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白熱教室2〜正義とは何か?〜

(復習)

先に当講義で登場する論客達を紹介いたします。

アリストテレス (ギリシャ前384〜322)
ジョン=ロック (英1632〜1704)
ジェレミー=ベンサム (英1748〜1838)
ジョン=スチュアート=ミル(英1806〜1873)
カント (英1724〜1804)
ジョン=ロールズ (米1921〜2002)
ミルトン=フリードマン (米1912〜2006)
ロバート=ノージック (米1938〜2002)
次に3つの政治的立場も紹介しておきます。(アメリカ版)
・リバタリアニズム:個人の自由に重きをおく立場
・リベラリズム:個人の自由のために最小限の国家の介入を許す立場
・コミュニタリアニズム:コミュニティに重きをおく立場
 ※備考(欧州版)
・リベラリズム:個人の自由に重きをおく立場

イマヌエル=カント

ベンサムの「快・不快が我々を規定する至高の支配者である」を否定した。カントの自由の概念は厳格で厳しい。

自由に行動するということは、自律的に行動することである。自律とは自分でルール(道徳)をもうけそれに則ることである。目的は、それ自体のために目指されねばならない。

一方ベンサムの原則は他律に過ぎない。これでは人は単に「自動機械」に過ぎない。私たち自身が快楽を満たすために動く手段に成り下がってしまっている。

そう「人を単なる道具としてでなく、同時に目的として扱う(定言命法①)」ことが、人が人たる尊厳を満たすと考えた。

ベンサムの議論を思い出して欲しい。

快の増幅が目指すべき目標であったが、カントにとっては結論も重要でない。重要なのは「動機」そのものだ。

その行為の道徳的価値は動機によって決まる。道徳法則に対する敬意だけが、その様な行動を導くインセンティブになる。

道徳法則は複数か、一つか?
答えは一つ。なぜなら導く理性自体は一つだからである。

肌の色も経験も関係なく、アプリオリ(先天的)に人に備わる理性が法則を制定する。

※カントの3つの比較
・道徳性 義務vs傾向性
・自由  自律的vs他律的
・理性  定言命法vs仮言命法

「汝の意志の格率が、常に普遍的立法に妥当する様に行為せよ(定言命法②)」
→自分の欲求を、他者に比べ優位にしていないかのテスト

カントのレトリック
→「誤解を招く様な真実は、嘘や偽りと違い、義務に対してある程度の敬意を払っている」

ジョン=ロールズ

平等な人々の間の仮説的な契約だけが、正義の原理を考える唯一の方法。

現実の契約が道徳的な効果を持つのは、自立と互恵性という二つの区別される理想のおかげ。

「無知のベール」を紹介する。

平等な原初状態、無知のベールを剥がされたら、金持ちか貧乏人か、健康か不健康か想定できない状態で、社会設計をしてみる。
そすれば、人々は少数派になった場合をおそれ、平等な基本的自由(言論の自由など)を求める。
そすれば、人々は格差原理に同意する。「格差原理」とは、最も恵まれない人々が便益を受ける様な不平等だけが正義に叶う、とする考え方である。

もともと我々は、封建主義を生き、生まれながらの貴族と奴隷を規定してきた。

その後、能力主義となり、努力した分報われる社会になったかに見えた。

しかし、機会の不平等は拭えていない。エリートの息子はエリートになる可能性が高い。

その最底辺を救済、是正しようとするafformative actionが肯定されてきた。

「彼らを放っておくとよりコストがかかる」とするのはベンサム・功利主義。

「そうすべき」と自律的に思えるのがカント・道徳主義。

努力した人からしたら「搾取」かもしれないが、「私たちが偶然豊富に持っている資質を偶然重んじられるこの社会に、自分たちがふさわしいと考えるのはうぬぼれである」とする。

(「私は私自身を100%所有してはいない。」)

アリストテレス

common good(共通善)「フルートは誰の手に渡るべきか?」

→最もうまい演奏者。なぜなら、それがフルート演奏の目的だからである。

【目的論的論法】と呼ぶ。
そう、全ての正義は差別を含んでいる。

リベラルの観点では、

全ての責務を、自然の義務(「人は尊い」)、自発的な責務(取引・契約)の二つにしてきた。

コミュニタリアニズムは、

「連帯・忠誠心・構成員としての責務と呼ぶべき、第3のカテゴリーがある」としてきた。

正義と善の結びつけ

その地域・時代の相対的な論拠によると、慣習的な産物にしてしまう。

一方、非相対主義的な方法で結びつけられるか?

相当に難しいが、正義を議論する上で、善や目的について論じることは避けられない。

それは私たちがどのような尊重の観念を受け入れるかによる。

リベラルな立場で言えば、同法市民の道徳観を尊重することは、政治的目的のために無視することだという。

しかしそれは妥当なやり方ではないだろう。

それを無視することでなく、関わり、関心を向け、耳を傾け、議論する。

道徳的宗教的な意見の相違が存在し、善についての多元性が存在する限り道徳的に関与することでこそ、社会の様々な善を理解することができるようになるのだ。

今回も最後までお読みいただきありがとうございました!
少しでも楽しんでいただけたら幸いです。
佐々木真吾

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