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自己肯定はYES、自己受容はOK

先日noteに僻み満載の投稿をしたことに気が付いた。書いたことに一理あると自己弁護しつつ、みっともないことを認めて削除するに至った。

ちなみにこの文章は9か月前に書いてあったらしい。自分でも忘れていた。読み返すと自分のショボさに情けなくなるが、どうせ保存していたのだからと開き直って公開した。

自己肯定感とか自分は素晴らしい存在とか自分に自信を持つとか自分を好きになる云々、叫ばれて久しく私も何十年と悩んでいるが、進捗は予想を遥かに上回るスローペースだ。自分と向き合うのは、相当の時間と労力が必要だと思い知る。りゅうちぇるさんも仰っていた。「大人になってから自分を好きになるってとても難しい」と。

そもそも、自己肯定感高い人は自己肯定感なんて考えない。自分に自信を持つ人は、「好きなことで稼ぐ」「自己肯定感を上げる」系の動画も観なければ、それ系の情報商材を購入もしないだろう。私は何度かそれ系にお金を出した優良なカモだが、飽きて中途半端なまま。本気でどうこうしようと思っていないのか、根っこで出来ないと開き直っているのか。

さて、削除した僻み満載の記事だが、大雑把に言うと「他人のダイエット成功SNSを喜べない言い訳」である。別にいいんだ、ダイエット成功するのは喜ばしいし、努力が実って良かったねと思う。でも、ポジティブで頑張ってる報告を逐一SNSで言うなよ、とも思う。SNSで中傷するほど腐っていないけど、いいねを押せるほどの心の余裕もない。頑張っても手ごたえを感じられない今の状況だと尚更辛い。じゃあ読むなよ、ということでSNSをやめた。

相手のバックグラウンドを知るからこそ思う。「頑張って目に見える結果を出す自分が好き」で、そこにいいねが欲しいのだと。私が過剰に反応してしまうのは、自己肯定感の低さを、勝手にあなたに見てしまうから。目に見える賞賛は、僻んでいる私よりずっと、結果を出したあなたが得て然るべきである。ただ、私は結果を美徳とする価値観を、いい加減手放したい。

手ごたえのある人生にしたいと思った。自由に生きて、多くの人と関わりたいと思った。そうした生き方は私には出来ないのだと、もがいてもがいてようやく理解した。本当のいいねは、「痩せた」「頑張った」「成果を出した」等々につくYESではなく、「頑張ったけど思ったようにできなかった」「自分には大した才能や能力がない」につくOKなのだと思うようになった。自己肯定感と自己受容の違いとは、こういうことなのだろうか。

結局僻み妬みみたいな記事になってしまった。



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