ありがとうって胸を張ろう

先日の記事から何度か藤井風さんの「帰ろう」の一節を引用させていただいた。決して前向きな内容ではなかったので申し訳ない気分だけど、それくらい「帰ろう」という歌が普遍的で解釈の幅が広い神曲だとも思う。今回は、私なりにこの曲と向き合った、最終回に近い結論が出たように思うので、これも一つの「与えられるもの」としてここに残すことにした。

「帰ろう」という曲は藤井さんがお話しするように死生観として読むこともできれば、平和への希求とも取れるし、恋愛の歌として受け取ることもできる。私は当初、この歌詞を「私と両親」と読み替えて解釈した。でも、時間が経ち、自分と両親との関係性を心の中で再構築したことで、この歌が「過去と今の私」として再解釈された。

「あなた」は過去の私、「わたし」は現在の私だ。「帰る」のは、過去の悲しみや苦しみを切り離してたどり着く場所だ。歌詞の内容をそのままなぞっていくことはできないので、後は多少強引に自分に寄せた解釈になる。

前の記事に書いたのだが、私は両親から欲しい愛情を与えてもらえず、ひどく愛情に飢えていたし、心にも塞がらない穴があり、どうやったら塞ぐことができるのか必死に藻掻いて足搔いて苦しんでいた。でも、その愛は両親から得られることはないのだと、最近ようやく諦めがついた。空いた穴を埋めるのは自分でしかないことも。(その結論も、最後は自分で導き出すしかない)ああ、大好きなヘドウィグ・アンド・アングリーインチでも言っていたのに。どうして肚に落とし込むのはこんなに難しいのか。

塞がらない穴は「人とは相いれない自分」として、悲しきアイデンティティとなり表出した。居場所が欲しいのにいつも居心地が悪い、新たな居場所を求めてもやっぱり分かり合えない。「分かってほしい」「受け入れて欲しい」と求めながら、過去に縛られて「どうせ分かってもらえない」「そんな簡単に私の苦しみは理解できない」と心を開けずにいる。要求は準備のない相手には搾取になるので、対等な人間関係を築くこともできなかった。悲しい、虚しいと思いながら、その孤独は「確固たる私」として、自分を保つ一番のお守りだった。

しかし「孤独を武器に何者かでいようとした私」を、そろそろ手放そうと思う。手放すことは即ち、「何の才能も取柄もない、どこかで誰かに見初められて花開く可能性のない自分」を認めることである。即ち、「賞賛や評価はあるに越したことはないが、なくても大丈夫だし、才能や取柄がなくても私が私を認めてあげればいい」のだ。

何者かでいたかった。両親からちゃんと見てもらえない分、誰かの賞賛や評価が欲しかったし、数が多いほど存在価値があると思っていた。あなたの考えは面白いとか、あなたには才能があると誰かに認めて欲しかった。無能で魅力のない自分を認めないために、あらゆる努力をしたが、何をしても手ごたえはなかった。何より手放したくなかった「何者かとして価値のある私」は、帰る場所ではなかったのだ。

私はこれから、愛されて自己有用感を備えて生きてきた人たちと同じ立場で生きていく。何の才能や取柄もない、ごく普通の、一生物語の主人公になれない人生を引き受けて生きていく(卑下ではなく、受容として言っている)。今まで守ってくれた「何者かでありたかった私」へありがとうを告げ、親への執着を棄て、藻掻き足搔いて自分を生きることが、私なりの「先に忘れる」である。

ハンデも多いし、遅いスタートになったけれど、あの傷もこの渇きも、吹き飛ばして生きていこうと思う。藤井さん、素晴らしい歌をありがとう。



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