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#116 アメリカで、トルコと仲直りしたイイ話

今日3月19日は、39年前にちょっとしたドラマがあった日です。ご記憶の方はいらっしゃるでしょうか?時はイラン・イラク戦争の真っ只中、ヒゲを生やしたサダム・フセインの顔は、一定年齢以上の方なら覚えているのではないでしょうか。

この話は、小中高の社会科、英語科、あるいは地元和歌山県の郷土史として取り上げられることも多いと思います。今日は少し違った視点、海外営業ビジネスの現場から見てみたいと思います。



失礼なメール

音楽業界に12年いて、世界中の代理店とやりとりをした。小さい会社だったので、「〇〇担当」ということもなく、世界30カ国以上と仕事ができたのは、これまでの人生で最も素晴らしい経験だった。

ところで、だ。ある会社にいた時、トルコ代理店からのメールに頭を悩ませていた。とにかくお行儀が悪いのだ。自分たちの要求を飲ませようとメールの一部を強調するのはいいのだが、そのやり方が「黄色背景+赤の太文字」になっていて、まるで脅迫状のように見えるのだ。見た目だけではなく文面も怖い。毎週のようにそんなメールが来て、海外事務担当の女性社員Aさんはすっかり怯えてしまった。

直属の上司だった僕と、営業のトップだったイタリア人上司は少し相談をして、近々アメリカの展示会(NAMMショーだ!)で彼らと直接会うので、もっと丁寧なメールを送るように、「代理店を指導」しようという話になった。日本の会社と取引しているからには、多少は日本文化も分かってもらう必要がある。

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いざ、対面

ミーティングルームに、「黄色の背景+赤の太文字」の彼が入ってきた。大柄で四角い顔。ミーティングの時間は限られているので、最初に直近の取引の話を済ませて、例の件に入る。イタリア人上司がまっすぐ切り出す。

〇〇さん、君のAさんへのメールの書き方は、悪いけど失礼だよ。日本人の名前を知らないかもしれないけど、Aさんは女性だ。君のメールを見てすっかり怯えている。もう少し丁寧に書いてくれないか?

取引先へのあまりの直球に僕もビックリだった。じゃあ、どう書けばいいか、他の国の代理店はどうしているかなど、実務面は僕が説明したのを覚えている。もちろんその場には、社長その他もいる。海外担当2人がやっていることなので、口出しはされなかったが、横で「あーあ、やっちゃった。トルコはいいお客なのに」という顔をしている。取引に影響が出ると思ったのだろう。でも、次の瞬間トルコ代理店から出た言葉は、こうだった。

そうか、分かった。ちゃんと話してくれてありがとう。君たちとは、いい仕事ができるな(固い握手)。
(We can be good business partners!)

企業の海外部署にいても勘違いしている人が多いが、日本人が不満点をはっきり言わず、「うまくまとめる」ことは、実は多くの国では評価されていない。むしろ、「日本人は何を考えているか分からない」と思われていることも多い。トルコ代理店もおそらく、自分たちがよかれと思ってした「黄色背景+赤の太文字」のメールに、なぜAさんからの返信が遅いのか、分からなかったのだろう。「せっかく強調したのに」だ。こちらがはっきり言ったことで、謎が解けたのだ。

それ以降、トルコ代理店からのメールは一転して丁寧になり、自然とAさんの対応も迅速になり、関係は良好になった。イタリア人上司と僕はそのことが分かっていたので予想通りだったが、周囲からは、「アメリカでケンカしたのに、なんでそれでトルコとうまく行くようになるの?」と不思議な顔をされた。

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握手の理由

しかし、トルコチームと「固い握手」ができたのは、実はイタリア人上司の説明のおかげだけではなかった。トルコと日本の昔からの関係があったからだ。世界史は、教科書で習うだけのものではない。現実でちゃんと生きてくる。

トルコ代理店の代表との握手の直前に、実はこんな会話があった。イタリア人上司はその歴史は知らないので、キョトンとした顔をしていた。

トルコ代理店:そうかトオル、これからはもう少し丁寧にメールを書くよ。
     僕:分かってくれてありがとう。
トルコ代理店:俺たちは、船のことを覚えているぞ。
     僕:僕たちも、飛行機のことを覚えているよ。

これで固い握手を交わした。さて、みなさんお分かりだろうか?この話を日本に持って帰ってAさんにしたところ、彼女も「そうそう、私も知ってる、歴史のおかげだよね^^」と満面の笑みだった。これは、トルコでは今の年齢で40歳以上、日本では30歳〜50歳くらいの人が一番分かるのではないかと思う。地元和歌山では、どうだろうか?


オスマン帝国海軍 エルトゥールル号(ウィキペディア日本語版より)

エルトゥールル号遭難事故とイラン・イラク戦争

詳細はウィキペディア日本語版の記事が詳しいのでそちらに任せるとして、本当に要点だけ説明したい。

1890年(明治23年)、オスマン帝国(現在のトルコの一部)の軍艦エルトゥールル号が、現在の和歌山県串本町の沖合で遭難した。乗組員656名中、なんと587名が死亡あるいは行方不明となった大惨事だったが、69名が地元民によって救出され、彼らは神戸で治療を受けた。後日、大日本帝国海軍の「比叡」および「金剛」が回復した生存者を乗せて神戸港より出発、1891年にオスマン帝国の首都・イスタンブールへ送り届けた。

ウィキペディア日本語版より

これが、「俺たちは、船のことを覚えているぞ」の内容だ。トルコ代理店の彼が小さかった頃は、この話は学校で教えられていたそうだ。

さて、次へ行こう。

時は流れてイラン・イラク戦争中の1985年、サダム・フセインが突然、「48時間後の3月19日午後8時以降、イラン上空の航空機は、民間機を含め、無差別に攻撃する」と宣言した。当時、日本人215名が出国できずに取り残されていた。日本政府も救出に向けて動いたが、自衛隊機を派遣することは憲法規定上難しかった上、当時国内で唯一国際線定期便を運行させていた日本航空(全日空が国際線定期便の運行を始めたのは翌年の1986年)が動くのにも時間がかかった。

39年前の今日の話だ

さて、ここでドラマだ。

隣国トルコのオザル首相は、在テヘランの日本人を救出するためにトルコ航空機の派遣を決定し、元空軍パイロットのオルハン・スヨルジユ氏とアリ・オズデミル氏がフライトの任につき、爆撃開始まであと3時間のところで2機はテヘランを離陸し、215名の日本人は全員空路トルコに救出され、その後日本に無事帰国した。「トルコは海の恩を、空で返した」と言われるのは、このためだ。実に95年後の恩返しだった。

やはりいい話だ

これが、「僕たちも、飛行機のことを覚えているよ」の内容だ。

主なストーリーはここまでだが、実はさらに後年、2006年には当時の小泉純一郎首相がトルコを訪問、当時のパイロットに謝意を表している。さらにはスヨルジユ氏は2011年、エルトゥールル号遭難事件の犠牲者慰霊碑のある和歌山県串本町を訪れて、121年目の献花を行った。たった13年前のことである。

一部史実と異なるところがあるにせよ、一連の物語が2015年に映画化された。日本語タイトルは『海難1890』で、英語タイトルは『125 Years Memory』だ。

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歴史は我々と共にある

この経験を通して、歴史は「教科書の中のもの」ではなく、実在する血の通った温かいものであることが分かった。おそらく世界中で、多くのトルコ人と日本人がこの話のおかげで仲直りできたに違いない。
 実はドイツに来たのち、とある機会でトルコの学生と話す機会があった。いろいろと話が弾んだので、「トルコと日本は、船と飛行機の仲だよね」と何気なく言ったところ、「何?」と言われてしまった。エルドアン政権になって学校では教わらなくなったのかもしれない。
 それでも、トルコの人と出会った時にはやはりこの話を知っているか聞いて、知らなければ話していこうと思う。そしていつか、和歌山県を訪ねた時には、僕も串本の慰霊碑にお参りしたいと思っている。

今日もお読みくださって、ありがとうございました🚢🛫
(2024年3月19日、イラン・イラク戦争での邦人避難から39年)

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地元和歌山県発の関連記事を3本引用しておきます。

和歌山県サイト:トルコと日本 友好の原点は和歌山です
 串本町サイト:トルコとの交流 ~エルトゥールル号の遭難~
 串本町サイト:日本とトルコの絆をつないだ物語


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