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等身大の希望 ―『表参道のセレブ犬とカバーニャ要塞の野良犬』を読んで

若林正恭さんの『表参道のセレブ犬とカバーニャ要塞の野良犬』を読んだ。

この本は、若林さんの旅の記録だ。キューバ、モンゴル、アイスランドに若林さんはひとりで行く。

紀行文であると同時に、日本という国を外から眺め、生きづらさの正体を探るための内省の記録でもある。
交際相手にスペックという言葉が使われるのはどうしてなのか。「コミュ障」「意識高い系」「マウンティング」「オワコン」という言葉への違和感は何か。東京という灰色の街に色を与えるために、父親の死を誰の目も気にせずひとりで悲しむために、若林さんはキューバへ向かう。

「同調圧力と自意識過剰」。わたしたちの社会に蔓延する空気の元凶を経済システムに見出し、その外側へと飛び出してみる。これでいいのだろうか、と考え続ける。若林さんのその姿勢をとても誠実だと思った。


わたしは、灰色の街の構成員だ。いつの間にか、他者の目を意識して上下の物差しで判断する、色のない社会の構成員になっていた。

大学の進路は、学部ではなく大学名で選んだ。少しでも偏差値の高い大学に入れば、世間的な見栄えがするだろうと本気で思っていたからだ。就職活動で受験したのも、すべて“聞いたことのある”企業だった。やりたいこととか、軸とか、正直よくわからなかった。

交際相手を選ぶ時も、スペックを度外視しているとは言えない。学歴、年収、将来性。相性を考えるより先に、おそらくは無意識に判定の材料に組みこんでいる。

恋愛リアリティショーを「あんなのくだらない」と切り捨てられず、見栄の世界を冷笑的に鑑賞する俗物であり、「うさんくさいな」と思いながらも、人より秀でるためのメソッドを語るYouTubeを見て、まんまと啓発されたりしている。

まだまだある。まだまだ。結婚して子どもがいる友だちの前では、つい「ばりばり働く女性」を演じてしまう。「あえての」「逆に」というポーズばかりで、本当は何を欲しているか見えなくなっている。何かに違和感を持ってもニコニコして、その違和感ごと消し去ってしまう。自分を諦めていて、そのうえ自分にめちゃくちゃ期待している。

「このままではいけない」という奮起と「そんなに甘くない」という挫折を無限に行ったり来たりしながら、なるべく円滑に円満に、人よりちょっと上を目指す。


我慢という名の諦め。努力という名の見栄。成功という名の空虚。気がついたら内蔵されていたシステムを、気がついたら自動操縦している。世間の価値観に迎合し、そのルールを受け入れて、灰色の世界で溺れないようになんとか息をする。

若林さんは幼稚園の頃、「大きな栗の木の下で」を歌うのがいやで帰ってしまう子どもだったと記していた。
わたしは小学校の遠足で、靴の中に小石が入っていることに気づいても、違和感を無視して歩き続けるような子どもだった。違和感を取り除くより、集団の歩みの方を気にしてしまうからだ。

高校の頃自分のわがままを貫くクラスメイトを、「変なやつ。困るよねああいうの」と困った顔をしてわかった風に笑う、大多数にいる人間だった。

本当は異端に憧れていた。だけど安全な場所から、都合よく憧れていた。そして気持ちに蓋をしていた。蓋をし続けていたらそこに何かがあった痕跡さえ、もうわからなくなった。

この灰色の街にわたしは適応できているのだろうか。そう見えるのだろうか。無害に存在しているだけで、わたしはまったく適応できてはいない。

「苦しい」「いやだ」と叫ぶ言葉を見つけられずにいたけれど、ずっと苦しかったし辛かった。他者の視線、他者の評価。みんなと同じがよくて、みんなと同じはいやで。もういい加減に、わたしは自分を取り戻したい。


若林さんはキューバで、その後の旅のなかで、何に気がつき、何を見つけたのか。その答えはこうだ。

新自由主義の競争は疲れるし、社会主義の平等には無理があった。でも、それは行く前から知っていたような気がする。
〜中略〜
この目で見たかったのは競争相手ではない人間同士が話している時の表情だったのかもしれない。
ぼくが求めていたものは、血の通った関係だった。
(P.207より)
新自由主義と資本主義の中で生きていくことは、格差と分断の中で生きていくことだから基本的にはずっと生き辛い。時に資本主義の外的価値に心を乗っ取られ、時に血が通った関係と没頭によってそれを打破する。それを繰り返していくしかないのだろう。
(P.334より)

勉強不足のわたしには、この生きにくさが新自由主義に由来するものだと、まだはっきりした確信は持ててない。しかし、この息苦しさを瞬間的にでも打破するものが「血が通った関係と没頭」だというのは、なんとなく共感できる。

一発逆転の必殺技なんてものはなく、わたしたちの現実を救うものは、時として地味で、確実で、手触りのあるものでしかない。

矛盾した世界で自分を調整しながら、進んでまた戻ってを繰り返しながら、二元論の対極にある世界でベターを探りながら、わたしたちはこの現実で生きていく。

若林さんはこの本をとおして、足掻いている姿を見せてくれた。目を逸らさず、諦めず、生きることへの苦悩や葛藤と対峙していた。その姿は、ひたすら誠実にわたしには映った。

少年漫画で語られるようなでっかい希望や、即効性のある魔法の言葉はいまの自分にはいらない。生きるということは、悩み続けることなのかもしれない。悩んでいてもいいのかもしれない。悩みながら、誠実に、わたしも生きていきたい。

現実を生きるために必要な等身大の希望を、この本をとおして若林さんからもらった気がする。


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