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『JR上野駅公園口』を読んで

このところきちんと本と向き合う時間を持てていなかったけれど、きょうは久々の読書記録。

柳美里さんの小説『JR上野駅公園口』を読んだ。手に取った理由は、もちろん全米図書賞を受賞し再び注目を集めている作品ということがある。それに加えて、最近は福祉や社会に対する問題意識が少しずつ自分のなかに芽生え始めてきたことが大きい。そういう現実とちゃんと対峙したい、しなければ、という気持ちを最近持つようになった。

ご存知の方も多いと思うが、この小説は上野公園に暮らす路上生活者について描かれている。一般に「ホームレス」と呼ばれる人たちの生活の一端がどのようなものか、なぜその状況で暮らし続けるのか。柳さんが丹念に行った取材と、悲しく美しい情景描写によって、路上生活者という言葉では括ることのできない“ひとりの男性の人生”が切実に胸に迫ってくる作品だ。

わたしは基本的に、世界は明るくやさしく、希望にあふれたものであると考えている。でもそれは“目を向けられないもの”から、都合よく目を背けている結果なのかもしれないと思った。
もしかしたら、暗さの上に構築された、地盤の脆いハリボテのやさしい世界なのかもしれない。

上京して初めてホームレスの方を見た時、わたしはその存在にすごく驚いたしショックを受けたはずだった(北海道にはそういう人はあまりいなかった)。しかし、いつからかわたしは、その人たちを見ても何も心を動かさないようになっていた。それどころか、あたかもそこにいないように目を伏せて通りすぎた。
見えているはずのものが、いつの間にか“見えなく”なっていたのだ。

その態度は、すごく残酷な話だけど、「ホームレス」と呼ばれる方たちを対等な人間として見なくなっていたことの現れのようにも思う。
ショックだったはずの出来事が目の前にあるのに、「自分がそうなったらどうだろう?」と同じ世界線で考えることを放棄して、”別世界の人”という括りに勝手に押しこめていたからだ。そうした都合のよい解釈で、利己的に心の平穏を保っていたのだと気がついた。

「異世界の住人」と考える思考は、最近頻発しているホームレス殺害事件の犯人のそれと何が違うのだろう。そう考えたら、酷い行いをした犯人たちとの差異より、共通性の方が目について、自分自身が恐ろしくなった。

だからこそ、この小説は読んでいて痛かった。のんびりやさしい世界に暮らしているはずの自分が、実は、残酷で心ない目線を持っていたことを露わにされた。そして、もっと恥ずかしく滑稽な事実は、その目線を持っていることさえ自覚せず「自分はいい人間だ」と慢心していたということだった。

この本は、とても薄い文庫本だけど、読後は鈍器で殴られたような強烈な痛みがある。でもその痛みで、いままで曇っていた世界をわたしの目の前に提示し、はっきり自覚させてくれた。そしてまた、わたしだけではなく多くの人の目を覚ます作品だとも思う。

この本を読んだら社会の暗い側面が頭をもたげてしまうけど、知らずにのうのうと暮らすより、そこに目を向けて自分の非力さに悩み続ける方が誠実な姿勢だという気がする。一部の人間だけのやさしい世界で生きるのではなく、たとえ葛藤を抱えたとしても、視野狭窄にならない生き方をわたしは選びたいと思う。痛く、切実で、とてもよい読書体験だった。

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