本来の自分と『はみ出しの人類学』について
こそこそと実家に戻ってきて今日で4日目。穏やかで単調にすぎる毎日に昨日と一昨日の区別がつかず、いよいよ曜日感覚がおかしくなってきた。
実家でやることと言えば、ご飯を食べ、少し離れた場所に住む祖母の家に出向いて除雪をし、洗濯や掃除といった細々とした家事を手伝い、それ以外は基本的に本を読んでいる。リスクを考えてスーパーなどにも出かけないので、していることと言えばあとは犬の散歩くらいなのだが、それでもぱたぱたと時間はすぎて気づけばあっという間に寝る時間だ。
そして起きれば、判を押したように同じ1日が始まる。
家族がいて孤独から解放されているせいなのか、めずらしくスマホもほとんど触らない。テレビも距離の問題なのか、いつもよりことさら”自分とは無関係”の別世界のことに感じる。
そんな隠遁生活のような日々を送っていると、ふと「東京にいる自分」というのは、はりぼての偽者なんじゃないか? という疑念に駆られることになる。
中学生の頃に着ていたウインドブレーカーの上下を身にまとい、母親の毛糸の帽子を被って、長靴を履いた姿で、必死に雪と格闘するこの自分が「本来の自分」なのではないか、と考えてしまう。東京にいて、何万円もする服を買ったり化粧品にお金をかけたり、映画だ本だ音楽だと文化を追いかける自分が、微細な差異を執拗に追いかけているだけに映る。「東京にいる自分」って、不相応な無理をしているんじゃないか? なんて疑ってしまう。
ようは2つの自分のギャップに戸惑っているという状況なのだが、そういえば毎回帰省するたびに、自分はこの現象にもやついていた。それが昨日からたまたま読んでいた本に、この状況への考え方が書かれていてはっとしたので今日はそのことを書きたい。前置きが長くなりました。
昨日からわたしが読んでいたのは、『はみ出しの人類学』(松村圭一郎著/NHK出版)だ。
NHK出版から出ている「学びのきほん」シリーズは、さまざまな著者が1テーマを解説する授業のような形式の本で、いずれもコンパクトな文量なので、入門編にぴったり。素人にも大変手に取りやすくとっつきやすいシリーズだ。
この本では、著者の松村さんが「人類学」という視点をとおして、無数の異なる「わたし」が生きる世界をどう捉え、考えていくかを分かりやすく丁寧に語っている。
先の「本来の自分」云々に関してのわたしの判然としない気持ちに、松村さんは下記のような見解を記している。以下、引用。
私たちは、つねに複数の役割をもって生きています。それは、だれと対面するかによって、「わたし」のあり方が変化しうることを意味します。家族のなかの「娘」は、「親」や「兄弟」との関係においてあらわれる「わたし」のあり方。部活の「先輩」は「後輩」抜きには存在でいません。「先生」と「生徒」も同様です。「生徒」の存在によって、その人は「先生」であることができる。
このようにすでに私たちは状況に応じて複数の「わたし」を生きています。
状況や相手との関係性に応じて「わたし」が変化するという見方も、まさに「分人」的な人間のとらえ方です。潜在的には、「わたし」のなかに複数の人間関係にねざした「わたし」がいる。だれと出会うか、どんな場所に身をおくかによって、別の「わたし」が引き出される。
そういえば、以前に読んだ平野啓一郎さんの『わたしとは何か 「個人」から「分人」へ』も、まさにこのアプローチだった。「自分」というのは分けることのできない1つだと思うから、「本来の自分」みたいな発想が生まれるのであって、(広い意味での)他者と出会うことによって、さまざまなわたしが引き出されていると考えれば、いろんな側面や矛盾があったとしてもなんの不思議もない。
だから、めちゃくちゃあっさりした結論だけど、東京の自分も、北海道の自分もどちらも自分。それでいい。「本来の自分」なんて考えるから迷子になってしまうのだ。
そして、自分はもちろん、わたしの周辺にある「世界」だって触媒によって表出する面が変わる存在だ。どうしても、わかりやすく一つの側面で判断してしまいがちだけど、世界や他者も、状況に応じた形で柔らかく形が変わっていく存在だということを忘れないでいたいなと思った。自分のルールを、世界の捉え方にも適用したい。
いろんな自分があってよくて、自分は場合によって変わっていくもの。ついつい「こうあるべき」にガチガチに縛られてしまうわたしなので、人類学の視点によって、世界が開けて、自分を肯定できる考え方を教えてもらった気がする。
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