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五体満足なのに、不自由な身体

本日はお忙しい中、「五体満足なのに、不自由な身体(しんたい)」の公演にお越しくださいまして、誠にありがとうございます。上演に先立ちまして、皆様にいくつかお知らせしておきたいことがございます。本公演は8章構成、15626字と、やや長めの作品になっております。4章の終わりに約3分間のトイレ休憩を設けておりますが、そのまま鑑賞を続けていただいても構いません。また途中、過激な表現が多発しますので、ご気分の悪くなられた方はご遠慮なく途中退席してください。職場環境が原因で精神疾患を患ったトラウマが解消できていない方は第2章を、セクシュアルなトラウマを抱えている方は第3~4章を鑑賞すると、フラッシュバックを起こす可能性があります。5~8章は少なくとも希望の方向に話が進みますが、鑑賞する章に関しては個人のご判断にお任せします。最後になりますが、本公演は誰か特定の個人や組織を攻撃するために書かれたものではありません。登場する人物や組織に見当がついてもそのことについて発言をしないようにお願いします。長くなりましたが、まもなく上演を開始します。思い思いの体勢でご鑑賞ください。

***ブザーが鳴り、幕が上がる***


1.わたしはわたしをインストールして家庭とか社会とかいう舞台をやる

物心ついたら、お父さんという人とお母さんという人がいて、わたしはその2人の子どもというものらしかった。

お父さんという人はお父さんというよりも自由奔放に人間をやっているという感じで、お母さんという人は一生懸命にお母さんをやっていた。

お母さんは家族のからだに悪いからと言って、冷凍食品とかレトルト食品の類を一切使わないで、ぜんぶ一からの料理をして、わたしに習い事をさせてくれるために自分の洋服とかお化粧とか見た目のことにはお金をかけなかったから、近所の人がおすそわけしてくれたマカロニサラダをおいしいと言えば「マヨネーズをこんなにたくさん入れればおいしいに決まっている」と悲しそうにし、■■■ちゃんのお母さんの服がかわいかったと言えば「自分にお金をかける余裕があるなんて、子どものことを考えていない」と怒った。

お母さんは誰よりもお母さんで、懸命にお母さんをやっていた。お母さんがお母さんになりたてのころ、お母さんもお母さん1年生だったし、特にわたしが小さいころはとても手がかかったし、家事と子育てのほとんどすべてをお母さん1人でやってきていたから、自分の限界をこえるほど頑張ってお母さんをやってくれていて、心がいっぱいいっぱいになると、泣きながらこう言った。

「わたしは普通の、幸せな家族をやりたいだけなのに!」

お母さんは泣きながら、自分が育った家庭環境の話をして、「あんな思いは絶対にさせたくない」と言って、わたしの頭をなでて抱きしめた。お母さんの家庭環境の話は、幼いわたしが聞いてもかわいそうなもので、それに比べてわたしはとても恵まれているなぁと思った。わたしはお母さんのことが世界でいちばん大好きだったから、わたしはお母さんのために何ができるか考えたときに、わたしが幸せな家族を“やる”ことだと思った。

そう思ったら、家の中がぜんぶ舞台みたいに感じた。
家族は劇団で、家の外の人たちに見せるための練習をする場所。

小さいころ、お父さんとお母さんの仲はあまりよくなくて、ケンカばっかりしているときも近所の人に「■■■さんの家は仲良しでいいわね」と言われたら、「そんなことないんですけど」とお母さんは言い、だけどとてもうれしそうにしていた。

わたしは心の中で「もっとちゃんとケンカをたくさんしていることとか言ったほうがいいのに」と思ったけれど、これは家の外の人たちへの見せ物だから仕方ないなと思って、「うちの家族は仲が良いから、わたしもおりこうに育ってます」という子どもらしい顔をしておいた。

お母さんの顔をチラッと見ると、すごく幸せそうに笑っていた。
お母さんが笑っているのを見ると、あたたかいお風呂に入っているような気持ちになる。

お母さんにずーっと笑っていてほしいなぁと思った。
お母さんはわたしがテストで良い点をとるとか、お行儀のよい言葉づかいができるとか、小学校1年生から習っている剣道で勝つとか、そういうことをするとニコニコしていたから、そういうことをできるようにしていたし、反対にそういうことができないと「あなたはもっとできるのに!どうして手を抜くの!」と怒ったり泣いたりするから、わたしも悲しくなってもっと良い子をやらなくちゃダメだなと思って、結果を出すための役作りを頑張った。

***

お母さんの喜ぶわたし役をやっていると、今度は他の人が何を考えているのか知りたくなった。

正直なことを言うと、お母さんの気持ちもお父さんの気持ちも友達の気持ちも誰ひとりの気持ちもわからなくて、そのことは誰かといても一人でいるみたいで寂しかったけど、“舞台”のセリフには正解があって、それを言えばみんな喜ぶみたいなルールみたいなものがあるということに途中から気づいたら楽になった。

そのひとつひとつを拾い集めるために、わたしは新種の人間に「仲良くなりたい」と声をかけて、仲間内に入れてもらい、彼や彼女の好きなものや口癖、着ているものなどを観察し、家に帰って「人間」というタイトルのノートにメモをして、誰もいない自分の部屋でその人の口癖や身振り手振りのマネをして、彼や彼女をインストールした。

そうやって他の人の気持ちをストックしていった。RPGゲームで町の人に話を聞いていくみたいな途方もない作業だったけれど、楽しかった。

家の外にある電柱も、学校も、郵便局も、全部が全部よくできた舞台セットに見える。みんなにはちゃんとした電柱とか、学校とか、郵便局に見えているのかなと思うと、胸が少しぎゅううっとしたけど、そういうわけのわからない不安は好きになった男の子たちが忘れさせてくれた。

わたしはわたしの心のやわらかい部分をわかってくれるような人を見ると、すぐに好きになった。好きな男の子にはずーっと笑っていてほしいなと思って、彼らが喜んでくれそうなことを片っ端からやっていった。黒髪センター分けのボブが好きと言われればそうしたし、同じサークルの女の子がかわいいと言えば観察してインストールして徹底的に真似をした。ときどき「■■■ちゃんは■■■ちゃんのままでいいんだよ」と言ってきてくれる男の子もいたけれど、何をどうしていいのかわからなくなって不安になって別れた。ひどい人だと生活のぜんぶにコントロールが及んで毎日のように罵声を浴びせられたり、殴られたりして耐えきれずに別れてしまうこともよくあったけど、「■■■ちゃんは■■■ちゃんのままでいいんだよ」と言ってもらうよりずっと安心感があった。

どうしてこんなことになっちゃうんだろうなと思いながらも、国公立の大学に入れたこととか、規模は大きくないけどそれなりに有名かつ安定の一般企業に就職できたことでお母さんは喜んでいたし、わたしは完璧にやってきたという自負もあった。

社会人になっても「一般企業の新卒」役をやればいいだけだ。
お母さんが好きなわたしを長年やってきたから、テストで良い点数を取って、安定した企業に入社できた。だからこれからも、お母さんが好きなわたしを真面目にやっていれば、そのうちに良い人が現れて結婚して子どもを産んで、幸せな家庭をつくってお母さんが喜ぶ。

ここまで、わたしの演技は完璧だった。


2.Error! わたしは設定を変えた

新卒で入社した会社は体育会系で、元気の良い挨拶と先輩を敬う精神が尊ばれた。求められているものがわかりやすいので、「ここでの『新卒役』も余裕だなー」と思った。しかし「高学歴の変なやつが入ってきた」と噂になるだけで、私が可愛がられることはなかった。当時、国立大出身者は会社でわたしだけだった。

同期はミスをしても「すいません」と舌を出して可愛がられていたが、私が同じことをしても「勉強できても仕事できなきゃ話にならん」と言われた。なるほど。ハード面とソフト面の折り合いが悪いらしい。「仕事をバリバリこなす新卒」になろう。わたしは設定を変えた。

「学歴があるからって生意気だ、でしゃばるな」

Error! わたしは設定を変えた。

ミスが発覚して謝った。

「お前本気で反省していないだろ、自分が無能だということを思い知れ」

Error! わたしは設定を変えた。

「服がダサい。もっとマシなコーディネートはできないのか」
「本当に申し訳ないのですが、マシなコーデの正解を教えてください」
「そんなの自分で考えろ」

Error! わたしは服を買い込んだ。

UNIQLOと無印の服は褒められた。
安心して毎日同じ服を着たら不潔だと叱られた。
正解を教えてくれたらちゃんとできるのに。

正解がわからないまま、
Error! わたしは設定を変えた。

Error! わたしは設定を変えた。
Error! わたしは設定を変えた。
Error! わたしは設定を変えた。

***

夏を過ぎると、わたしは感情が変になっていた。
家に着いた途端に涙が止まらなくなっているのに、同時にお腹がよじれるほど笑いも止まらなくなった。制御不能の感情に身体をくすぐられ終わると、冷蔵庫に買いためていたビールをすきっ腹に流し込み、浴びるほど飲んで、吐いて、寝た。

母に「もうやめたい」と電話すると、「辛いよね。でも、良い会社だからもう少しだけ頑張ろう」と励まされた。わたしは辛いけど、良い会社だからもう少しだけ頑張ることにした。

***
毎朝家の玄関で1時間以上座り込んだ。
日曜夜はきまって過呼吸を起こした。
自社ビルの5階から飛び降りる想像をすると心が落ち着いた。
彼氏と音信不通になった。
毎日「お前なんか死ね」と脳内で声が聞こえた。
右耳が聞こえなくなった。
会社に行けなくなった。

休職願いを申し出たが、年末まで頑張ってほしいと言われたので、休職願いを申し出たが、年末まで頑張ろうと思った。

精神科に行った。
パニック障害だと診断がついた。

お母さん、普通のできた娘を演じきれずにごめんなさい。

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Error! わたしは完璧に破たんした。


3.ガラスケース越しのセックス

私が休職している間、会社は本当によく計らってくれた。取締役クラスの人をはじめとして、何人かの社員さんはわたしを心配してくれた。

2カ月と決まっていた休職期間を経て、希望を出し、人事部に配属になった。正直なところ仕事はあまりなかったが、「出てこられるようになってよかったね」と声をかけてくれる人もいた。

人事部部屋はエレベーターの前にある。いつものように頼まれたお茶くみとコピーを終え、わたしは椅子に座っていた。

擦りガラス越しに誰かがエレベーターを待っている。
ドアが開く。1人の社員がこちらを見やって、

「給料泥棒」

と、一言こぼしてエレベーターに乗り込んだ。

給料泥棒。確かにそうだなと思った。
わたしは今、給料に見合うはたらきをしていない。
とは言え、仕事もない。

「わたしの価値は、今、いくらくらいなんだろう」

1日数回のお茶くみとコピーで終わる人間など、いてもいなくても変わらないなと思った。わたしの存在が不正解だ。
わたしはまた、会社に行けなくなった。

***

ある日、先輩からLINEが届いた。
知っていたけれど、ほとんど話したこともない先輩だった。

「部屋にこもってても気が塞ぐぞ、飲みに行くぞ」

そう言って呼び出されたのは、高田馬場の大衆居酒屋だった。
先輩はわたしの話をひとしきり聞いて、「ほんとクソみたいな会社だよな~、まぁ飲めよ」と相槌を打った。

2時間ほど飲んで、そろそろ帰りたいなと思ったころ、「俺とセックスしようぜ」と言ってきた。頭が真っ白になった。冗談かと思って笑った。冗談ではなかった。

あれこれ理由をつけて断り、「とりあえず今日のところは帰してください」と言ったが、一向に引く気配がない。困ったなぁと思っていたときに、脳内に言葉が下りてきた。

「給料泥棒」

あぁ、そうだ。わたしは給料泥棒だったんだ。会社にいてもお金を生み出すことのできない人間だったんだった。酔いもとうに覚めて、真面目な頭でわたしは言った。極めて、毅然として。

「あの、セックスするのはいいんですけど、私に値段をつけてくれませんか」

「は?」

「いや、だから、値段をつけてほしいんです。お金は払わなくていいです。わたしは今病気で存分に働けず、自分の値段がわからないことがとてもつらいんです。だから先輩との30分ないしは1時間のセックスの対価としての値段をつけてください」

「わかった」

わかっていないような声で、先輩はわかったと言った。
わたしはコークハイを2杯頼んで一気に飲んだ。

***
通された部屋はタバコのにおいが染みついていて、とても狭かった。
ベッド脇の通路は足を挟むのがやっとで歩くことはできず、備え付けの冷蔵庫は半分も開かない。

「ヤるための部屋だな」と先輩は言った。
わたしは黙って服を脱いだ。
裸のままぼーっと突っ立っているとキスをされた。
好きだとかも言っていた。絶対に、好きじゃないのに。

好きでもないのにキスとかしちゃって、好きだとか言っちゃうんだーと思った。好きだと言えと言われた。好きでもないのに好きだと言った。

この場ではこれが正解。
大丈夫、今までやってきた演技と一緒、大丈夫、大丈夫。白目をむいて、口から泡を吹きそうだった。

あああああああああああああああああああああ
あああああああああああああああああああああ

発狂するか気絶するかの狭間で、意識が朦朧する中、本能だけが脳の内壁を殴った。

あああああああああああああああああああああ
あああああああああああああああああああああ

脳が破裂寸前だという折、わたしの視界にサッと何かが挟み込まれた。
ほとんど何も聞こえない。身体を触れられても感覚がない。

まるで、ガラスケースの中に入っているようだった。

自分が他人のように感じる。
ガラスケース越しに果てる先輩を見つめた。

何を言われても、されても、平気。
こんな特殊能力ってある?
わたしはまた新しい役を習得した。


4.抱けないラブドール

それから数カ月して会社を辞めた後も、“あの役”を演じる機会に見舞われた。

男の人と飲みに行くと必ずと言っていいほど、そういうことになってしまう。嫌だなと一瞬思うが、誘われると断れない。生まれてこの方、わたしの中に正解はない。

少し後ろめたいような気持ちになっても、ガラスがシャットダウンしてくれるので平気。触られたって抓られたって気持ちよくも痛くもない。ラブドールは身体にインストール済みだ。

キスしてフェラして挿入して呼吸を合わせて声を出す。
心をガラスケースで麻痺させて、決まった型通りに身体を動かすことが正解。

出てきた白い液体を見るとホッとした。この人はきちんと気持ちよくなった。気持ちよくしてあげることは正解だ。わたしはちゃんと正解をやれている。

わたしにとっては、電車で席を譲ることと身体を貸すことは同じようなことだった。また次会うときは友達として何もなかったかのように接してくれればいい。

でも、思ったようにはいかなかった。

多くの男の人たちは「順番は違ったけど、君のことを好きになったし、僕たち付き合おう」と連絡してきた。セックスを介して好きという感情が生まれることがわからない。わたしは恋愛感情を持っていないし、身体の感覚さえなかったのに、わたしの何を見ていたのだろうと思うと悲しくなった。中には「責任を取りたい」という人もいて、ヤりたいならそう言えばいいのに、責任ってなんだよ、死ね、と思った。

事を終えた後「人生で最悪のセックスだった、お前みたいな女を好んで抱き続ける男の気が知れない」と吐き捨てて、真夜中のホテルにわたしを置いて去って行った友人もいた。“電車で席を譲って”人格否定までされる人がどこにいるだろう。

そう言われてもなお、わたしは完璧にラブドールをやっていた。ラブドールの中に正解はない。「相手が怒っていて謝ってほしそうだ」という情報を察知すれば「ごめんなさい」と謝った。

しかし、しばらくすると、今度は「悲しい」と「怒り」が単体で湧いてくる。宙にぼんやりぶら下がって浮いた、しかし炸裂する感情を友人だった人に送りつけてブロックした。

そうやって友達をなくしながら、わたしはまた同じようにガラスケース越しに寝て、同じような「悲しい」や「怒り」を時差で味わって、傷ついて、寝込んで、また、寝た。そんなことを1年以上繰り返した。

そうして、あるときセックスができなくなった。

***
セックスができないどころか、男性に肩を触られただけで吐き気を催すようになった。生活が回らない。

抱けないラブドールは、場所をとるだけ。
ラブドールを演じられなくなったら、と、考えるだけで不安になった。

焦ったわたしは信頼のおける男友達に「抱いてみてほしい」と頼んだ。
信頼関係があれば大丈夫だろうと思った。
セックスができなくなるなんて何かの間違いに決まっている。
友人は渋ったが、何とか説得してホテルに赴いた。

服を脱いで、キスをしようとした瞬間、薄い皮膜がサッと身体を覆った。
身体が感覚を失い、視界のすべてが他人ごとになる。

セックスは台本通りに進んだ。なんだ、大丈夫じゃないか。

「挿れてみて」

この工程をクリアできれば、またラブドールをやれる。
きっと体調が悪かっただけなのだ。

下のほう、何かが押し当てられる感覚がある、たぶん入ってくる、OK、進んでくる、OK、下腹部から胃にかけて何かがせり上がってくる、頭の中の遠くのほうが騒がしい、何かが迫ってくる、侵入してくる気がする、もうダメみたい、そんなことない、無理し過ぎたよ、大丈夫、今すぐ逃げて、逃げたくない、本当は痛かったよ、そんなことない、嫌だったでしょ、平気だよ、壊れちゃうよ、わたしは壊れない、話を聞いて、聞きたくなんかない!

この気持ちは、何だろう?

男たちの顔と声と触感が一度に襲ってきた。数多の男の表情が脳内をピンポン玉のように反響し、声や言葉が折り重なって視界を揺らがせ、たくさんの手が身体じゅうを這いずり回る。

気がついたときにはわたしは絶叫しながら泣いていて、わたしが突き飛ばしてしまったらしい友人は何が起きたかわからないという顔でこちらを見ていた。ごめんね、違うの、ごめんと言った。それがやっとだった。

ガラスケースは壊れて、ラブドールは破れてしぼみ、わたしは身体の自由が効かなくなった。

腕も、足も、すべてが揃っている。
末端まで神経が通い、自分の意思で動かすことのできるはずのわたしの身体。

五体満足なのに、わたしの身体は不自由になった。


***ここで3分間のトイレ休憩です***


5.心と身体、自分と他人

ラブドールをやれなくなったわたしは、錆びたブリキの人形になった。それはちょうど関節に油を差さないと、自然に歩けない機械のようだったけれど、どうしたら身体をスムーズに動かせるのかわからないのだった。

悩んだ末、わたしが姉と慕う■■■さんに相談をする。■■■さんは遠くに住んでいるが、誰にも言えない、わたしの秘密のいくつかをしっかりと握ってくれ、適切な方向に導いてくれる人だ。

「■■■ちゃん、■■■さんという舞踏家の方を知っている? あの人の即興舞踏ワークショップに行くといいと思う。勘の良いあなたなら、わたしの言わんとすることがすぐにわかると思うから」

そう言って、■■■さんは舞踏家の■■■さんのホームページのリンクを送ってくれ、わたしはすぐに申し込みをした。藁をもすがるような思いだった。

***
ワークショップ当日。
■■区某所の会場には20名ほどの参加者が集まっていた。舞踏家の■■■さんという人は、いつでも朗らかに笑っていて、だけど、目の奥がとてつもなく強い、そんな人だった。

「全身の力を抜いてください」

■■■さんが言った。力の抜き方がわからない。昔からそうだった。「力むな!」と言われれば全身に力が入って、「右手をあげましょう」と言われると、どちらかわからなくてまごついた。

キョロキョロしているわたしに気づいたのか、■■■さんはまっすぐ前を見据えたまま、

「深呼吸するようなつもりでやるとうまくいきます」

と言った。深呼吸、するようなつもりで。

――ゆっくり、左右に身体を振ってください。このとき、意識は身体の中心に置いてください。頭や腕、足でなく、身体の中心です。

身体の中心に意識が集まって、腕や足が身体から切り離される。

――もっと大きく振ってみましょう。

腕が描く弧が大きくなる。
腕と足とが切り離されて、身体が軽くなる心地がした。

パシン、パシン

腕が身体を打つ。

パシン、パシン、パシン……バシンッ!

腕が飛んできて、左の頬を打った。
誰かに平手打ちされたのではないかと、わたしは驚いて動きを止めてしまった。

周りを見渡すと、みな何事もなく、遠く離れたところで身体を揺らしている。

左の頬を打ったのは、遠心力で勢いのついた、脱力した私の右腕だった。

身体の力を抜いてはじめて気づいた。
今まで気づかなかった。

わたしの身体はわたしのモノではない。
無理に動かそうとしていたのがそもそもの間違いだったのだ。

身近にあるわたしの身体、それは立派な他人だった。


6.あなたが満ちると、わたしが満ちる

舞踏家の■■■さんのワークショップに行って気づきを得て、身体を他人として気遣えるようになったことで、日常生活は何とか送れるようになってきた。それでも、夜のこととなると身体は思うように動かないままだった。

少し気になる人ができて仲良くなりたいと思っても、「お前みたいな女を好んで抱き続ける男の気が知れない」などと、浴びせられた罵詈雑言がリフレインして諦めてしまう。

遡れば思春期からそうだった。中学にあがった途端にブス扱いされるようになって、言われるがままにブス役をやっていたら、そのままブスになってしまった。言葉はそのまま呪いになる。わたしはブスだし、スタイルもよくないし、人生で最悪のセックスだと言われるくらいなのだから、たぶんセックスもうまくないのだ。

誰かが好んで抱き続けるような女のイメージは、AV女優さんのようにかわいくてスタイルが良い女性以外に思い浮かばない。欲情させれば良いってこと? だけど、世間の大半の女だって、顔もスタイルもそこまで良くないのに、何でわたしばかりそんなことを言われるのだろう。習っていないのだから、誰かが好んで抱き続けるような女なんてどう演じればいいかわからない。

友達が楽しそうにするセックスの話を聞いても、そう。もう長く付き合っているカップルになると食べなれたスナック菓子をつまむように話をし、付き合い立てのカップルは「何かね、彼とつながれた感じがしたの!」と興奮気味に語る。セックスをして「つながった!」と思ったことなどない。わたしは目を細めて話を聞きながら、酒を一気に煽った。

***
ある夜、知人の男性と飲んでいて近況を話すうちに、わたしはベラベラとすべてを話してしまった。

いろんな人に身体を許したこと、罵詈雑言を浴びたこと、その後セックスができなくなったこと、そのことでとても自信がないこと、何がどうしていつもこんなことになるのかわからないこと。

「どうしてそんなひどいことが言えるんだろうね」

そう言いながら、彼も彼で恋人と別れたてだという近況を教えてくれた。急な斜面で出会った2人が弱音を吐くとき、励まし合いながら登っていけるかどうかは理性だけが知っている。上澄みの優しさと底抜けの寂しさにアルコールが加わって幾重にも絡まる。わたしは彼に「わたしと一緒に寝てみるというのはどうでしょうか」と提案してみた。

その人は身体の感覚が繊細で賢いうえに、嘘のつけない人だったように思う。酒に飲まれて脳にバグが発生したこともあって、セックスはできた。でも、感覚が麻痺してもなお、手順を踏むようなわたしとのそれを彼がしょっぱく感じていたのは肌越しにわかった。

後味の悪さの口直しをするように、わたしは身体が賢いその人に「会いたい」と言い続けたけれど、彼は何となく歯切れの悪いメッセージで、なかなかに会おうとしない。何度かのメッセージを経て、結局わたしたちはまたホテルで会うことになった。

「どうして会おうとしなかったんですか、わたしの身体とかセックスがよくなかったからですか」

呼吸するペースで飲み込んだ言葉を掬いあげるかのように、「3回くらいやってみたらよくなってくる気がする。僕のことは好き?」と彼は聞いてきて、わたしは「好きです」と答えた。正直に言えば好きかどうかはまだわからなかったけれど、好きと言わないと次はないと思った。何かの間違いでもセックスできたのだ。身体が元通りになるための糸口がここにある。絶対に離してはいけないと思った。首の皮一枚が繋がった、わたしと他人とを結ぶ糸。

でも、セックスすることと私が彼を好きかどうかに何の関係があるのだろう。

「あなたのことは好きだけど、どうしてそんなことを聞いたの?」
「だって、自分のことを好きじゃない人とセックスするのキツくない?」

よくわからないけど、そうなんですね。

そう思いながら「好きです」と言って彼の口を封じると、何となく安心したような気がした。彼がどうして安心したのかはわからないけれど、彼が安心したことに安心をした。

しかし、安心した彼はと言うと、わたしのことはいわゆる好きではなくて、好きになりそうな雰囲気を感じることもなかった。好きになってほしいわけではなかったけれど、わたしはそのことを不安に思う夜もあって、一緒に飲んでいるときは酔いに任せて「指圧をしてあげる」などと適当な理由をつけて、その人の手を握ってぐにゃぐにゃと押した。

押した瞬間、その身体が賢い人の表情がゆるんだ。ゆるんだその人の表情を見ると、自分の胸のあたりがコポコポと満たされたような感覚がある。

もう一度、押す。
その人の表情が溶ける。
わたしの胸のあたりが温かくなる。
もう一度、押す。

わたしがわたしの手でその人の手を押したことで、その人の表情がゆるんで、私が満たされる。

つながれた。そう思った。

飲み屋を出てからの帰り道、「今日はいつもよりつながれた気がしました。もっと■■■さんに気持ち良くなってもらえるように頑張ります」と言って、別れた。

帰りの電車でわたしは少しドキドキしていた。
セックスしなくても、つながれる方法を見つけた。
うまれてはじめて、他人とつながれるかもしれない。

その夜、わたしは1本の電話をかけた。


7.ワンルームのファンタジー

電話で問い合わせをした翌日、待ち合わせることになったのは■■■駅から徒歩15分くらいのセブンイレブンだった。

日差しとアスファルトの照り返しがにじり寄る。待ち合わせの時間を少し過ぎて、40歳くらいの金髪の男性が現れた。

「いやー、かわいいね!合格!」

顔を見てすぐに合格出すなんて、よほど人手不足なのだろう。
水に浮いた油みたいな笑い方をする人だなと思った。

「もう事務所に着くまでの道で手続き始めちゃうけど、年齢と胸の大きさ教えて」
「■■歳■カップです」
「■■歳■カップ、いいね~!」

肉の等級みたいで清々しいなと思った。

あの夜に手のひらから得た確信を忘れることができずに、わたしはマッサージ店の門を叩いた。

あの夜に手のひらから得た確信。
マッサージはセックスの代替品になる。

***

働くことになったマッサージ店では、わりとみっちり研修があった。マニュアルを見ながら身体を押してもらい、今度は講師の人の身体を押してフィードバックをもらう。

身体を密着させる手技が多く、ときどきはうつ伏せになっている人の上に覆いかぶさるようになるものもあった。講師は女性。

「失礼します」

そう言って、講師の上に乗って覆いかぶさる。そのまま施術を続けようとすると「ストップ」と制止された。

「あなた、今怖がっているでしょう」

息が止まった。

「どうしてわかるんですか」

「身体が、ものすごく固い」

まただ、と思った。わたしはいつまでたっても身体が固い。すっかりしょげ返っていると、講師の女性はこう言った。

「あのねぇ、怖がらなくていいのよ。あなた、体重をかけると相手に負担をかけるって思っているでしょう。男の人はね、女の人に寄りかかってもらって体重をかけてもらうのがうれしいんだって」

「えっ、体重をかけてもらうのがうれしいんですか!? 何ていうか、男の人って、変ですね……」

腰にまたがったまま、呆然とするわたしを見ながら、講師の女性は身をよじらせて笑った。

「男の人っていうか、人間誰しもそうじゃないかなぁ。心を許してくれるって安心するんじゃないかなぁって私は思うけど。さぁ続けて」

そんな流れで、研修はまた再開された。

――体重をかけてもらうのが、うれしい。

手のひらに人と書いて飲み込むような思いで、頭の中で何度も唱える。
わたしは恐る恐る、だけど徐々に脱力して、体重を乗せきった。

講師の女性はリラックスしたような表情をしている。
体重をかけると、人は安心するらしい。
安心が伝播したのか、わたしもホッとした気持ちで施術を続けた。

***

デビューしてからはいろいろなお客さんが来た。

60代の方もいれば、若い方も。
終始喋り倒す人もいれば、声を聞かずに帰る人もいた。

マンションのワンルームが1人1部屋割り当てられ、セラピストはそこでお客さんを待ち、施術をする。

基本的にみんな紳士的な対応だったけれど、隙あらば押し倒してこようとしたり、身体に触れてきたりした。「こんなところで働いて可哀想に」とか「ブスなんだから身体売らなきゃ客がつかないぞ」と言われることもあった。驚いたけど、それほど傷つきもしなかった。このワンルームで起きていることはファンタジーだからだ。

***

よく現実に対して「水商売は地獄だ」という人がいる。確かに水商売は地獄かもしれないが、そうばかりとも思わない。マッサージにくる人は少なくとも金を払っている。そして、横暴に振る舞えるセルフィッシュなファンタジーはワンルームを出た瞬間に終わる。言われれば悲しい気持ちにはなるけれど、少なくとも“金を払っているから”できることだという自覚があるだけまだマシ。

本当の地獄は現実のほうだ。

正義だの善意だのを振りかざして「お前のために」と言いながら、他人の心とか身体とか時間とかお金とかあらゆるリソースを食い散らかす。友人だと思っていた人間が至近距離から刺してきて、自分を正当化する。構造的には水商売で起きることと何ら変わらないのに、現実はフィクションではなく現実であって、対価も支払われないうえに出口がない。

現実がフィクションだったらいいのになと思う。家の外にある電柱も、学校も、郵便局も、全部が全部よくできた舞台セットだったらいい。

この世界は舞台であって、人間は演劇で成り立っていることになってほしい。
夜になって世界が暗転して、目覚めたら希望のある舞台に転換されていてほしい。

わたしたちは性懲りもなく、つまんなくて狂った台本を正解として読まされる。
そして、複唱するうちにその台本が脳にインストールされるのだ。

***
ある日の出勤日、ドアを開けると、1人の若い男性が立っていた。
端正な顔立ちの人だったが、怒っているのかと思うほど無口だった。

シャワーを浴びてもらい、施術を始める。

「背中、乗っちゃいますね」

そう言ってまたがり、身体に手をつくと、あまりの硬さに驚いた。こんなに力が入っていてはとてもじゃないけれど、施術はできない。

「全身の力を抜いてください」

そう言いかけて、ハッとした。
この人は、わたしと同じなのだと思った。

わたしだったら、何と言われたら力を抜けるだろう。
焦りを悟られないように、脳をフル回転させる。そして、思い出した。

「■■■さん、ごめんなさい。わたし、何か今日緊張しちゃったみたいで。申し訳ないんですけど、隣に寝るので、一緒に深呼吸してもらっていいですか?」

■■■さんは一言、「え」と言い、仰向けになった。わたしは隣に寝て、■■■さんの身体の中心、胸のあたりに手を置く。

2人で呼吸を合わせて、深く息をする。ゆっくりと膨らんではへこむ身体は、海の満ち引きのように感じた。

セックスの代替品としてのマッサージが身体に落ちてくる。
わたしはつながるセックスを知らないが、きっとこんな感じなのだろう。
確証は持てないけれど、きっと、恐らくは、わたしたちはつながっていた。

10分ほどそうしていて、もう一度背中に乗ったとき、身体はもう固くなかった。わたしも安心して体重を乗せた。その後の施術もスムーズだった。

帰り際「また来てね」と声をかけると、「ごめんなさい、お名前なんでしたっけ?」と聞かれた。

「篠宮澪です」

そう言って渡した名刺を■■■さんは大事そうに見つめた。

「澪さん、ありがとうございました。近いうちにまた来ます」

「行ってらっしゃい、気をつけてね」

ドアを閉めてからもスコープ越しに■■■さんを見送る。
渡した名刺を何度も何度も見返して、エレベーターに乗り込んでいった。

それからほどなくして、わたしはマッサージ店を辞めた。


8.それでも、わたしはつながりたい

マッサージ店をやめてからも、例の身体の賢い彼にわたしはプライベートで施術をした。圧を加えるとゆるむ彼の顔を見ていると、渇いた心が呼び水をして愛おしさでいっぱいになる。彼自身も面白い人間だったので見ていて飽きないし、そういう意味でも好きだったけれど、彼の身体がとにかくも愛おしかった。

そんなある日、わたしは突然フラれてしまった。彼は、

「セックスには意味がたくさんありすぎるよ。■■■さんとは身体で繋がるのは違うと思う」

と言った。

君の身体やセックスが嫌いだとかそういうことじゃないし、君の考え方は尊敬しているからまた会っておしゃべりしようと重ね重ね言ってくれたけれど、身体で向き合うことを教えてくれた彼はわたしにとっては圧倒的に“身体の人”だった。「今までありがとうございました、また会いましょうね」と言ったし、これから会うこともあるだろうけれど「終わってしまったな」と思った。

わたしの性格や思考なんてそっちのけでよかった。“身体の彼”には身体で選ばれたかった。

彼は言葉をいろいろと選んでくれたけれど、結局は「好きじゃないから抱くのがキツい」ということみたいだった。セックスに「好き」がそんなに大事かな、と思った。何でみんな、好きな人とじゃなきゃセックスできないっていうのかな。

みんな当たり前に“つながる”を享受して、
セックスは愛だとか言い出す、

ムカつく、
そんなに崇高なものかよと思う

経験がないわけでもない、
むしろ嫌というほど身体を重ねたのに、
人数ばかり増えて、

わからない、わたしだけ、セックスがわからない。

***

それから数カ月が経ったころ、1人の男性と知り合った。彼はわたしの文章を読んでいて、わたしも彼の作品を見ていて、何となく気になっていて、いざ会ってみて、「あぁ、会わなきゃよかったな」と思った。

彼はわたしに心を開いている、わたしも彼に心を開いてしまっている、彼は入ってきた、たった紙一枚分の心の隙間にするり入ってきた、傷ついてしまう、傷つけられてしまう、男の人はいつだってそう、何もしないとか大丈夫だとか言って人の心に土足で入ってきて傷つけておいて良心の呵責に耐えられなくて正当化して去る。

帰らなくちゃと思いながらも名残惜しくて、小料理屋を出てからもズルズルと足を引きずるように2人揃ってカフェに入ってコーヒーに口をつけながら時間を引き延ばして、結局カフェが閉店の時間になって、わたしは「帰りたくないでしょうし、帰ってほしくないですが、これ以上あなたを好きになるのが恐ろしいので帰ってください」と言った。彼は「僕もあなたをこれ以上好きになるのが怖いですが、帰りたくありません」と言って帰らなかった。

30分以上、家の前で押し問答をした後「何もしないから」と言ってきた彼に「何もしないでね」と言って、足の踏み場のない部屋に入れた。諦めて入れた。何かしてくるだろうなと思った。だけど結局、彼は何もしなかった。

「なんで何もしてこなかったんですか、わたしのことを性的対象として見ていないとか?」

何もしないでね、と言ったし、本当に何もしないでほしかったのだけれど、何もされないと不安になる。

「だって、あなたが何もしないでねって言ったから」

彼は不思議そうに目を丸くして、ほんの少し泣きそうな顔をしている。何もしないでね、と言っても何かしてくる人ばかりだったから、言葉が通じたみたいで変な感じだ。この人には言葉がちゃんと通じるのかもしれない。

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1週間後、わたしは意を決して「わたしは死ぬほどセックスが怖いのですが、あなたとセックスを試してみたいのですが」というようなことを言って、彼を誘ってみた。

気持ち良くさせてあげたいなと思いながら、こんなことをしたら嫌われるんじゃないかと思いながら、恐る恐る触れてみる。

ここは大丈夫だった、ここは違うみたいだ、これは強すぎた、優しく、爪を立ててしまった、傷つけないように、優しく、優しく、よく観察する、小さいサインを見逃さないようにする、

わたしが触れられるとき、言葉をつかう、ここは良いとか、もっとこうとか、場合によってはやってみせる、伝えようとすると自分を聴くことになる、わたしは相手を見て、わたしを聴いている、愛というよりも恐らくは受け入れられているという安心感、身体をおしなべてほどいていく、打算も遠慮も理性もない、まるで生きているみたいな心地がした

「あの、感想を言ってもいいですか」

事を終えて、わたしは言った。

「好きな人間同士でのセックスって、頭も気も遣うことがなくて、何ていうか楽でいいですね。身体がとても解放される気がします。ちなみに、■■■さんは好きではない人とセックスをしたときはどんな気持ちがしましたか?」

そう言うと、彼は「好きではない人間同士のセックスなんて成り立たないでしょ」と言って笑った。成り立ってきたように思っていたけれど、そうなると好きではない人間同士のあれらはセックスではなくて、セックスごっこだったのかもしれないなと思った。

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結局、彼とは付き合うことにした。

観察していると、どうやら彼はわたしのことが本当に好きみたいだし、それはわたしも同じみたいだけど、好きという気持ちを伝えたいなと思ってもどうしたらいいかわからない。

ごっこ遊びの世界では、モノをあげるとか気持ちよくさせてあげること、好きと言葉にすることが愛情表現だったけれど、モノをあげればあげるほど、気持ちよくさせてあげようと躍起になるほど、好きと言えば言うほど空虚な気持ちになってきて、きっとこれは現実世界ではレプリカなのだろうなということはわかる。好きな気持ちを伝えることを知らないなんて恥ずかしいし、難しい。

手っ取り早く正解を知って、役を演じたほうが楽。
でも、確固たる正解なんて、そもそもないのだ。

相手は人間だし、身体は生きているし、正解は0.1秒単位で更新される。好きと言っていた0.1秒後に嫌いになっているかもしれないし、身体は正直だなんて嘘、口だけでなく、身体も無意識に嘘をつくこともあると知っている。

本当の気持ちなんてわからないことをわかりあいながら、それでもできるだけわかりあいたいし伝えたい、手から伝わる温度と圧、情報の多さ、言葉よりも触れるほうが早いし確実、心の距離は目に見えなくて不安だからという理由で、あるいは理由なんてないけど身体に触れて、極限まで触れ合ってもなお、脳が同期したり、同じ人間になったりなんてできないことを思い知る。

それでも、できるだけ他人に近づきたい、生きているうちは、身体を通じて。

手も足も胴体もある、しかし、正解がないと動けない不器用な身体。

それでも、わたしはつながりたい。



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