AIと一緒に、創作と仕事の未来を考えてみた。
どうもこんにちは。インターネットで練り物をする傍ら、歌をうたっております、笹かにかまと申します。
今日は創作とシンギュラリティと資本主義経済の話を書きたいのですが、どんな書き出しをしたものか考えあぐねたので、「AIのべりすと」という、AIが文章の続きを自動生成してくれるソフトに続きを書かせようと思います。
壊れちゃった、、、(´;ω;`)ウッ…
もう、自分で書けということです。まさか23歳にもなって人工知能にたしなめられるとは思わなかった。
でも、いまやAIがどれくらいおもしれ~文章を書いてくれるか、皆さんにもおわかりいただけたでしょうか?
こうした「AIが文章を書いてくれるwebサービス」は他にもいくつか転がっており、無料で利用できるものもたくさんあります。
これからの時代、創作者がAIとの対話を繰り広げて、ものづくりをおこなうスタイルが浸透していくんじゃないかな。
さて、さきほどAIのべりすとくんが書いてくれた文章を見て、皆さんある程度は「おもしれ~」と感じてくれたんじゃなかろうか。
その「おもしれ~」はどこから感じたんだろう。
何が人の心を打つんでしょうね、ということを考える学問分野、そこそこあるっぽい。勤勉でない大学生なので、その辺詳しく語れなくてごめんね。誰かその分野ちょっとかじってたで!という人がいたら、コメント欄に参考文献とか貼ってほしい、、、おねがぁい、、、
「物事に対する、人間の感じ方/捉え方を、良い感じに定量化して分析しちゃおう」という研究は、文章以外でも、音楽や絵画、ビジネスシーンなど様々な領域で、既に行われているみたい。
保井ら. ありがとう最大化ともうけ最大化の対話原理の比較研究 (第1報) (2017)
その研究手法を「AIの作った作品を、人はどう感じるか」という別の対象に応用するだけなんで、「AI作品のどこが人の心に響くのか」という部分は、今後かなりの速度で明らかにされていくのではないでしょーか。
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「AIは人を超えられない」ってマ??
たしかに、AIには人のもつ「心」や「経験」みたいなものが無いから、人の作品を超えるものは絶対に作れない、という考え方もあると思います。
ただ「文法はめちゃくちゃ、内容も支離滅裂」な文章よりも、ある程度のルールに則って書かれた文章の方が、一般的には「人の心に響く」はずです。
そう考えると「人の心を打つ」ことを成立させるものが存在するはずだ。
僕たち普段「めっちゃ響いた、、、」「そんなに響かなかった、、、」って言い方をしますが、この「めっちゃ」「そんなに」を決めてる何かがある。
その上、冒頭のAIのべりすとの文章で見てもらったように、今AIはすでに、僕たちにとって「そこそこ面白いもの」を作れるようになってきている。
つまり、AIが人間の心を打つ「精度」が、上がってきているんです。
これは、AIが人の心を打つ要素を押さえた作品をつくり始めていると捉えられないだろうか。
たしかに、AIは人を超えられないかもしれない。でも、人に肉薄するくらい人の心を打つ「精度」をあげることはできるのではないか。
それでも、ど~しても「人とAIはちがうもん!」という人に聞いてみたいんですが、今この文章を書いてる僕がAIでないことって、どうやって証明できますか?投稿内容を精巧に作り上げた、高性能AIかもしれませんよ?もしAIがそのレベルまで作品を仕上げてきたら、AIとAIじゃないものの違いって、どうやって判断できるんだろう?
まあ僕は練り物なので、AIではないというのは自明ですけども(Q.E.D.)
事実、今の時点で、文章の訓練を碌に受けてない人間よりも、AIはおもしれ~文章を書いちゃってるわけ。やってらんね~よな?!オイ!!!
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「創作のシンギュラリティ」が起きる瞬間
「心を打つ『精度』が在る」という考えが、AIの普及により一般化すれば、「心を打ったね度」みたいなものを定量化したり、それを元に何か分析ができないか、という研究が発展していくだろう。
そのうち「この研究、手法をプログラム化してコンピュータにやらせようよ」って言いだす、頭良いめんどくさがり屋が出てくるはず(というか多分既にいる)
そうなると、何が起きるか。
つまり、AIが作品をつくって、人間様からお伺いを立てて、それを元に内容を改善して、、、というサイクルが、勝手に回るようになるってコト。
、、、これって、シンギュラリティと言って差し支えないのでは?
だって、AIが実際の社会の膨大なデータを分析して、そのトレンドを元に、対応策を爆速でトライ&エラーしてくれるようになるんだぜ?
もうそうなったら、一つ一つの作品を時間かけて作っている人間の処理能力では、AIの打ち出す「弾数」には太刀打ちできない。もしそうなれば、試行錯誤の回数で、人よりもAIの方が「バズる作品」を打ち出しやすくなるのではないか。
シンギュラリティが起きた世界では「大衆ウケする(=ヒットする)作品/商品/サービス」というのは、AIが勝手に作ってくれるようになるのかもね。
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じゃあ人間にしかできないことって何だ!!
シンギュラリティの起こった世界では、人類は今以上に「AIにできなくて、人間にはできることって何だろう」を探してくことになる気がする。
19世紀に写真機が開発されたことで、芸術家たちの価値観が「写実的なもの作れるのがええですやん」から「カメラで表現できないものを作らなアカンとちゃうんかい」に変わっていったように、
AIが創作物(賛否両論ありそうだけど、芸術に限らず、サービスや商品デザインなどのビジネスの産物も含ませてね)をポンポン生み出すようになった世界では
「じゃあ僕たち人間には何ができるんだ?」
「僕たちにしかできないことって何なんだ?」
という問いが、今よりも強く問われていくことになるんじゃないかな。
ここからは、というか、ここからも、僕の妄想ですけども。
僕たち人間にしかできないことって何だ?を考えた先にある、これからの仕事のあり方について、分からないなりに語ってみたい。
AIは「みんな」という、人間の認知力では扱いきれない、大きな集団の分析(=統計)を得意としてるでしょう。
ということは、人間に可能性があるとすれば、その逆振りなのではないでしょうか。つまり「統計から零れ落ちてしまうような外れ値=突飛で奇抜なアイデア/偏見」に価値が置かれるのでは。
AIには、いま世界に多く存在している価値観をみることしかできない。
(少数の人間のイカれたアイデアをいちいち取り込んでいたら、システムがぐちゃぐちゃになっちゃうからね、、)
だからこそ、世の中に大きなイノベーションを起こすような「イカれてる考え方」を持ってるヤバいやつが、より重宝される時代になってくるのではないでしょ~か、知らんけど。
ただし、どんなイカれた考え方も、社会の人々から共感されなければただの世迷言止まり。だからこそ「その人がどんな人生経験からその考えに至ったのか」という自己分析や、そのストーリーを分かりやすく人に伝える手法(言葉に限らず、絵や写真やオブジェクトや音楽やダンスや事業やコードなど、様々な道筋があると思う)を磨くことが、今後いっそう重要視される世の中になるんじゃないかな。
正直、ネットや本棚の海を探せば、僕と同じ内容やその上位互換をゆ~てる人はゾロゾロ出てくると思うけど、それを「僕と同じ伝え方」をしてる人はそんなに多くないと思うので。
「そんなん誰でも知ってるよ!!バーカ!!」ってことを、さも面白そうに伝えてくる憎めないやつも、AIが「正解」を否応なく提示してくる世の中でなんだかんだ可愛がられるんじゃないか。にゃーん。
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シンギュラリティと資本主義経済について
資本主義経済では、徹底的な「分業化」を図ることで、成長を遂げてきた。
ひとりひとりが一つの製品を1から100まで作るより、
「あなた、針金を延ばしてね~」
「あなた、針金を切ってね~」
「あなた、先端を尖らしてね~」
「あなた、頭を丸めてね~」
という行程を別々に担当させた方が、生産効率が上がるよね、ということをアダム・スミスって奴が「国富論」の中でゆーとりましたわ。
資本主義市場においては「この人しかこの仕事できません!」という状態は「ヤッベ~状況」であり、徹底的な脱・属人化と、基本的な能力があれば誰でも再現可能なマニュアル化が尊ばれてきた。
しかし、シンギュラッちゃった社会では、この価値観が一変し「属人的なもの=この人にしかできない/言えないこと」に経済価値が生まれるのではないでしょーか。
だって、普遍的なことはAIが高い精度で教えてくれるんだもん。
そういう情報が、機械によって簡単に供給されるようになることで、こうした「正解」の希少性はどんどん下がってくる。
そして相対的に「個性」というものが、つまり、間違ってるかもしれないし、偏ってるかもしれない、僕たちひとりひとりの生きてきた証が、重要視される社会が到来するのではないかな。
こうなってくると、ビジネスの市場としては、マズローの5段階欲求説における「自己実現」の分野がよりいっそう開拓されていくだろう。
自分はどんな人生を送ってきて、何を愛し、何に傷つき、そしてその視点をもって、今の世界をどう見るか。
その道を社会に示せる仕事を、僕は将来やり続けたいなあと思う。
とりあえず、その前に大学を卒業せねば。(卒業研究、、、)
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