見出し画像

“頑張らなくていい”の功罪

こんばんは。
今日たまたまタイトルのような言葉を聞いて、何やらモヤモヤしたので整理のために珍しくこのようなテーマでお話し。

はじめに言っておくと別に死ぬ気で頑張るのがいいに決まってんだろって話ではなくて、その言葉の真意は額面通り全員が受け取っていい真理では無いだろう、ということです。

最近の世間では頑張らないで生きることを推奨するような、嫌なことは避けていこう、というようなメッセージをよく見かけますし、若い人を中心に支持を得ている気がします(と僕は思っています)。

実際僕もその言葉に安心して救われる時もありますが、 それと同時にこの言葉に逃げている自分自身に気づくことがあります。

そもそもこの言葉は死ぬ気で頑張った、頑張りすぎてきた方々へのお疲れ様の言葉であるはずですが、一部の人への免罪符のような言葉として誤解されている気がします。

事実としてなんらかの形で頑張らなくてはいけないのが今の社会です。内的な動機付けがある人は勝手に頑張りますが、勉強も仕事も内的な動機によって頑張る人は少ないと思います(仕事や勉強をしなくていいならしたくない人の方が多いはず、、、)。ほとんどの、すでに内的な動機が無い人に対して、“頑張らなくていい”はサボる動機付けになると思われます。

つまりその言葉は直面する課題を先送りにさせる可能性のある無責任な言葉にもなりうると思われます。先送りにさせてもどこかで頑張る必要があるし、問題が大きくなる、などの状況を生む要因になりうるわけです。苦手なことを避けることを助長し可能性を奪う行為になり得ます。頑張った方が可能性が広がるのは確かなはずなので。

このようなことから翻って自分自身について考えなければいけないと思います。私は“頑張らなくていい”を言い訳にしていないか、ということです。頑張らなくていい、と聞き安心した私は何に安心したのか。死ぬ手前まで頑張っていたからそんなに頑張らなくてもいいと知り安心したのか。私の場合は否です。多分頑張らなくても責められないし、 と免罪符をもらったような気持ちになっただけだったと思います。あくまで僕の場合は、ですが。それぞれがそれぞれの納得いくラインまで頑張れば良いともちろん思います。ただその納得のいくラインを、その可能性を安易に狭めてはいないだろうか、と私自身に感じるわけです。

頑張りすぎて、もう“頑張らなくていい”人はいます。必ずしもめちゃくちゃ頑張らなくてはいけないことも無いのかもしれません。しかし頑張らなくてはいけない場面があるのは確かであります。優しい言葉ですが、安易に飲み込む、もしくは人にかける時には危険性があることも知っておくべきで、私自身も特に頭に入れておきたいと思っています。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?