が身体を「揺り動かした」記録でもある。こうした「キアスム=交叉配列」(メルロ=ポンティ)の関係が成立したとき、初めて図式通りの〈場所映画〉が実現する。

「映画による場所論」の再起動

 〈場所映画〉の方法論は、基本的に「撮影」のプロセスに関わるものだった。もう一つの重要な制作のプロセスである「編集」については、具体的な作品制作が先行しており、そこで実践している作業をどう言語化するか、どう理論化するかという問題は長らく手つかずのままだった。

 ブレイクスルーが起きたのは、自作の編集を他者に委ねる経験をしたことがきっかけである。

 2019年初頭、鳥取大学地域学部の学生・井田遥さんが私のゼミに所属することになった。彼女はその前年に実施したある実習授業で、NHK鳥取放送局が1952年に放送したラジオドラマ『津黒城主の最后』(脚本・砂川哲夫)を再現した音声作品の編集を担当し、初めての編集作業とは思えない非凡な能力を発揮した。私はそれを見て、当時制作に取り掛かったばかりだった『映画愛の現在』三部作の編集を委ねてみたいと思ったのだ。井田さんは短期間で驚くほどの実力を身につけ、数カ月でわたしの映画の編集を安心して任せられるまでになった。

 〈場所映画〉という独自の方法で撮られた映像を編集するためには、一般的な映画制作の入門書に載っている内容を伝えるだけでは足りない。私は過去作を例示しながら口頭で編集の手順や注意すべき点を伝えるとともに、パート毎に指示書を作成して細かく編集方針を示した。井田さんとの共同制作は、私がこれまでに培ってきた編集の技術を——感覚的あるいは無自覚的にやってきた部分も含めて——厳密に言語化し、真に他者と共有可能な方法論へと鍛え上げる、またとない機会となった。

 またもう一つの大きなきっかけは、福尾匠さんが「映像を歩かせる 佐々木友輔『土瀝青 asphalt』および「揺動メディア論」論」(『アーギュメンツ♯2』所収、2017年)を書いてくださったことだった。

 福尾さんは『土瀝青 asphalt』におけるリズムが、会話やアクションの展開など映像の内容に依拠した比喩的なリズムではないという。まずは歩行する撮影者の歩幅(ストライド)のリズムがあり、それが地面から足首、膝、股関節など関節(ジョイント)を通して最終的に手に持ったカメラにまで伝達され、揺れとして記録される。そして、このカメラの運動を「アクションつなぎ」(複数のショットの運動の方向を揃えてつなぐことで、それが連続した一つの運動のように見せる手法)でモンタージュすることによって、映像のリズムが刻まれる。

 福尾さんのように、リズムとモンタージュという語を導入することで、〈場所映画〉の編集をかなりクリアに言語化する可能性が見えてきた。地面から身体を介して伝達されたリズムを単一のショット内に留めず、複数のショット間にまたがって持続させることを〈場所映画〉編集の出発点とし、それを井田さんとの具体的な編集作業と付き合わせて理論の妥当性を検証し、より精緻な方法論の構築と、例外的な状況・個別的な状況に応じたTipsのリスト制作を同時に行う。

 このようにして、ようやく「映画による場所論」を再起動するための準備が整ってきた。〈場所映画〉の編集について論じることは、本稿の前半で掲げた問い、すなわち、高密度な時空間圧縮により都市の全域的なリアリティを記録する方法の発明に直結している。すでに書きかけの原稿のストックが大量にあるので、推敲しつつ、表に出していきたいと思っている。このプロジェクトはまさに投壜通信で、何もアテはないけれど、いつかどこかで誰かに届いて、何かにつながるはずだと祈って続けている。受け取って、使ったり、受け継いでもらえたら嬉しい。



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